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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。
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柔らかな光が、瞼の向こうに見えた気がした。
夢の淵からそっと目を覚ました私は、自分の家とは異なる光景に一瞬上体を起こしかける。それでもここがどこなのかを思い出し、柔らかな毛布の中に再び身体を落ち着かせた。
この場所に来るのは、本当に久しぶりだ。
昨夜の事件後、大学からすぐにタクシーに乗り込んだ私は、自宅を経由して無意識にここを目指していた。タンスの奥から引ったくってきた古い鍵を扉に差し込み、軋んだ音とともに視界が開ける。
拍子抜けするほどに何も変わらない空間が、私を出迎えてくれた。
色とりどりのガラスが散りばめられた大窓の下には、人ひとり手足を伸ばすには十分なソファーがここの番を守ってくれていた。残る三面の壁には、扉以外には隙間もないほどの本棚が、寸分狂うことなくきっちりと収められている。
棚の中には様々な表情を浮かべる書籍たちが静かに佇む。目一杯に深呼吸をすると、少しの埃と地に根を下ろす大木に似た薫りがした。
町外れにある、平家建ての書籍館。おじいちゃんが私に遺してくれた、最高の贈り物。昔も今も、やっぱりここが一番安心する。
「今……何時だろ」
携帯電話を探そうとした手を途中で止め、腕時計に視線を落とした。十時過ぎか。どうりで窓からの日差しが眩しいわけだ。
タクシーを乗り回して必要最低限の生活用品は持ってきた。とりあえず、コーヒーでも煎れるかな。
ぐしゃぐしゃになっている髪の毛を化粧ポーチの中に入っていたシュシュでまとめる。すると不意に、鞄の奥底に詰め込まれていた一冊の本と目があった。
心酔している作家の小説。アイツと出会うきっかけになった、あの時の。
「もう、貴方を読むこともないかもね」
手に持った小説をそっとソファーの上に寝かせ、私はヤカンの火を止めてコーヒーを煎れた。
さてと。今日はどうしよう。久しぶりにここの本を片っ端から読破していこうか。時間は有り余っている。
ソファーに戻った私は、横座りに脚を投げ出して腰を下ろした。マーガリンもジャムも塗っていない食パンを、コーヒーに浸しながらもくもくと頬張る。瞬間、おじいちゃんが顔を真っ赤にして怒声を発しそうな格好だな、と可笑しくなった。
「ねぇおじいちゃん、」
私ね。また、ひとりぼっちになっちゃったよ。
虚空に吐き出した瞬間、目の奥がぐにゃりと緩んだことに気付く。
咄嗟にきつく目を瞑り惨めな衝動をやり過ごした。別に誰も居ないんだ。エゴでもおいおいと無様に泣けばいいのに。こういうところが本当、可愛くない。
「さてと。それじゃひとまず、この辺りから読み潰しますか」
覇気のない声を漏らして、本棚に並ぶ背表紙を指で撫でていく。
ここの本は、いまだに全てを完読できていない。これを機に読み進めるのも悪くないだろう。そう思い本棚に手を伸ばした時、ふと感じた気配に書籍に引っかけたままの指先がぴたりと止まった。
呼び鈴が鳴ったわけではない。それでもこの建物の周辺は人気も少ない分、微かな物の気配でもすぐさま肌に伝わる。
誰?
この場所を知っているのは、家族以外には薫だけだ。電源を切ったままの携帯電話をちらりと見遣る。せめて薫には一言メールを入れておけば良かった。
「杏ちゃん」
外から、一際小さな呼び名が聞こえた。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
ソファーの端に腰を下ろした透馬は、テーブルに置かれたコーヒーカップに目を落としたままだった。こころなしか髪型が乱れ、こめかみは薄く汗が滲んでいた。
「携帯……電源、切ってた?」
沈黙を破った言葉は、責める口調ではなかった。私はマグカップで両手を温めながら、小さく息を吐く。
「うん」
「みんな、心配してるから。奈緒ちゃんも、栄二さんも……薫君も」
「あの後に……薫と会ったの?」
「奈緒ちゃん通じでね。ここの場所は、薫君が教えてくれたんだ」
予想以上に一大事になっていたらしい。耳にして第一に感じたものは、罪悪感よりも倦怠感だった。
予め周りに言って回らなければ、一人になることも許されないのか。
「中学の時にね。ここの鍵を、クラスメートの男子に盗まれたことがあったの」
マグカップをテーブルに載せ、私はソファーの上で膝を抱え込む。
「その頃はもう、私はクラスの女子からターゲットにされてた。それに男子が乗っかった。放課後の教室で鍵を必死に探す私に、その男子は笑いながら提案してきた」
(フリでいいからさ、気持ちよさそうにアンアン喘いでみてよ?)
台詞を口にした瞬間、透馬の纏う空気がふっと変わったのに気付いていた。私は気付かない振りをして、出来るだけ淡々と話を続ける。
「その鍵は入院してるおじいちゃんから託されたものだった。おじいちゃんが動けない間、お前に任せたって。お父さんでも、お母さんでもなくて、私に託して」
「もう、いいよ」
「早くしなくちゃ、この鍵を池に投げ捨てるって言われて」
「杏ちゃん」
「わ、私は……!」
続く言葉を遮るように、透馬の腕が強く回された。
「もういい。話したくないことは、話さなくても」
夢の淵からそっと目を覚ました私は、自分の家とは異なる光景に一瞬上体を起こしかける。それでもここがどこなのかを思い出し、柔らかな毛布の中に再び身体を落ち着かせた。
この場所に来るのは、本当に久しぶりだ。
昨夜の事件後、大学からすぐにタクシーに乗り込んだ私は、自宅を経由して無意識にここを目指していた。タンスの奥から引ったくってきた古い鍵を扉に差し込み、軋んだ音とともに視界が開ける。
拍子抜けするほどに何も変わらない空間が、私を出迎えてくれた。
色とりどりのガラスが散りばめられた大窓の下には、人ひとり手足を伸ばすには十分なソファーがここの番を守ってくれていた。残る三面の壁には、扉以外には隙間もないほどの本棚が、寸分狂うことなくきっちりと収められている。
棚の中には様々な表情を浮かべる書籍たちが静かに佇む。目一杯に深呼吸をすると、少しの埃と地に根を下ろす大木に似た薫りがした。
町外れにある、平家建ての書籍館。おじいちゃんが私に遺してくれた、最高の贈り物。昔も今も、やっぱりここが一番安心する。
「今……何時だろ」
携帯電話を探そうとした手を途中で止め、腕時計に視線を落とした。十時過ぎか。どうりで窓からの日差しが眩しいわけだ。
タクシーを乗り回して必要最低限の生活用品は持ってきた。とりあえず、コーヒーでも煎れるかな。
ぐしゃぐしゃになっている髪の毛を化粧ポーチの中に入っていたシュシュでまとめる。すると不意に、鞄の奥底に詰め込まれていた一冊の本と目があった。
心酔している作家の小説。アイツと出会うきっかけになった、あの時の。
「もう、貴方を読むこともないかもね」
手に持った小説をそっとソファーの上に寝かせ、私はヤカンの火を止めてコーヒーを煎れた。
さてと。今日はどうしよう。久しぶりにここの本を片っ端から読破していこうか。時間は有り余っている。
ソファーに戻った私は、横座りに脚を投げ出して腰を下ろした。マーガリンもジャムも塗っていない食パンを、コーヒーに浸しながらもくもくと頬張る。瞬間、おじいちゃんが顔を真っ赤にして怒声を発しそうな格好だな、と可笑しくなった。
「ねぇおじいちゃん、」
私ね。また、ひとりぼっちになっちゃったよ。
虚空に吐き出した瞬間、目の奥がぐにゃりと緩んだことに気付く。
咄嗟にきつく目を瞑り惨めな衝動をやり過ごした。別に誰も居ないんだ。エゴでもおいおいと無様に泣けばいいのに。こういうところが本当、可愛くない。
「さてと。それじゃひとまず、この辺りから読み潰しますか」
覇気のない声を漏らして、本棚に並ぶ背表紙を指で撫でていく。
ここの本は、いまだに全てを完読できていない。これを機に読み進めるのも悪くないだろう。そう思い本棚に手を伸ばした時、ふと感じた気配に書籍に引っかけたままの指先がぴたりと止まった。
呼び鈴が鳴ったわけではない。それでもこの建物の周辺は人気も少ない分、微かな物の気配でもすぐさま肌に伝わる。
誰?
この場所を知っているのは、家族以外には薫だけだ。電源を切ったままの携帯電話をちらりと見遣る。せめて薫には一言メールを入れておけば良かった。
「杏ちゃん」
外から、一際小さな呼び名が聞こえた。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
ソファーの端に腰を下ろした透馬は、テーブルに置かれたコーヒーカップに目を落としたままだった。こころなしか髪型が乱れ、こめかみは薄く汗が滲んでいた。
「携帯……電源、切ってた?」
沈黙を破った言葉は、責める口調ではなかった。私はマグカップで両手を温めながら、小さく息を吐く。
「うん」
「みんな、心配してるから。奈緒ちゃんも、栄二さんも……薫君も」
「あの後に……薫と会ったの?」
「奈緒ちゃん通じでね。ここの場所は、薫君が教えてくれたんだ」
予想以上に一大事になっていたらしい。耳にして第一に感じたものは、罪悪感よりも倦怠感だった。
予め周りに言って回らなければ、一人になることも許されないのか。
「中学の時にね。ここの鍵を、クラスメートの男子に盗まれたことがあったの」
マグカップをテーブルに載せ、私はソファーの上で膝を抱え込む。
「その頃はもう、私はクラスの女子からターゲットにされてた。それに男子が乗っかった。放課後の教室で鍵を必死に探す私に、その男子は笑いながら提案してきた」
(フリでいいからさ、気持ちよさそうにアンアン喘いでみてよ?)
台詞を口にした瞬間、透馬の纏う空気がふっと変わったのに気付いていた。私は気付かない振りをして、出来るだけ淡々と話を続ける。
「その鍵は入院してるおじいちゃんから託されたものだった。おじいちゃんが動けない間、お前に任せたって。お父さんでも、お母さんでもなくて、私に託して」
「もう、いいよ」
「早くしなくちゃ、この鍵を池に投げ捨てるって言われて」
「杏ちゃん」
「わ、私は……!」
続く言葉を遮るように、透馬の腕が強く回された。
「もういい。話したくないことは、話さなくても」
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