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第一章 新刊、宣言、挑戦状。

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 新作に灯された昂ぶりが、いまだに胸をくすぶり続けている。
 待ちに待った新作とともに過ごした、素晴らしい夜だった。これだから一夜漬けはやめられない。
 外に出ると、眩しい日の光は既に頭上にいた。私は堪えきれない感動を携え、最近行きつけのとあるお店にたどり着く。
 二ヶ月前に自宅近くに出来た喫茶店、「カフェ・ごんざれす」。
 木目の温かい扉にぐっと力を込めると、遠くからせわしなく床を引っ掻く「あの子」の足音が近付いてくるのが分かった。来客を告げる鐘の音が、耳に懐かしく響く。
「ゴン! ストップ!」
 飛びかかる寸前で投げかけられた命令に、ぴたりと動きを止めるのはさすがだ。それでも好奇心が溢れる彼の息遣いに、私は顔を綻ばせながら手のひらを毛並みに沿わせる。香ばしい太陽の香りがした。
「こんにちは、栄二(えいじ)さん」
「小野寺さんでしたか。どうぞお好きな席に」
 互いに親しみを込めた会釈とともに、カフェのオーナーである栄二さんと笑顔を交わす。
 看板犬であるゴールデンレトリバーのゴンちゃんも、満足げに頭を撫でられていた。その後、彼は入り口付近で何か思案する様子を見せた後、日光が一番に射し込む場所で丸まるように座り込む。
 店内を進むと、時折きしりと床板が音を奏でた。レースカーテンに上部を薄く遮られた日光が、一面を優しく照らしている。細く開けられた窓の隙間からは春風がきらきらと流れ込み、店内の時間を控えめに進めていた。
「カフェモカのホットをお願いします」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
 目尻を下げて向けられる栄二さんの笑顔に、ほっと心が和む。
 コーヒーの芳香が立ちこめるなか、向かいのガラス棚に映る自分の姿が目に留まった。
 少し開きすぎている前髪をさっと整える。勤務時と比べれば多少気を抜いた今日の服装も、シンプルを十分着こなせていた。
 職場で「仕事が速い」と評判の自分が、同時に「可愛げがない」と囁かれていることを私は知っている。それでも構わないと思っていた。
 私が好きと思える私で生きる。もう随分前に、そう決めたのだから。



(小野寺さんって、意外と美人だよね?)
 中学時代、女子に一番人気だった男子から告げられた一言。
 それは冴えない一人の女子中学生の日常を吹き飛ばす、酷く無邪気な爆弾だった。
 幼い頃から私は、本に魅せられて育ってきた。
 おじいちゃんから途切れることなく与えられた本に夢中になり、周囲が恋に友情にいそしむ中で変わり者扱いされ、私もそれを甘受していた。
 最中、あの爆弾発言だ。その後の推移は想像にかたくないだろう。
(いい気になってんじゃねーよ)
 クラスのリーダー格だった女子から言い放たれた言葉に、反論はしなかった。
「自分は意外と美人らしい」。その認識を得た自分は、確かにいい気になっていたのだ。
 その後、元来の負けず嫌いも相成って瞬く間に構築されたものは、人目を引きながらもそつなく世渡りをこなす術。
 それが好き放題に高じた結果、今の自分が確立された。



「ね! 言ったでしょ? 今度は間違いなく当たりだって!」
 浮き足だった若い子たちの会話に、唐突に現実に引き戻される。視線を向けると、学生らしき女の子たちがお喋りに花を咲かせていた。自分とは1オクターブほど高い話し声。私には一生縁遠いものだ。
 鞄から、明け方読み終えたばかりの新刊を取り出す。口元に微笑を浮かべ、表紙の作家名を指でなぞった。
 とっておきの書籍を手に入れたときは、一夜読みをしたあと決まってこの店の戸を開ける。そして身に沁み入るようなカフェモカの甘い苦みとともに、再度物語に浸るのが習慣になっていた。
 さて、もう一度物語の世界に旅立つとするか――。
「お待たせしました。ホットのカフェモカです」
「っ!」
 するりと耳に入ってきた声に、思わず肩が跳ねた。
 手にしていた本を一瞬宙に浮かせてしまい、慌てて手中に収める。危ない。購入二日目で装丁を汚すなんて、司書としてもファンとしても失格だ。
「っ、すみません。こちらに置いてもらえますか?」
 らしくない羞恥を隠すように、少々早口で告げる。
 そこでようやく、カフェモカを運んできた人物が栄二さんではないことに気付いた。
「いえ、こちらこそ驚かせてしまいましたね。すみません」
 栄二さんの単独経営かと思っていたけれど、他の従業員もいたのか。
 目の前の青年が、少し困ったようにはにかむ。思わず加護欲がくすぐられる微笑みが浮かべられた途端、突如背後から黄色い歓声が上がった。
ああなるほど、と私は思った。あの女の子たちの話題の主はこの青年だったか。
 栄二さんより幾分か若く映る彼。ウェーブのかかった髪が、日の光に照らされて眩しい。一瞬女性とも思わせる物腰の柔らかな空気は、ウェイターにぴったりだと思った。
 しかしながら……何だろう。微かな胸騒ぎが、さざ波のように迫ってくるのを感じる。とても嫌な、胸騒ぎが。
 涼しげな薄茶色の瞳と目が合う。
 そこにふと、かけていないはずの眼鏡が透けて見えた気がして――私は息を呑んだ。
「どうぞごゆっくりお過ごし下さいね」
「……、はい」
 ああ、終わった。懇切丁寧に接客していただいた青年の背中を、私はぼう然と見送る。
(俺は貴女ほど、この作家に熱を上げられないから)
 似非インテリ男。あいつだ。間違いない。
 よりによって、こんなところで再会するなんて……!
 昨日の書店で見せてしまったファン根性丸出しの醜態が、色濃く脳裏に蘇ってくる。
 唐突な再会に思考停止した私は、ひとまず読書で心頭滅却を試みる。そしてすぐに手元の書籍が問題の「譲り受け品」だと気付き、思わず天井を仰いだ。
 失態の目撃者が勤める場所に臆面なく通えるほど、私の面の皮は熱くない。
 ああ、このカフェに来るのも、これが最後か――。
 短い期間ではあったものの心の拠り所になってくれた店内を感慨深く眺め、最後の晩餐とばかりに温かなカフェモカにゆっくり口を付ける。
 目の前に揺れる甘い香りが、脱力した自分を慰めてくれている気がした。

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