33 / 51
第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。
(2)
しおりを挟む
キラキラと美しい彼女の瞳。
その中には確かに、冷たく彼女を見下ろす私の姿が映っている。
「小野寺さん……貴女は、人の気持ちを考えたことはありますか。貴女が傷つけた誰かが、心を痛めて苦しんでいるかもしれないということを、貴女は少しでも考えたことがありますか……ッ!」
冷徹、か。
確かに、その指摘も一理あるのかもしれない。他人からの視線に怯えることに疲れた中学時代。それ以降は、自分自身の思うままに進んできた自覚はある。省みようとも思わなかった人の気持ちもあっただろう。
ただし、冷徹と形容するのは語弊があった。胸の奥でぐつぐつと煮えたぎる怒りは、いささかコントロールが出来兼ねる。
「橋本姫乃さん。貴女が私を気に食わないのは一向に構いません」
人目が多い。公共の場。感情を曝け出すには最悪のシチュエーションだ。それでも。
「だからといって、それが罪もない書籍を傷めつける言い訳になるだなんて、本気で思っちゃいないですよね?」
呪いを産み落とすような低い声色に、息を飲んだのは一体誰だったろう。
職場である館内で私は初めて、噛みつくような憎しみを露わにする。これでまた、新規の噂が構内に沸き立つことだろう。それも構わなかった。
初めて中傷を殴り書きにされた書籍を見たときから抑え込んでいた怒りが、いつも慎重な心のたがを外してしまう。
「あの低脳な文章は一体何? 他人を中傷することで、貴女は何が満たされました? 子供みたいな正義感ですか?」
「あの人たちはみんな人でなしじゃない! 家族や恋人をいとも容易く裏切った! 書かれて当然のことを」
「中傷文で散々人を傷つけた張本人が、それを言う資格はない!」
容赦など出来るはずもなく、私は目の前の女を縛り付けるような視線で睨み付けた。踏み込んだ足の怪我が鈍く痛んだが、取るに足らないことだ。
「書かれて当然と思うなら、裏でこそこそ小細工するな! それならいっそ学生窓口の掲示板に、正々堂々どでかく載せな!!」
最後の方はもう、腹の底から声を上げていた。
昨夜の脚の傷が突っ張って、痛みがじくじくと脈を打つ。それが一層、私の憤りを増長した。
「かぁっこいい~……」緊迫した空気の中、ギャラリーのどこからかそんな呟きが届いた。それがまるで伝染するように、じわじわと賞賛の声が聞こえるようになる中、目の前の彼女の顔は真っ赤に染まり上がっていた。
初めこそ、窓口業務で彼女を見知っているらしい学生からの声援じみた呼びかけがあったが、今はそれも潰えた。彼女を見知った両手の拳が、痛そうなくらいに固く握られている。
再度口を開きかけた私だったが、その腕を後ろから引っ張る手に気付いた。
「小野寺さん。もう……これ以上はっ」
「中吉ちゃん」
振り返った私に、中吉ちゃんは首を小さく振っていた。いつもは眩しいくらいに明るい、あの中吉ちゃんが。
その懇願の眼差しに、次第に激情が溶かされていく。
「……貴女の行為は器物損壊です。警察に通報されたくなければ被害者一人一人に謝罪してください。私のことは、抜きにしてもいいです」
「器物、損壊?」
「当然でしょう?」
「それなら」
ひとつ息を吐いた彼女は、俯いていた顔をゆっくりとこちらに向ける。瞬間、胸が嫌な音を立てた。
「貴女だって……壊しましたよね」
「は?」
「二年前に」
端から見ればその表情は、健気で可憐な女の子そのもの。それでも、その瞳は笑っていた。
「貴女が二年前にしたことも、罪に問われるんじゃないですか?」
二年前。そう言われてポーカーフェイスを貫くには、心の準備が足りなすぎた。
動揺をよぎらせた私の表情を見留めるや否や、彼女は予行練習したかのように涙を滲ませた。加害者から、被害者の顔へ。
そして私は――被害者から、加害者の立場へ。
「覚えていますよね? 二年前……貴女は五歳も年下の幼馴染みに手を出した」
にわかに周囲がざわめきを取り戻す。
野次馬の反応は単純なものだ。楽しめそうなゴシップを手にした瞬間、その正否を問わず話題の種にする。私が中学生だった頃から、嘆かわしい風習は少しも揺るぎない。
「女を使って、幼馴染みを慰めた。そうでしょう?」
「……そうだとしても、貴女には何の関係もないことです」
「認めるんですね」
神経を逆撫でる言葉を、私は無視をした。
同時に、目の前の女の口から、必要以上に熱く思い吐息が吐きだされる。
「彼女だったんです」
意味を把握するよりも早く、一筋の涙が女の頬を伝った。
「薫君の……貴女が寝取った幼馴染みの。私、彼女だったんです……っ!」
その中には確かに、冷たく彼女を見下ろす私の姿が映っている。
「小野寺さん……貴女は、人の気持ちを考えたことはありますか。貴女が傷つけた誰かが、心を痛めて苦しんでいるかもしれないということを、貴女は少しでも考えたことがありますか……ッ!」
冷徹、か。
確かに、その指摘も一理あるのかもしれない。他人からの視線に怯えることに疲れた中学時代。それ以降は、自分自身の思うままに進んできた自覚はある。省みようとも思わなかった人の気持ちもあっただろう。
ただし、冷徹と形容するのは語弊があった。胸の奥でぐつぐつと煮えたぎる怒りは、いささかコントロールが出来兼ねる。
「橋本姫乃さん。貴女が私を気に食わないのは一向に構いません」
人目が多い。公共の場。感情を曝け出すには最悪のシチュエーションだ。それでも。
「だからといって、それが罪もない書籍を傷めつける言い訳になるだなんて、本気で思っちゃいないですよね?」
呪いを産み落とすような低い声色に、息を飲んだのは一体誰だったろう。
職場である館内で私は初めて、噛みつくような憎しみを露わにする。これでまた、新規の噂が構内に沸き立つことだろう。それも構わなかった。
初めて中傷を殴り書きにされた書籍を見たときから抑え込んでいた怒りが、いつも慎重な心のたがを外してしまう。
「あの低脳な文章は一体何? 他人を中傷することで、貴女は何が満たされました? 子供みたいな正義感ですか?」
「あの人たちはみんな人でなしじゃない! 家族や恋人をいとも容易く裏切った! 書かれて当然のことを」
「中傷文で散々人を傷つけた張本人が、それを言う資格はない!」
容赦など出来るはずもなく、私は目の前の女を縛り付けるような視線で睨み付けた。踏み込んだ足の怪我が鈍く痛んだが、取るに足らないことだ。
「書かれて当然と思うなら、裏でこそこそ小細工するな! それならいっそ学生窓口の掲示板に、正々堂々どでかく載せな!!」
最後の方はもう、腹の底から声を上げていた。
昨夜の脚の傷が突っ張って、痛みがじくじくと脈を打つ。それが一層、私の憤りを増長した。
「かぁっこいい~……」緊迫した空気の中、ギャラリーのどこからかそんな呟きが届いた。それがまるで伝染するように、じわじわと賞賛の声が聞こえるようになる中、目の前の彼女の顔は真っ赤に染まり上がっていた。
初めこそ、窓口業務で彼女を見知っているらしい学生からの声援じみた呼びかけがあったが、今はそれも潰えた。彼女を見知った両手の拳が、痛そうなくらいに固く握られている。
再度口を開きかけた私だったが、その腕を後ろから引っ張る手に気付いた。
「小野寺さん。もう……これ以上はっ」
「中吉ちゃん」
振り返った私に、中吉ちゃんは首を小さく振っていた。いつもは眩しいくらいに明るい、あの中吉ちゃんが。
その懇願の眼差しに、次第に激情が溶かされていく。
「……貴女の行為は器物損壊です。警察に通報されたくなければ被害者一人一人に謝罪してください。私のことは、抜きにしてもいいです」
「器物、損壊?」
「当然でしょう?」
「それなら」
ひとつ息を吐いた彼女は、俯いていた顔をゆっくりとこちらに向ける。瞬間、胸が嫌な音を立てた。
「貴女だって……壊しましたよね」
「は?」
「二年前に」
端から見ればその表情は、健気で可憐な女の子そのもの。それでも、その瞳は笑っていた。
「貴女が二年前にしたことも、罪に問われるんじゃないですか?」
二年前。そう言われてポーカーフェイスを貫くには、心の準備が足りなすぎた。
動揺をよぎらせた私の表情を見留めるや否や、彼女は予行練習したかのように涙を滲ませた。加害者から、被害者の顔へ。
そして私は――被害者から、加害者の立場へ。
「覚えていますよね? 二年前……貴女は五歳も年下の幼馴染みに手を出した」
にわかに周囲がざわめきを取り戻す。
野次馬の反応は単純なものだ。楽しめそうなゴシップを手にした瞬間、その正否を問わず話題の種にする。私が中学生だった頃から、嘆かわしい風習は少しも揺るぎない。
「女を使って、幼馴染みを慰めた。そうでしょう?」
「……そうだとしても、貴女には何の関係もないことです」
「認めるんですね」
神経を逆撫でる言葉を、私は無視をした。
同時に、目の前の女の口から、必要以上に熱く思い吐息が吐きだされる。
「彼女だったんです」
意味を把握するよりも早く、一筋の涙が女の頬を伝った。
「薫君の……貴女が寝取った幼馴染みの。私、彼女だったんです……っ!」
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
決めたのはあなたでしょう?
みおな
恋愛
ずっと好きだった人がいた。
だけど、その人は私の気持ちに応えてくれなかった。
どれだけ求めても手に入らないなら、とやっと全てを捨てる決心がつきました。
なのに、今さら好きなのは私だと?
捨てたのはあなたでしょう。
忘れられた妻
毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。
セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。
「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」
セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。
「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」
セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。
そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。
三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません
【完結】【R18】男色疑惑のある公爵様の契約妻となりましたが、気がついたら愛されているんですけれど!?
夏琳トウ(明石唯加)
恋愛
「俺と結婚してくれたら、衣食住完全補償。なんだったら、キミの実家に支援させてもらうよ」
「え、じゃあ結婚します!」
メラーズ王国に住まう子爵令嬢マーガレットは悩んでいた。
というのも、元々借金まみれだった家の財政状況がさらに悪化し、ついには没落か夜逃げかという二択を迫られていたのだ。
そんな中、父に「頼むからいい男を捕まえてこい!」と送り出された舞踏会にて、マーガレットは王国の二大公爵家の一つオルブルヒ家の当主クローヴィスと出逢う。
彼はマーガレットの話を聞くと、何を思ったのか「俺と契約結婚しない?」と言ってくる。
しかし、マーガレットはためらう。何故ならば……彼には男色家だといううわさがあったのだ。つまり、形だけの結婚になるのは目に見えている。
そう思ったものの、彼が提示してきた条件にマーガレットは飛びついた。
そして、マーガレットはクローヴィスの(契約)妻となった。
男色家疑惑のある自由気ままな公爵様×貧乏性で現金な子爵令嬢。
二人がなんやかんやありながらも両想いになる勘違い話。
◆hotランキング 10位ありがとうございます……!
――
◆掲載先→アルファポリス、ムーンライトノベルズ、エブリスタ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる