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第一章 新刊、宣言、挑戦状。

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「ふふふ~ん~。あーんちゃんはぁ~……むにゃ」
「変な歌を歌うな。ちゃんと歩きなさいってば奈緒」
 薄く雲が敷かれた夜空が、ぼんやりと私たちを見下ろしている。
 私は陽気な足取りの親友を引き連れ、彩色の眩しい夜の町を進んでいた。道路を行き交う車のテールランプが視界にぼんやりと線を引く。
「杏はぁ」
「だーから、変な歌は、」
「ズルい」
「あ?」
 子リスがまた妙なことを言い出した。
 今度ははっきりと「ずーるーいー!」と癇癪を起こした子リスに、頭が痛くなる。このまま捨て置いてやろうか。
「だってさー。私なんて仕事ばかりでしょぼくれてばっかなのに……杏は違う」
 いじけたような口調が、次第に強い意志を帯びていく。
「私と違ってすらっと長身で格好良いしさぁ。美人で化粧映えするし、髪の毛もさらさらのストレートだし」
「外見かよ」
「キラキラしてて、自信があって、」
 私も、もっと、しゃんとしたい……。露が消え入るような声で呟くと、再び奈緒は飲み込まれるように瞳を閉じた。
 肩に寄りかかってくる重みが増し、慌てて呼びかける。しかし返ってくるのは声にならない声だけで、私は溜め息をつきながら携帯電話を取り出した。
 それでも、こんな他愛ない奈緒とのやりとりが時折無性に恋しくなる――というのは、私だけの秘密だけど。
「もしもしすみません、タクシーを一台お願いします」
 道脇のベンチに酔っぱらいを座らせ、仕方なくタクシーを呼ぶ。夜風がアルコールを入れた肌を涼やかに撫でた。
「はい。丸大デパートの近くです。西二条南――」
 現在地を告げる言葉が途切れた。遠くに映し出された、ある人影に意識をさらわれて。
 上背のある細身の体格に、遠目でも目に付く白い肌。コーヒーに少しミルクを垂らしたような甘さを思わせる癖のある髪。
 奴だ――そう確信を持つまでには少し時間がかかった。
 とある建物から出てきた奴の長い腕には、見るからに頭の軽そうな女が絡みつくようにくっついている。建物の看板には、ショッキングピンクのネオンに囲まれて宿泊料金と休憩料金が併記されていた。
 恐らく向こうは、こちらからの視線には気付いていない。
 女の子たちの評判も上々だった奴の現実を垣間見、しばらくの間瞬きを繰り返す。次に口元に浮かんできたものは、足枷から解放された歓喜の笑みだった。
 親密そうに見えた二つの人影は、二言三言交わしたかと思えばやけにあっさりと分かれていく。どう見ても折り目正しい関係には見えない構図だった。そう。
 行きずりの一夜を共にした男女――みたいな。
 どうしても緩んでしまう口元を誤魔化すように、夜風に流された髪を耳にかけ直す。一方的に醜態を晒したままなのは我慢ならないと思っていた。
 よっしゃ。これでイーブンだ。
「む。杏にゃん?」
「ああ奈緒。今タクシー呼ぶから。ちょっと待って」
 いつの間にか切ってしまっていたタクシー会社への着信を、再度かけ直す。
 まずはこの酔っぱらい子リスを家まで送ろう。明日は休みだし、午前はいつもと違う書店に足を運んで、新刊を発掘するとしようかな。
「ん?」
 緩んでいた頬が、ぴたりと動きを止めた。「お客さん?」繰り返しの無言電話に困惑した声が、受話器から繰り返される。
 返答を忘れて再び瞬きを繰り返した先には、先ほど本性を目撃したあの男と、通りから手を振って現れた女がいた。
 先ほどの女は、見るからに軽そうな女だった。安っぽいブリーチをいれた針金のような髪の毛に、バッグだけがやけに浮いている若者ファッション。
 しかしながら、今奴と腕を絡ませたのはまるで逆の印象を受ける女性だった。軽くエアーの含ませたショートカットに、シンプルなスーツの上下。さっきの女とはどう考えても別人だ。
 親しげに会話を交わす二人の背中が再び同じ建物へ消えていくのを、私はぼう然と見送った。つまりあれは二股? いや、というよりはむしろ――。
「――絶倫?」
 しっかりと発音されてしまった言葉。口元にある受話器に気付き、私は焦って顔から離す。
 携帯電話は既に、待受画面になっていた。



 全く馬鹿な幻想を見てしまったものだ。
 完璧な爽やか青年なんて、小説や映画じゃあるまいしこの世に存在するはずもない。
 それでもなお胸にくすぶる苛立ちを抑えきれないまま、私は久しぶりに「カフェ・ごんざれす」へ足を運んでいた。
「読み終わりましたか」
 今日仕入れてきたばかりの小説を読了後、感慨がこもった吐息を漏らす。それを見計らったようにかけられた声に、私は伏せていた瞼を緩やかに開いた。
 柔らかな笑顔に、細められた瞳。奴は今日も、爽やか好青年モード絶好調らしい。
 周囲を見渡すと賑わいを見せていたテーブルはすでにひと気を失い、店の奥からは食器が水を弾く音を立てている。
「すみません。また最後まで長居をしてしまって」
 さらりと謝罪の言葉を口にしたが、実際は予定通りだった。いつかの日と同じ、本日最後の客になるために。
「いいえ全然。寧ろ、逆です」
「え?」
「また来ていただけて、よかった」
 青年の整った顔つきに、はにかんだような笑顔がふわりと現れる。しかしながら私の胸は少しも揺すぶられることはなかった。
 苛ついていた。あの夜、思いがけない目撃者になった瞬間から。
 正直、この男がどんな日常を送っていようが知ったことじゃない。女心を弄ぶ極悪人だとしても見抜けなかった女も女だし、両者同意の元なら自己責任だ。
「今日こそ、きちんと自己紹介をさせて頂きたかったので」
「……」
 奴の言葉が店内にはっきりと響く。
 薄い色素の瞳に吸い込まれるような感覚に陥る自分を、済んでのところで食い止めた。心の中でかぶりを振る。二人きりの空間に、決して酔わされるなと。
「……そうですね。私も、きちんと自己紹介したいと思っていたんです」
 読み終えた本を傍らに置き、私は席を立った。ヒールを足しても奴に届かない視線を憎々しく思いながら、ぐっと背筋を伸ばす。
「小野寺杏。二十五歳。M大図書館の司書をやっています」
「小野寺……杏さん」
 油断を誘うような、どこか甘い声色で呼ばれる名前。
 騙されねぇよ。この馬鹿。
「ええ。宜しければ、友達になりませんか」
 恐らく今までで一番の、とっておきの可愛らしい笑顔を向けて。

「セフレじゃない」
「純粋な」
「友達に」
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