ウオノメにキス

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。

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「んで。どうしてあんたがここにいるわけ、薫」
 加齢臭漂う研究室を後にし、私と薫はひとまず人気のない場所へ移動した。
 買い与えたコーラをぐいっと飲んだ薫は言葉を濁しつつも説明する。どうやら、私への中傷文の噂を聞いたらしい。
「心配しなくても、あの中傷文に薫の名前は載ってなかったよ」
「杏姉の心配をしたんだろ!? そんであの杏姉の後輩? あの人を捕まえて聞いたら、あのセクハラで有名なハゲ親父のところに行ったって聞いたから……!」
「うん。それは本当に、感謝してる」
 ありがとう。
 短く紡いだ言葉に、薫は一瞬きょとんとする。失礼な奴だ。
「俺の方こそ。大学で杏姉のこと待ち伏せしたりしなけりゃ、こんな風に……っ」
「くよくよしなさんな。人の噂も七十五日なんだから。こんなのすぐに収まる」
「気を付けろよ杏姉。さっきのセクハラ親父じゃねぇけど」
 薫が飲み終えたらしい缶をゴミ箱に放る。くるくる旋回した後、綺麗に中へと収められた。相変わらず綺麗な弧を描いて。
「中傷文の噂を持ってきた奴が言ってた。『俺の相手もしてくんねぇかなぁ』って。とりあえずそいつは殴っといたけど」
「そりゃ、噂持ってきた子も災難だったね」
「笑いごとじゃねぇから! 杏姉はただでさえ周りから目ぇ引いてんのに、勘違いした奴らから何されるかわからねぇだろ!?」
「人んちの玄関ホールでいきなり抱きついてきた奴の言う台詞じゃないよね」
「う」
 短くたじろいだ幼馴染みに思わず吹き出す。手元のホットココアが空になったのを確認し、私は行儀よくゴミ箱に捨てにいく。
 振り向いた表情は、きっといつもの私だった。
「女に生まれてこの方、そっちの危機管理はちゃんとしてるつもり。心配しなくて良いから」
「さっきは手ぇ出されてた!」
「うん。もうちょっと対策は練るよ。いざとなったら自分で自分を守らなきゃ」
「俺が守る!」
「四六時中は無理でしょ」
 間髪入れずに突きつけた正論に、薫は不服そうにする。
 実際問題そうなのだ。SPのように付きっきりでいることなんて出来やしない。それは誰を当てはめても同じこと。いざとなれば、自分で自分を守らねば。
 途端、自分の両手がさっとさらわれる。
 怪訝な表情を向けるも、勢いはすぐにしぼんだ。ベンチに腰をかけながらこちらを見上げる瞳は、感情に違わず真剣だった。
「簡単に手、塞がれてんじゃん」
「……今は二人きりで、油断してただけ」
「俺じゃなくても良い」
 突然低く響いた言葉に、私は目を見開いた。
「薫?」
「俺じゃなくても良いから。危なくなる前に、誰かを頼れ」
「!」
「頼むからさ」
 乞うように寄せられた眉。直情な薫はいつも容易く私を揺さぶる。厄介だ。本当に。
 さっき味わわされた屈辱だって、今も済んでのところで顔を歪めずにいられているのに。
「つーか、マジで俺に連絡しろよな。時間とか気にしなくて良いから……って、あれ。杏姉、俺の番号は……」
「消してない。ありがと」
「そ、か。ならいい。うん」
 見るからにほっとした様子の薫に、思わず泣き笑いになった。意外とぎりぎりのところにいたらしい自分に気付く。
 安易に「可愛くない」と言わしめる。そんな自分を、損得勘定抜きに気にかけてくれる数少ない身内の存在に心の底から感謝した。



「久しぶりの杏の手料理、美味しかったぁ~。ご馳走さまでした!」
 満面の笑みで食器を片付ける奈緒を眺め、ようやく私も一息つく。
 束の間の麗らかな休日。昨夜大人買いをした小説を一日かけて読み耽る予定は、子リスからの電話により延期となった。
 久しぶりにお客様用の湯のみを戸棚から取り出す。注がれた緑茶を嬉しそうに口にする奈緒に、私は早々に切り出す。「それで?」
「何かあったのかい奈緒さんや。電話で、話したいことがあるって言ってたけど」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれましたっ!」
 食後のお茶をテーブルに置くなり、そそくさと鞄を手に戻ってくる。その頭には犬耳、背後にはパタパタ横に揺れる犬のしっぽが見えた気がした。
「じゃじゃーんっ! これっ、見るべし!」
「な……にこれ。名刺? カード?」
 キラキラ輝きを詰め込んだ瞳を前に、咄嗟に仰け反る。
 細い指先に握られていたものは、一枚のカードだった。
「ただのカードじゃないんだよ! ここ! 見て見てっ!」
「『ごんざれす』?」
 印字された文字に目を瞬かせる私をよそに、奈緒は頬を桜色に染めて笑みを浮かべた。
「『カフェ・ごんざれす』のショップカード! デザインが採用されたのッ、ついに!」
「うそ。凄くないそれっ!」
 聞けば初めてあの店に行ったときに、手渡された初代ショップカード。白地に必要最低限の情報しか記載されていないデザインに、お絵描き馬鹿の奈緒は物足りなさを感じていたらしい。
「だからね、次にひとりで行ったときに栄二さんに言ってみたの。いくら何でもデザインが素っ気無さ過ぎませんかって」
 あの御方に、喧嘩を売ったと?
 口をあんぐり開けたままの私をよそに、奈緒はえっへんと子供みたいに胸を張る。
「そしたらね、言われたんだ。『それならば是非、貴女の思う最高のデザインをご教授いただけませんか』って!」
 指先に収まったカードに視線を落とすなり、その表情には内に秘められた自信が滲み出る。
「まぁそんなこと言われたらね! こっちも引っ込みがつかないっていうかね!」
「その……何ともなかった?」
「もちろんスパルタだったよー! 自分のお店のカードだもんね。軽く十個は没を食らったもん!」
「……怖い思いはしなかったかい」
「? ううん? 栄二さんを『栄ちゃん』って呼んでも良いですかって聞いたときは、さすがに血管浮き出てたけどね。ぷふっ」
「……」
 奈緒。ただ者じゃねぇよアンタ……!
 子リスが虎の懐ですやすや眠る。今まで見逃していた希少価値の高い光景を、次は是非ともこの目に焼き付けたいものだ。そう考え、ふと我に返った。
 ああでも、もうあの店には行かないかもしれないからな。
「おめでと、奈緒。すごく雰囲気が合ってるよ。奈緒のイラスト、やっぱり私好きだな」
「へへ。ありがとう、杏」
 照れながらも笑顔を見せる奈緒の頭をよしよしと撫でてやる。一新されたショップカードの彩り。親友が必死に紡ぎ上げた世界。
 淀みを募らせていた胸が、すうっと透いていく心地がした。
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