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第三章 牡丹の香り、化け猫と猫
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「え、そうなんですか?」
紬を安心させるための出任せかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「ほら。ハルも当たり前のように粥の作り方を指示出ししていたでしょう。今までもこういう時は大体、ハルが粥を作ってくれてたんだよね」
「そうだったんですね。あ、それじゃあ、ハル先輩のお粥の方がお口に合ったんじゃ」
「はは。紬さんは本当に優しいね」
紫苑の白い手が、そっと紬の前髪をなで上げる。その温もりがいつもよりも冷たく感じて、まだ全快ではないことがうかがえた。思わず心配する感情が視線に乗ってしまったのか、紫苑は困ったように眉を下げた。
「こんなふうに心配されるのは、何年ぶりかな」
「そんなこと。ハル先輩だって口はああですけど、内心はとても心配していますよ?」
「はは。そうか。そうだよね」
額に佇んでいた紫苑の手が、そのまま紬の頬に降りてくる。僅かに耳の下辺りにかけられた長い小指に、紬は小さく身を捩った。
「紫苑さん……あの、少し、くすぐったいです」
「君もいつか……『ああまたか』って言ってくれるくらいに、俺との時間に慣れてくれるかな」
「え?」
その声色が意外で、紬は紫苑の顔を見上げた。
「それともやっぱり、君もいつか俺のそばからいなくなるのかな」
そう零す紫苑は、いつもとはまるで正反対の表情を浮かべていた。
まるで眼差しだけで相手の身動きを塞ぐような、冷たい氷の瞳。
「紫苑、さん?」
「……ああごめん。やっぱり病み上がりでちょっと気が落ちてるかな」
頬に触れていた手が離れていく。次に見えた紫苑の表情は、いつもと同じ朗らかな笑顔だった。まるで、今のやりとりが紬の記憶違いと思わせるほどに。
「紬さんとこうして一緒に暮らすのが当たり前になっているからね。体調不良で、ちょっと感傷的になったみたいだ」
「一緒に」
「え?」
「一緒に、いますよ」
思わず口から漏れ出た言葉だった。
「私でよければ、一緒にいます。紫苑さんがそう望んでくれるのなら……」
「……」
「だから、その」
「そういうことは、あまり軽々しく言わない方がいい」
頬に滲んでいた熱が、さっと霧散していくのがわかった。
「そんな口約束は、君の足枷にしかならない」
「足、枷?」
「前にも言ったでしょう。あまり純粋がすぎると、それにつけ込もうとする悪人だっている」
その悪人が、紫苑だと?
口に出せないまま目を剥いている紬に、今度こそ弁解が返ってくることはなかった。再び垣間見た冷たい表情が変わることはなく、紫苑の背が店の奥へと消えていく。
相変わらず足音のまるで聞こえないその去り姿が、酷く哀しかった。
***
「それはずばり、セーリなのダ!」
翌日。
香堂の昼休憩に訪れた中央橋では、浪子の他にも見覚えのある少年の姿があった。
あっけらかんと口にしたお豆の発言に、隣の浪子が無遠慮にげんこつを落とす。
「痛いのダ浪子姉! だって時々来る体調不良で食欲なくてイライラしてて機嫌が悪くなって……っていったらセーリしかないのダ」
「た、確かに、それなら話が通るかも……?」
「デリカシーのないちびっ子は黙ってなさい。紬も納得しかけるんじゃない!」
呆れた様子で息を吐いた浪子は、何やらお洒落な飲み物を片手に中央橋のベンチに腰を下ろした。運河をそよぐ風に髪をなびかせる姿は、毎度のことながら惚れ惚れするほど美しい。
「紫苑くんが時々疲れた様子なのは、アタシも確かに見かけたことがあるわ。人間なんだもの、そんなの別に普通でしょう」
「そう、ですよね。あんなにお疲れの紫苑さんを初めて見たので、すこしだけ過敏に驚いてしまったのかもしれません」
「人間っていうけど、そもそもあいつはあの橘家の人間なのだ。普通の人間とは全然違うのダ」
「馬鹿お豆。要らないことを言うんじゃない」
再びげんこつが落とされ、お豆がしばらく頭を抑えてそこにうずくまる。浪子の素早い反応に紬は目を瞬かせた。
「浪子さんも、もしかして知っているんですか。紫苑さんと橘家の関係みたいなものを」
「まあ、一応噂半分にはね」
紬を安心させるための出任せかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「ほら。ハルも当たり前のように粥の作り方を指示出ししていたでしょう。今までもこういう時は大体、ハルが粥を作ってくれてたんだよね」
「そうだったんですね。あ、それじゃあ、ハル先輩のお粥の方がお口に合ったんじゃ」
「はは。紬さんは本当に優しいね」
紫苑の白い手が、そっと紬の前髪をなで上げる。その温もりがいつもよりも冷たく感じて、まだ全快ではないことがうかがえた。思わず心配する感情が視線に乗ってしまったのか、紫苑は困ったように眉を下げた。
「こんなふうに心配されるのは、何年ぶりかな」
「そんなこと。ハル先輩だって口はああですけど、内心はとても心配していますよ?」
「はは。そうか。そうだよね」
額に佇んでいた紫苑の手が、そのまま紬の頬に降りてくる。僅かに耳の下辺りにかけられた長い小指に、紬は小さく身を捩った。
「紫苑さん……あの、少し、くすぐったいです」
「君もいつか……『ああまたか』って言ってくれるくらいに、俺との時間に慣れてくれるかな」
「え?」
その声色が意外で、紬は紫苑の顔を見上げた。
「それともやっぱり、君もいつか俺のそばからいなくなるのかな」
そう零す紫苑は、いつもとはまるで正反対の表情を浮かべていた。
まるで眼差しだけで相手の身動きを塞ぐような、冷たい氷の瞳。
「紫苑、さん?」
「……ああごめん。やっぱり病み上がりでちょっと気が落ちてるかな」
頬に触れていた手が離れていく。次に見えた紫苑の表情は、いつもと同じ朗らかな笑顔だった。まるで、今のやりとりが紬の記憶違いと思わせるほどに。
「紬さんとこうして一緒に暮らすのが当たり前になっているからね。体調不良で、ちょっと感傷的になったみたいだ」
「一緒に」
「え?」
「一緒に、いますよ」
思わず口から漏れ出た言葉だった。
「私でよければ、一緒にいます。紫苑さんがそう望んでくれるのなら……」
「……」
「だから、その」
「そういうことは、あまり軽々しく言わない方がいい」
頬に滲んでいた熱が、さっと霧散していくのがわかった。
「そんな口約束は、君の足枷にしかならない」
「足、枷?」
「前にも言ったでしょう。あまり純粋がすぎると、それにつけ込もうとする悪人だっている」
その悪人が、紫苑だと?
口に出せないまま目を剥いている紬に、今度こそ弁解が返ってくることはなかった。再び垣間見た冷たい表情が変わることはなく、紫苑の背が店の奥へと消えていく。
相変わらず足音のまるで聞こえないその去り姿が、酷く哀しかった。
***
「それはずばり、セーリなのダ!」
翌日。
香堂の昼休憩に訪れた中央橋では、浪子の他にも見覚えのある少年の姿があった。
あっけらかんと口にしたお豆の発言に、隣の浪子が無遠慮にげんこつを落とす。
「痛いのダ浪子姉! だって時々来る体調不良で食欲なくてイライラしてて機嫌が悪くなって……っていったらセーリしかないのダ」
「た、確かに、それなら話が通るかも……?」
「デリカシーのないちびっ子は黙ってなさい。紬も納得しかけるんじゃない!」
呆れた様子で息を吐いた浪子は、何やらお洒落な飲み物を片手に中央橋のベンチに腰を下ろした。運河をそよぐ風に髪をなびかせる姿は、毎度のことながら惚れ惚れするほど美しい。
「紫苑くんが時々疲れた様子なのは、アタシも確かに見かけたことがあるわ。人間なんだもの、そんなの別に普通でしょう」
「そう、ですよね。あんなにお疲れの紫苑さんを初めて見たので、すこしだけ過敏に驚いてしまったのかもしれません」
「人間っていうけど、そもそもあいつはあの橘家の人間なのだ。普通の人間とは全然違うのダ」
「馬鹿お豆。要らないことを言うんじゃない」
再びげんこつが落とされ、お豆がしばらく頭を抑えてそこにうずくまる。浪子の素早い反応に紬は目を瞬かせた。
「浪子さんも、もしかして知っているんですか。紫苑さんと橘家の関係みたいなものを」
「まあ、一応噂半分にはね」
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