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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。

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「怪我を押してまた無茶してないかと思ったら……案の定じゃん。杏ちゃん」
 宥めるような柔らかな微笑み。散々胡散臭いと毛嫌いしていたその表情が、至極温かく思えた。
 取り上げたカッターの歯を丁寧にしまった透馬は、真っ赤に染まった右手に構うことなくポケットに手を入れる。そのままへたり込んだままの女の前にしゃがみ込み、取り出した何かを見せつけた。
 見覚えのあるそれは、透馬のスマートフォンだ。
「橋本姫乃、二十五歳M大事務員勤務三年目。気位の高い家庭に大切に大切に育てられた一人っ子。世間知らずのお姫様、か」
「な、なにをっ」
「全部、アンタの『お知り合い』が話してくれたことだよ。姫乃ちゃん」
 にっこり笑みを浮かべた透馬に、反抗的だった女の瞳は、何かを悟ったようにさっと勢いを失った。
 本当の笑みが透馬の口元を象る。嘲りの笑みが。
「昨日、夜道で杏ちゃんにキチガイ男を差し向けたのは、アンタだな」
 ひとまず女の狂気が去ったからか、辺りには再び動向を注視する視線が集まっていた。透馬の確信を持った指摘に、女は顔色を青くしながらも首を横に振る。
「し、知らない。何も、私は……」
「そりゃないでしょ。あの男もオイオイ泣いてたよ? 俺の大好きな姫ちゃんは自分しか頼れる男がいないんだって。だから自分が、姫ちゃんの願いを叶えてあげなくちゃいけないんだって」
「ち、ちが」
《――かたなかったんですよぉ。あの子ってばホント、ワガママで寂しん坊だから。今夜のあれだって、本当はやりすぎかなーって思いましたよ俺だって。でも、姫ちゃんが、あの人を上手に痛めつけることができたら、次のデートはサービスしてあげるって言うもんだからさぁ……》
 透馬の血が滲んだ手に握られていた、スマートフォン。それから唐突に流れ出たものは下卑た男の声だった。
 聞き間違えるはずもない、昨夜の暴漢の声そのものだ。
 思わず問いただすように透馬に視線を送る。それに気付いた透馬は、小さく肩を竦めた。
「今の携帯電話は録音も簡単にできてほんと便利だよね。ネジが緩んだみたいにペラペラ全部話してくれたよ、アンタの操り人形君。なんならネット拡散しようか。そのうち誰か、もっと悪い奴が有効活用してくれるかもしれないね」
「ひ……酷い、そんなの、あんまりじゃ……!」
「ふ。ちょっと品を作れば男なんて簡単に操れるなんて、自惚れないほうがいいよ」
 咄嗟に女が見せた同情を誘う表情を、透馬は笑顔で一蹴した。
「俺は本気だから」
 背後に立っているため透馬の表情を窺い知ることはできない。それでも、対峙する女の瞳に畏怖の色が滲んだことには気付いた。
 初めて聞いた。こんなに低くくぐもった透馬の声を。
「透馬。もう、十分だよ」
「杏ちゃん」
 ポケットから取り出したハンカチを、傷だらけの透馬の右手に巻き付ける。その際に微かに触れた手は、燃えるみたいに熱かった。
「早く……ちゃんと手当てを」
「大丈夫。見た目ほどじゃないよ」
「嘘吐くな、汗掻いてるじゃない! 中吉ちゃん、事務室から救急箱を……!」
「へえ。その男も、股開いて手懐けたんだ? 『アンアン』ちゃん」
「……」
 アンアン、ちゃん。
 耳に響いたその呼び名に、私は目を見開いた。
 十年以上前の記憶が蘇る。
「アンタの元クラスメートに聞いた。アンタ、中学の頃いじめに遭ってたんだって? そのときのあだ名が『アンアン』ちゃん。群がってくる男に選り好みせず股を開いて、アンアン楽しそうに喘いでたって」
「姫乃、お前、何デタラメを……!」
「ふふっ、薫君はまだ小学生だったから知らなかっただけよぉ。だってほら、小野寺さん、固まっちゃってるじゃない?」
 キャハハッとあどけない笑い声が、館内に場違いに響いた。女の指摘に、周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。
 生徒たち、同僚、薫……そして、隣にいる透馬まで。
「中学でそんなだもの。二年前のことだって不思議じゃないよね。大切な幼馴染みを身体で繋ぎとめようなんて最低じゃない。尻軽女。ほら、私は何も間違ったことなんて言ってな――」
「失礼致します! 先ほどご連絡いただきました警備の者ですが……!」
 ゲートを潜る警備員の登場で、その場は尻切れトンボのような幕引きを見せた。恐らく、カウンター裏にある非常ボタンを司書の誰かが押したんだろう。
 女は何かを喚き散らしながら最後まで抵抗を続けていた。透馬は自分が負った怪我について、女のせいだと公言することをしなかった。
 その後のことは、いつの間にか主任に引き連れられて事務室にいた私には、よくわからない。
「小野寺さんのせいではないことは……私も十分理解しているけれど」
 ひと気のない個室で、主任は毅然と話を切りだす。
 いつもは職場の鬼と称されている主任の、今まで聞いたことのない口調が、やけに耳に残って離れなかった。
「でも……このままじゃ、かなりまずいわ」
「……はい」
「脚の怪我もまだ完治していないようだし……小野寺さん」
 ひとまず一週間、自宅待機をしてもらえる?
 初めて気遣わしげに告げられた言葉が、私を納得と絶望に落とした。
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