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第一章 新刊、宣言、挑戦状。
(1)
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小野寺(おのでら)さんって、意外と美人だよね?
中学時代、女子に一番人気だった男子から告げられた一言。思えばあれが、全ての始まりだったように思う。
「小野寺さんっ、その……お疲れさまです!」
「お疲れさま。論文、頑張って」
「は、はい!」
端的な返答と営業スマイル。それに容易く色めき立つ男子数人の様子を背に、私は素知らぬ顔で階段を下っていった。
図書館司書の「小野寺(おのでら)杏(あん)」に声をかけることができた勇者は、仲間から飲み物を奢られる。ケツの青い男子学生の賭けの対象になっていることに、いつまでも気付かない私ではない。
歩みを早めながら、仕事中結っていた髪にさっと手櫛する。跡が残らない自分の髪質に感謝し、先を急いだ。
開かれた自動扉の先では、大きな夕焼けが出迎えてくれる。この日をどれだけ待ち望んでいたことだろう。
一気に階段を駆け下りる。就業時間ギリギリに終わらせたブッカー作業も主任が小言を言い出すタイミングも、全て見計らってタイムカードを沈めてきた。全てはそう。今日の日のために。
「おい。あれ」
「うわ、すっげー美人」
すれ違いざまに投げかけられる学生からの称賛の言葉も、別に珍しいことではない。
それでも今日一日は周囲からの視線を感じ取るたびに、いつの間にか緩んでいた口元を慌てて引き締めることを繰り返していた。
ああダメだ。せめて大学近辺では、高潔なイメージを保たなければ。
信号に引っかかり、向かいのビルの窓に映し出される自らの姿を眺める。
平均より幾分抜きでた長身。春風に控えめに揺れる長い黒髪。いつも何かを主張し続けている少し生意気そうな瞳。
それでも今日ばかりは、勝気な瞳にも子供のように抑えのきかない喜びが色濃く滲んでいた。まあ、それも仕方ないと思いたい。
なにしろ三ヶ月前から、今日という日を待ちに待っていたのだから――。
「惜しかったですねぇ」
お日様のように朗らかな言葉に、私は呆然と立ち尽くしていた。
職場のM大図書館とは違った色彩で本が息づく場所。勤め先から十分もかからない駅直結のこの書店に、私はほぼ毎日通っていた。
いつもは職場に発注する本選びが目的だったが、今回は違う。
今日は、私の大好きな小説家の新作発売日なのだ。
最近ではこの作家の作品がメディアに取り上げられることも多くなり、前々からこの書店にも新作発売日が大々的に記されていた。それを知った瞬間に、私は新作の予約手続きを済ませた。
かなりの冊数を入荷するであろうことも予想通り。現に今だって、目の前には平積みされた新作の表紙が綺麗に顔を揃えている。
跡形もなく空になった……直筆サイン入り新刊コーナーの傍らで。
「いやあ。お客さん、この作家さんのことご贔屓にしていたでしょう? サイン本のことを教えて差し上げたかったんですが、当日になるまでお口にチャックと言われておりましたものでねぇ」
「……いつ、売り切れたんですか」
「いや~本当に惜しいッ! ついさっきなんですよぉ。ほら今レジに並んでる、あのお客さん」
爪がまん丸に詰められた店長の指さす方向に、ゆらりと視線を向ける。
同世代くらいの男だった。深く被った帽子に、後ろから顔を出している癖の付いた茶髪。ちらりと見えたおしゃれ眼鏡。似非インテリ男か。この野郎。
遠くの手中には「著者直筆サイン入り!」と記された新刊が何食わぬ顔でこちらを向いている。しばらく呪詛の視線を送ってみるも、男はこちらを振り向く素振りすらなかった。
まぁしかし、私も行動慎む一般社会人。レジで既に精算を始めたインテリ男(仮)の肩を掴んで「それを譲らないと一生恨みますよ」と詰め寄るわけにもいかない。
「で……残りの在庫は?」
「へ?」
なので代わりに、目の前の朗らか店長の肩を掴み上げることにした。
「あ、あの、ちょ……」
「納品データを今すぐ見せて下さい。出し惜しみしてんじゃないでしょうね……?」
「ひいっ!」
耳元で吹きこんだ脅迫に、店長の首筋がさあっと青くなる。
この作家は、メディアに取り上げられることこそあれ、自身が姿を現すことはない。
だからこそ、大好きな作家との数少ない触れ合いを逸したくないと思うのは、ファンの域を越えているのだろうか。抑え切れない怒りが変に目の奥を刺激しているのもやっぱり可笑しい? これだから活字オタクはとでも? ええその通りですから全く構いませんが!
「あ、あああ、あのっ、お客様、どうか落ち着いて……!」
「昨日もこの店に来ましたよね私。寧ろ新作についても、観賞用・保存用・布教用の三冊分ちゃんと予約出来ているか確認もしましたよね私! その時に少しくらい耳打ちしてくれても良いじゃないですかっ? 大体サイン本なんて滅多なもの手に入ることくらい、随分前から分かって――……」
次の瞬間、続くはずだった不条理な怒りが喉の奥に溶けていった。
とある書籍の表紙が、突然目の前を覆ったのだ。
星たちが微かに瞬く町に、立ち尽くしたふたりの影が描かれた装丁。
問題の、新刊の表紙だ。それも。
「サイン入りの……?」
「どうぞ。お譲りします」
頭上から落ちてきた言葉。咄嗟に振り返り、声の主に私は目を見開いた。
さっきのインテリ男――口に出そうになった言葉を喉の奥に押し止める。
先ほどまで被っていたはずの帽子は手中に収められていて、胡散臭さは幾分か薄れていた。白く手入れの行き届いた肌に加え、眼鏡の奥からかち合った眼差しは意外にも紳士的に見える。
一瞬呆けてしまった私だったが、手渡された書籍の重みで我に返った。
「俺は気紛れに買ってみただけだから。貴女の方がよっぽど、持ち主にふさわしいです」
「……っ、どうして」
「俺は貴女ほど、この作家に熱を上げられないから」
まるで何かを赦すような、爽やかな微笑み。私は不覚にも、顔に熱が帯びるのを抑えられなかった。
思えばここは職場の近くなのだ。人目がある場所で、自制も効かず書籍に熱を上げて暴走する。今までも数え切れないくらい反省してきたのに……!
視界の端には助かったと言わんばかりに額の汗を拭う店長。その背後からちくちくと送られる好奇の視線に見知った人物がないことは不幸中の幸いだった。
「あ、あの! お譲りいただいて、ありがとうございます……」
「うん。こちらこそ」
こちらこそ?
脳内で疑問符が浮かんだのと、男が背を向けたのはほぼ同時だった。
男の姿が人混みにかき消されたのと、代金を渡し忘れたのに気付いたのもまた、ほぼ同時のことだった。
中学時代、女子に一番人気だった男子から告げられた一言。思えばあれが、全ての始まりだったように思う。
「小野寺さんっ、その……お疲れさまです!」
「お疲れさま。論文、頑張って」
「は、はい!」
端的な返答と営業スマイル。それに容易く色めき立つ男子数人の様子を背に、私は素知らぬ顔で階段を下っていった。
図書館司書の「小野寺(おのでら)杏(あん)」に声をかけることができた勇者は、仲間から飲み物を奢られる。ケツの青い男子学生の賭けの対象になっていることに、いつまでも気付かない私ではない。
歩みを早めながら、仕事中結っていた髪にさっと手櫛する。跡が残らない自分の髪質に感謝し、先を急いだ。
開かれた自動扉の先では、大きな夕焼けが出迎えてくれる。この日をどれだけ待ち望んでいたことだろう。
一気に階段を駆け下りる。就業時間ギリギリに終わらせたブッカー作業も主任が小言を言い出すタイミングも、全て見計らってタイムカードを沈めてきた。全てはそう。今日の日のために。
「おい。あれ」
「うわ、すっげー美人」
すれ違いざまに投げかけられる学生からの称賛の言葉も、別に珍しいことではない。
それでも今日一日は周囲からの視線を感じ取るたびに、いつの間にか緩んでいた口元を慌てて引き締めることを繰り返していた。
ああダメだ。せめて大学近辺では、高潔なイメージを保たなければ。
信号に引っかかり、向かいのビルの窓に映し出される自らの姿を眺める。
平均より幾分抜きでた長身。春風に控えめに揺れる長い黒髪。いつも何かを主張し続けている少し生意気そうな瞳。
それでも今日ばかりは、勝気な瞳にも子供のように抑えのきかない喜びが色濃く滲んでいた。まあ、それも仕方ないと思いたい。
なにしろ三ヶ月前から、今日という日を待ちに待っていたのだから――。
「惜しかったですねぇ」
お日様のように朗らかな言葉に、私は呆然と立ち尽くしていた。
職場のM大図書館とは違った色彩で本が息づく場所。勤め先から十分もかからない駅直結のこの書店に、私はほぼ毎日通っていた。
いつもは職場に発注する本選びが目的だったが、今回は違う。
今日は、私の大好きな小説家の新作発売日なのだ。
最近ではこの作家の作品がメディアに取り上げられることも多くなり、前々からこの書店にも新作発売日が大々的に記されていた。それを知った瞬間に、私は新作の予約手続きを済ませた。
かなりの冊数を入荷するであろうことも予想通り。現に今だって、目の前には平積みされた新作の表紙が綺麗に顔を揃えている。
跡形もなく空になった……直筆サイン入り新刊コーナーの傍らで。
「いやあ。お客さん、この作家さんのことご贔屓にしていたでしょう? サイン本のことを教えて差し上げたかったんですが、当日になるまでお口にチャックと言われておりましたものでねぇ」
「……いつ、売り切れたんですか」
「いや~本当に惜しいッ! ついさっきなんですよぉ。ほら今レジに並んでる、あのお客さん」
爪がまん丸に詰められた店長の指さす方向に、ゆらりと視線を向ける。
同世代くらいの男だった。深く被った帽子に、後ろから顔を出している癖の付いた茶髪。ちらりと見えたおしゃれ眼鏡。似非インテリ男か。この野郎。
遠くの手中には「著者直筆サイン入り!」と記された新刊が何食わぬ顔でこちらを向いている。しばらく呪詛の視線を送ってみるも、男はこちらを振り向く素振りすらなかった。
まぁしかし、私も行動慎む一般社会人。レジで既に精算を始めたインテリ男(仮)の肩を掴んで「それを譲らないと一生恨みますよ」と詰め寄るわけにもいかない。
「で……残りの在庫は?」
「へ?」
なので代わりに、目の前の朗らか店長の肩を掴み上げることにした。
「あ、あの、ちょ……」
「納品データを今すぐ見せて下さい。出し惜しみしてんじゃないでしょうね……?」
「ひいっ!」
耳元で吹きこんだ脅迫に、店長の首筋がさあっと青くなる。
この作家は、メディアに取り上げられることこそあれ、自身が姿を現すことはない。
だからこそ、大好きな作家との数少ない触れ合いを逸したくないと思うのは、ファンの域を越えているのだろうか。抑え切れない怒りが変に目の奥を刺激しているのもやっぱり可笑しい? これだから活字オタクはとでも? ええその通りですから全く構いませんが!
「あ、あああ、あのっ、お客様、どうか落ち着いて……!」
「昨日もこの店に来ましたよね私。寧ろ新作についても、観賞用・保存用・布教用の三冊分ちゃんと予約出来ているか確認もしましたよね私! その時に少しくらい耳打ちしてくれても良いじゃないですかっ? 大体サイン本なんて滅多なもの手に入ることくらい、随分前から分かって――……」
次の瞬間、続くはずだった不条理な怒りが喉の奥に溶けていった。
とある書籍の表紙が、突然目の前を覆ったのだ。
星たちが微かに瞬く町に、立ち尽くしたふたりの影が描かれた装丁。
問題の、新刊の表紙だ。それも。
「サイン入りの……?」
「どうぞ。お譲りします」
頭上から落ちてきた言葉。咄嗟に振り返り、声の主に私は目を見開いた。
さっきのインテリ男――口に出そうになった言葉を喉の奥に押し止める。
先ほどまで被っていたはずの帽子は手中に収められていて、胡散臭さは幾分か薄れていた。白く手入れの行き届いた肌に加え、眼鏡の奥からかち合った眼差しは意外にも紳士的に見える。
一瞬呆けてしまった私だったが、手渡された書籍の重みで我に返った。
「俺は気紛れに買ってみただけだから。貴女の方がよっぽど、持ち主にふさわしいです」
「……っ、どうして」
「俺は貴女ほど、この作家に熱を上げられないから」
まるで何かを赦すような、爽やかな微笑み。私は不覚にも、顔に熱が帯びるのを抑えられなかった。
思えばここは職場の近くなのだ。人目がある場所で、自制も効かず書籍に熱を上げて暴走する。今までも数え切れないくらい反省してきたのに……!
視界の端には助かったと言わんばかりに額の汗を拭う店長。その背後からちくちくと送られる好奇の視線に見知った人物がないことは不幸中の幸いだった。
「あ、あの! お譲りいただいて、ありがとうございます……」
「うん。こちらこそ」
こちらこそ?
脳内で疑問符が浮かんだのと、男が背を向けたのはほぼ同時だった。
男の姿が人混みにかき消されたのと、代金を渡し忘れたのに気付いたのもまた、ほぼ同時のことだった。
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