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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。
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子供のワガママのような、単純なひとつの答えを。
「……は?」
「薫のことが、好きだった。薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと。だから」
いつもの自分には似合わない、小さく弱々しい言葉。
「薫に抱かれたいって……そう、思ったから」
それでも、どういうわけか辺りに鈴が鳴るように確かに響き渡り、辺りは息を飲むような静寂に包まれた。
情けない告白の言葉につられるように、目の奥がじんと熱くなってくる。かけなしのプライドを振り絞り、私はぐっと瞼に力を込めた。
自分はこの女のように、涙を売り物にはしない。
「……な、によ。そんなの、何の言い訳にもならないじゃないっ!」
辺りに生じかけた私への同情の空気。
それをいち早く察した女は、被害者の色をより濃くして非難を続けた。それでも、それが私にとっては全部なのだ。他に言うことなんて何もない。
ただ一瞬、口に出そうになったもうひとつの「言い訳」を、私は結局口に出すことをしなかった。
それは、私と彼女との間には、何の意味もないことだ。
「私はっ、薫君の受験の邪魔にならないようにってずっとずっと会うことも我慢してた! 薫君が東京の大学に進むって聞いたときだって、向こうの就職先を真剣に探してた!」
ぽろぽろと流れ出る涙の演出に、周囲の刺々しい視線が再びこちらに突き刺さる。
「それなのに……全部全部、貴女のせいで……!」
「お前も相変わらずだな、姫乃」
クライマックスに差し掛かっていた悲劇のヒロインの台詞。それを躊躇なく断ち切ったのは、酷く冷たい呼び名だった。集っていた人混みがにわかに開かれる。
人垣の向こうに現れた人物に、私は言葉を失った。
「この大学に勤めてたんだな。お前」
「……か、おる、く……」
驚愕に目を見開く女に対して、薫はただただ冷静だった。それでも、その瞳の奥には変に揺らめく感情の渦が見える。
「文系棟の学生窓口に、可愛いお姉さんがいるって。そういや俺たち理系学部の中でも話題に出てたけど」
「薫君……わ、私……っ」
「こんな風に、会いたくなかったな」
氷のような薫の視線が、女を容赦なく貫いた。それに怯む女を見遣ると、薫はほんの少しの間、無言のまま突っ立っている私の方に視線を向けた。
(薫のことが、好きだった)
(薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと――)
一刻前、抑制が利かずに口にしてしまった感情の吐露。
言葉が喉奥で痺れるみたいに溶けて、頬に燃えるような熱が集まる。
しかしながら薫はその瞳で何かしら私を宥めたのみで、再び女と対峙した。幼い頃には到底考えられない所作だ。
「浮気してただろ」
至極低い声色が、辺りを沈黙に伏した。
「俺じゃなくて、姫乃、お前が。バイト先の奴と、浮気してただろ」
「そんなこと……!」
「下手な嘘はいい。お前らがバイト先の裏口でいちゃついてるとこ、見たんだよ」
ぎりっと力が込められた拳に、女は肩を強ばらせた。
「その日の夜に俺は、お前と別れるってメールした。杏姉とのことは、その後のことだ」
「私はっ、別れるなんて絶対嫌だって言った!」
「話し合っても意味なんかねぇよ」
「ちょっと待ってよ薫君……!」
ここにきて、彼女の表情が一気に歪んだ。
彼女がいざというときのためにしたためていたのだろうシナリオは、唐突に幕引きを余儀なくされる。
咄嗟に駆け寄ろうとした彼女を、薫はひらりと交わした。瞬間、彼女の瞳からぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「違うの! だって……仕方なかったの。私、薫君のことが大好きだから、受験で忙しいって分かってても会いたくて。このままじゃ薫君にワガママ言って、嫌われちゃうんじゃないかって、それが、本当に怖くて!」
「……」
「あのバイト先の人とは、別に意味はなかったの。ただ色々相談に乗ってくれてて。あの人、本当に優しかったの。薫君からのメールがなかなか返ってこないって私が言ったときも、返ってくるまで自分が付き合うよって言ってくれたり。だって私、本当に寂しくて、辛かったから……!」
貴方が私を寂しくさせたから、私は他の人に埋めてもらっていたの。そういうことだろう。
女心に納得するところがないわけでもない。彼女を気にかけない男が悪い。心の隙をついてくる男が悪いと。
それでも私が女を見る瞳は、辺りを取り巻く白けた空気に何の支障もなく溶け込んだ。重く沈殿した空間の中で、女は一人必死に手足をバタつかせている。
「なら初めから俺に言えば良かったじゃねぇか。遠回しに杏姉に、こんなガキみたいな嫌がらせしなくてもよ」
「だって! 薫君、私の話なんて絶対に聞こうとしないじゃないっ! 二年前だって、結局何も言わないまま東京に行っちゃったし……!」
「挙げ句、何人も被害者を作り出して、目眩ましに使っていたってことか……?」
「か……薫、く」
「何でそんなになるんだよ」
吐き捨てるような口調に、私ははっと目を見張った。二年前の記憶がまざまざと浮かび上がってくる。
彼女だった人のことを絞り出すように語っていた横顔が、そこにあった。
「お前……そんな女じゃなかったじゃねぇか。なのに……何で……っ」
「……は?」
「薫のことが、好きだった。薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと。だから」
いつもの自分には似合わない、小さく弱々しい言葉。
「薫に抱かれたいって……そう、思ったから」
それでも、どういうわけか辺りに鈴が鳴るように確かに響き渡り、辺りは息を飲むような静寂に包まれた。
情けない告白の言葉につられるように、目の奥がじんと熱くなってくる。かけなしのプライドを振り絞り、私はぐっと瞼に力を込めた。
自分はこの女のように、涙を売り物にはしない。
「……な、によ。そんなの、何の言い訳にもならないじゃないっ!」
辺りに生じかけた私への同情の空気。
それをいち早く察した女は、被害者の色をより濃くして非難を続けた。それでも、それが私にとっては全部なのだ。他に言うことなんて何もない。
ただ一瞬、口に出そうになったもうひとつの「言い訳」を、私は結局口に出すことをしなかった。
それは、私と彼女との間には、何の意味もないことだ。
「私はっ、薫君の受験の邪魔にならないようにってずっとずっと会うことも我慢してた! 薫君が東京の大学に進むって聞いたときだって、向こうの就職先を真剣に探してた!」
ぽろぽろと流れ出る涙の演出に、周囲の刺々しい視線が再びこちらに突き刺さる。
「それなのに……全部全部、貴女のせいで……!」
「お前も相変わらずだな、姫乃」
クライマックスに差し掛かっていた悲劇のヒロインの台詞。それを躊躇なく断ち切ったのは、酷く冷たい呼び名だった。集っていた人混みがにわかに開かれる。
人垣の向こうに現れた人物に、私は言葉を失った。
「この大学に勤めてたんだな。お前」
「……か、おる、く……」
驚愕に目を見開く女に対して、薫はただただ冷静だった。それでも、その瞳の奥には変に揺らめく感情の渦が見える。
「文系棟の学生窓口に、可愛いお姉さんがいるって。そういや俺たち理系学部の中でも話題に出てたけど」
「薫君……わ、私……っ」
「こんな風に、会いたくなかったな」
氷のような薫の視線が、女を容赦なく貫いた。それに怯む女を見遣ると、薫はほんの少しの間、無言のまま突っ立っている私の方に視線を向けた。
(薫のことが、好きだった)
(薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと――)
一刻前、抑制が利かずに口にしてしまった感情の吐露。
言葉が喉奥で痺れるみたいに溶けて、頬に燃えるような熱が集まる。
しかしながら薫はその瞳で何かしら私を宥めたのみで、再び女と対峙した。幼い頃には到底考えられない所作だ。
「浮気してただろ」
至極低い声色が、辺りを沈黙に伏した。
「俺じゃなくて、姫乃、お前が。バイト先の奴と、浮気してただろ」
「そんなこと……!」
「下手な嘘はいい。お前らがバイト先の裏口でいちゃついてるとこ、見たんだよ」
ぎりっと力が込められた拳に、女は肩を強ばらせた。
「その日の夜に俺は、お前と別れるってメールした。杏姉とのことは、その後のことだ」
「私はっ、別れるなんて絶対嫌だって言った!」
「話し合っても意味なんかねぇよ」
「ちょっと待ってよ薫君……!」
ここにきて、彼女の表情が一気に歪んだ。
彼女がいざというときのためにしたためていたのだろうシナリオは、唐突に幕引きを余儀なくされる。
咄嗟に駆け寄ろうとした彼女を、薫はひらりと交わした。瞬間、彼女の瞳からぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「違うの! だって……仕方なかったの。私、薫君のことが大好きだから、受験で忙しいって分かってても会いたくて。このままじゃ薫君にワガママ言って、嫌われちゃうんじゃないかって、それが、本当に怖くて!」
「……」
「あのバイト先の人とは、別に意味はなかったの。ただ色々相談に乗ってくれてて。あの人、本当に優しかったの。薫君からのメールがなかなか返ってこないって私が言ったときも、返ってくるまで自分が付き合うよって言ってくれたり。だって私、本当に寂しくて、辛かったから……!」
貴方が私を寂しくさせたから、私は他の人に埋めてもらっていたの。そういうことだろう。
女心に納得するところがないわけでもない。彼女を気にかけない男が悪い。心の隙をついてくる男が悪いと。
それでも私が女を見る瞳は、辺りを取り巻く白けた空気に何の支障もなく溶け込んだ。重く沈殿した空間の中で、女は一人必死に手足をバタつかせている。
「なら初めから俺に言えば良かったじゃねぇか。遠回しに杏姉に、こんなガキみたいな嫌がらせしなくてもよ」
「だって! 薫君、私の話なんて絶対に聞こうとしないじゃないっ! 二年前だって、結局何も言わないまま東京に行っちゃったし……!」
「挙げ句、何人も被害者を作り出して、目眩ましに使っていたってことか……?」
「か……薫、く」
「何でそんなになるんだよ」
吐き捨てるような口調に、私ははっと目を見張った。二年前の記憶がまざまざと浮かび上がってくる。
彼女だった人のことを絞り出すように語っていた横顔が、そこにあった。
「お前……そんな女じゃなかったじゃねぇか。なのに……何で……っ」
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