29 / 51
第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。
(3)
しおりを挟む
「んで。どうしてあんたがここにいるわけ、薫」
加齢臭漂う研究室を後にし、私と薫はひとまず人気のない場所へ移動した。
買い与えたコーラをぐいっと飲んだ薫は言葉を濁しつつも説明する。どうやら、私への中傷文の噂を聞いたらしい。
「心配しなくても、あの中傷文に薫の名前は載ってなかったよ」
「杏姉の心配をしたんだろ!? そんであの杏姉の後輩? あの人を捕まえて聞いたら、あのセクハラで有名なハゲ親父のところに行ったって聞いたから……!」
「うん。それは本当に、感謝してる」
ありがとう。
短く紡いだ言葉に、薫は一瞬きょとんとする。失礼な奴だ。
「俺の方こそ。大学で杏姉のこと待ち伏せしたりしなけりゃ、こんな風に……っ」
「くよくよしなさんな。人の噂も七十五日なんだから。こんなのすぐに収まる」
「気を付けろよ杏姉。さっきのセクハラ親父じゃねぇけど」
薫が飲み終えたらしい缶をゴミ箱に放る。くるくる旋回した後、綺麗に中へと収められた。相変わらず綺麗な弧を描いて。
「中傷文の噂を持ってきた奴が言ってた。『俺の相手もしてくんねぇかなぁ』って。とりあえずそいつは殴っといたけど」
「そりゃ、噂持ってきた子も災難だったね」
「笑いごとじゃねぇから! 杏姉はただでさえ周りから目ぇ引いてんのに、勘違いした奴らから何されるかわからねぇだろ!?」
「人んちの玄関ホールでいきなり抱きついてきた奴の言う台詞じゃないよね」
「う」
短くたじろいだ幼馴染みに思わず吹き出す。手元のホットココアが空になったのを確認し、私は行儀よくゴミ箱に捨てにいく。
振り向いた表情は、きっといつもの私だった。
「女に生まれてこの方、そっちの危機管理はちゃんとしてるつもり。心配しなくて良いから」
「さっきは手ぇ出されてた!」
「うん。もうちょっと対策は練るよ。いざとなったら自分で自分を守らなきゃ」
「俺が守る!」
「四六時中は無理でしょ」
間髪入れずに突きつけた正論に、薫は不服そうにする。
実際問題そうなのだ。SPのように付きっきりでいることなんて出来やしない。それは誰を当てはめても同じこと。いざとなれば、自分で自分を守らねば。
途端、自分の両手がさっとさらわれる。
怪訝な表情を向けるも、勢いはすぐにしぼんだ。ベンチに腰をかけながらこちらを見上げる瞳は、感情に違わず真剣だった。
「簡単に手、塞がれてんじゃん」
「……今は二人きりで、油断してただけ」
「俺じゃなくても良い」
突然低く響いた言葉に、私は目を見開いた。
「薫?」
「俺じゃなくても良いから。危なくなる前に、誰かを頼れ」
「!」
「頼むからさ」
乞うように寄せられた眉。直情な薫はいつも容易く私を揺さぶる。厄介だ。本当に。
さっき味わわされた屈辱だって、今も済んでのところで顔を歪めずにいられているのに。
「つーか、マジで俺に連絡しろよな。時間とか気にしなくて良いから……って、あれ。杏姉、俺の番号は……」
「消してない。ありがと」
「そ、か。ならいい。うん」
見るからにほっとした様子の薫に、思わず泣き笑いになった。意外とぎりぎりのところにいたらしい自分に気付く。
安易に「可愛くない」と言わしめる。そんな自分を、損得勘定抜きに気にかけてくれる数少ない身内の存在に心の底から感謝した。
「久しぶりの杏の手料理、美味しかったぁ~。ご馳走さまでした!」
満面の笑みで食器を片付ける奈緒を眺め、ようやく私も一息つく。
束の間の麗らかな休日。昨夜大人買いをした小説を一日かけて読み耽る予定は、子リスからの電話により延期となった。
久しぶりにお客様用の湯のみを戸棚から取り出す。注がれた緑茶を嬉しそうに口にする奈緒に、私は早々に切り出す。「それで?」
「何かあったのかい奈緒さんや。電話で、話したいことがあるって言ってたけど」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれましたっ!」
食後のお茶をテーブルに置くなり、そそくさと鞄を手に戻ってくる。その頭には犬耳、背後にはパタパタ横に揺れる犬のしっぽが見えた気がした。
「じゃじゃーんっ! これっ、見るべし!」
「な……にこれ。名刺? カード?」
キラキラ輝きを詰め込んだ瞳を前に、咄嗟に仰け反る。
細い指先に握られていたものは、一枚のカードだった。
「ただのカードじゃないんだよ! ここ! 見て見てっ!」
「『ごんざれす』?」
印字された文字に目を瞬かせる私をよそに、奈緒は頬を桜色に染めて笑みを浮かべた。
「『カフェ・ごんざれす』のショップカード! デザインが採用されたのッ、ついに!」
「うそ。凄くないそれっ!」
聞けば初めてあの店に行ったときに、手渡された初代ショップカード。白地に必要最低限の情報しか記載されていないデザインに、お絵描き馬鹿の奈緒は物足りなさを感じていたらしい。
「だからね、次にひとりで行ったときに栄二さんに言ってみたの。いくら何でもデザインが素っ気無さ過ぎませんかって」
あの御方に、喧嘩を売ったと?
口をあんぐり開けたままの私をよそに、奈緒はえっへんと子供みたいに胸を張る。
「そしたらね、言われたんだ。『それならば是非、貴女の思う最高のデザインをご教授いただけませんか』って!」
指先に収まったカードに視線を落とすなり、その表情には内に秘められた自信が滲み出る。
「まぁそんなこと言われたらね! こっちも引っ込みがつかないっていうかね!」
「その……何ともなかった?」
「もちろんスパルタだったよー! 自分のお店のカードだもんね。軽く十個は没を食らったもん!」
「……怖い思いはしなかったかい」
「? ううん? 栄二さんを『栄ちゃん』って呼んでも良いですかって聞いたときは、さすがに血管浮き出てたけどね。ぷふっ」
「……」
奈緒。ただ者じゃねぇよアンタ……!
子リスが虎の懐ですやすや眠る。今まで見逃していた希少価値の高い光景を、次は是非ともこの目に焼き付けたいものだ。そう考え、ふと我に返った。
ああでも、もうあの店には行かないかもしれないからな。
「おめでと、奈緒。すごく雰囲気が合ってるよ。奈緒のイラスト、やっぱり私好きだな」
「へへ。ありがとう、杏」
照れながらも笑顔を見せる奈緒の頭をよしよしと撫でてやる。一新されたショップカードの彩り。親友が必死に紡ぎ上げた世界。
淀みを募らせていた胸が、すうっと透いていく心地がした。
加齢臭漂う研究室を後にし、私と薫はひとまず人気のない場所へ移動した。
買い与えたコーラをぐいっと飲んだ薫は言葉を濁しつつも説明する。どうやら、私への中傷文の噂を聞いたらしい。
「心配しなくても、あの中傷文に薫の名前は載ってなかったよ」
「杏姉の心配をしたんだろ!? そんであの杏姉の後輩? あの人を捕まえて聞いたら、あのセクハラで有名なハゲ親父のところに行ったって聞いたから……!」
「うん。それは本当に、感謝してる」
ありがとう。
短く紡いだ言葉に、薫は一瞬きょとんとする。失礼な奴だ。
「俺の方こそ。大学で杏姉のこと待ち伏せしたりしなけりゃ、こんな風に……っ」
「くよくよしなさんな。人の噂も七十五日なんだから。こんなのすぐに収まる」
「気を付けろよ杏姉。さっきのセクハラ親父じゃねぇけど」
薫が飲み終えたらしい缶をゴミ箱に放る。くるくる旋回した後、綺麗に中へと収められた。相変わらず綺麗な弧を描いて。
「中傷文の噂を持ってきた奴が言ってた。『俺の相手もしてくんねぇかなぁ』って。とりあえずそいつは殴っといたけど」
「そりゃ、噂持ってきた子も災難だったね」
「笑いごとじゃねぇから! 杏姉はただでさえ周りから目ぇ引いてんのに、勘違いした奴らから何されるかわからねぇだろ!?」
「人んちの玄関ホールでいきなり抱きついてきた奴の言う台詞じゃないよね」
「う」
短くたじろいだ幼馴染みに思わず吹き出す。手元のホットココアが空になったのを確認し、私は行儀よくゴミ箱に捨てにいく。
振り向いた表情は、きっといつもの私だった。
「女に生まれてこの方、そっちの危機管理はちゃんとしてるつもり。心配しなくて良いから」
「さっきは手ぇ出されてた!」
「うん。もうちょっと対策は練るよ。いざとなったら自分で自分を守らなきゃ」
「俺が守る!」
「四六時中は無理でしょ」
間髪入れずに突きつけた正論に、薫は不服そうにする。
実際問題そうなのだ。SPのように付きっきりでいることなんて出来やしない。それは誰を当てはめても同じこと。いざとなれば、自分で自分を守らねば。
途端、自分の両手がさっとさらわれる。
怪訝な表情を向けるも、勢いはすぐにしぼんだ。ベンチに腰をかけながらこちらを見上げる瞳は、感情に違わず真剣だった。
「簡単に手、塞がれてんじゃん」
「……今は二人きりで、油断してただけ」
「俺じゃなくても良い」
突然低く響いた言葉に、私は目を見開いた。
「薫?」
「俺じゃなくても良いから。危なくなる前に、誰かを頼れ」
「!」
「頼むからさ」
乞うように寄せられた眉。直情な薫はいつも容易く私を揺さぶる。厄介だ。本当に。
さっき味わわされた屈辱だって、今も済んでのところで顔を歪めずにいられているのに。
「つーか、マジで俺に連絡しろよな。時間とか気にしなくて良いから……って、あれ。杏姉、俺の番号は……」
「消してない。ありがと」
「そ、か。ならいい。うん」
見るからにほっとした様子の薫に、思わず泣き笑いになった。意外とぎりぎりのところにいたらしい自分に気付く。
安易に「可愛くない」と言わしめる。そんな自分を、損得勘定抜きに気にかけてくれる数少ない身内の存在に心の底から感謝した。
「久しぶりの杏の手料理、美味しかったぁ~。ご馳走さまでした!」
満面の笑みで食器を片付ける奈緒を眺め、ようやく私も一息つく。
束の間の麗らかな休日。昨夜大人買いをした小説を一日かけて読み耽る予定は、子リスからの電話により延期となった。
久しぶりにお客様用の湯のみを戸棚から取り出す。注がれた緑茶を嬉しそうに口にする奈緒に、私は早々に切り出す。「それで?」
「何かあったのかい奈緒さんや。電話で、話したいことがあるって言ってたけど」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれましたっ!」
食後のお茶をテーブルに置くなり、そそくさと鞄を手に戻ってくる。その頭には犬耳、背後にはパタパタ横に揺れる犬のしっぽが見えた気がした。
「じゃじゃーんっ! これっ、見るべし!」
「な……にこれ。名刺? カード?」
キラキラ輝きを詰め込んだ瞳を前に、咄嗟に仰け反る。
細い指先に握られていたものは、一枚のカードだった。
「ただのカードじゃないんだよ! ここ! 見て見てっ!」
「『ごんざれす』?」
印字された文字に目を瞬かせる私をよそに、奈緒は頬を桜色に染めて笑みを浮かべた。
「『カフェ・ごんざれす』のショップカード! デザインが採用されたのッ、ついに!」
「うそ。凄くないそれっ!」
聞けば初めてあの店に行ったときに、手渡された初代ショップカード。白地に必要最低限の情報しか記載されていないデザインに、お絵描き馬鹿の奈緒は物足りなさを感じていたらしい。
「だからね、次にひとりで行ったときに栄二さんに言ってみたの。いくら何でもデザインが素っ気無さ過ぎませんかって」
あの御方に、喧嘩を売ったと?
口をあんぐり開けたままの私をよそに、奈緒はえっへんと子供みたいに胸を張る。
「そしたらね、言われたんだ。『それならば是非、貴女の思う最高のデザインをご教授いただけませんか』って!」
指先に収まったカードに視線を落とすなり、その表情には内に秘められた自信が滲み出る。
「まぁそんなこと言われたらね! こっちも引っ込みがつかないっていうかね!」
「その……何ともなかった?」
「もちろんスパルタだったよー! 自分のお店のカードだもんね。軽く十個は没を食らったもん!」
「……怖い思いはしなかったかい」
「? ううん? 栄二さんを『栄ちゃん』って呼んでも良いですかって聞いたときは、さすがに血管浮き出てたけどね。ぷふっ」
「……」
奈緒。ただ者じゃねぇよアンタ……!
子リスが虎の懐ですやすや眠る。今まで見逃していた希少価値の高い光景を、次は是非ともこの目に焼き付けたいものだ。そう考え、ふと我に返った。
ああでも、もうあの店には行かないかもしれないからな。
「おめでと、奈緒。すごく雰囲気が合ってるよ。奈緒のイラスト、やっぱり私好きだな」
「へへ。ありがとう、杏」
照れながらも笑顔を見せる奈緒の頭をよしよしと撫でてやる。一新されたショップカードの彩り。親友が必死に紡ぎ上げた世界。
淀みを募らせていた胸が、すうっと透いていく心地がした。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
クレマに隠す恋
月夜野レオン
BL
蓮は日本ではそこそこ名の知れたバリスタで、人当りは良いけれどガードが堅い。カフェノースポールで客として出会った平井に惹かれるが、アルファ嫌いだった蓮は一歩が踏み出せないでいた。友人が立ち上げた会社の司法書士になる為に平井が地方へ行ってしまうと知った蓮は……。
オメガバース短編集 カフェノースポールシリーズ第3弾。花いちもんめでチラッと出てきた夏樹の友人、平井綾斗の恋物語です。
クリスマスに咲くバラ
篠原怜
恋愛
亜美は29歳。クリスマスを目前にしてファッションモデルの仕事を引退した。亜美には貴大という婚約者がいるのだが今のところ結婚はの予定はない。彼は実業家の御曹司で、年下だけど頼りになる人。だけど亜美には結婚に踏み切れない複雑な事情があって……。■2012年に著者のサイトで公開したものの再掲です。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる