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第二章 迷子の小豆洗いは小樽を彷徨う
(21)
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「ね?」と念を押す紫苑に、紬は数日前のハルとの会話のようだと思いつつ、こくりと頷く。
とはいえ、あのときの自分の話は、半分以上ただの自分語りだ。
それでお豆の感情がトーンダウンしたのは紬も感じたところだが、どちらかというと間の抜けた人間の話しぶりに呆れていただけな気もする。
「ええっと。それにしてもアレですね。私がお豆くんを見つけることができたのって、本当に偶然に偶然が重なった産物だったんですね」
漂うくすぐったい空気を振りきるため、紬は半ば強引に別の話題を供した。
「そうだね。俺たちもてっきり、紬さんはもうお豆くんの居場所がわかったんだとばかり思っていたけれど」
「はは……私ってばてっきり、旧安田銀行小樽支店にいたのを見逃したのだとばかり思っていました……」
紬がそう判断した理由は、旧安田銀行の建物前でのみ、匂い袋の芳香がふわりと香ったからだ。
それが余りに微かな香りだったから反応せずに一度通過してしまったが、振り返ればそのときの香りに勝る香りは、例え匂い袋に鼻を押しつけても聞くことができなかった。
しかしそれが香った本当の理由は、建物裏から吹き抜けた風に、裏手建物内で秘かに身を寄せていたお豆の妖気が微かに乗ってきたからだったのだ。
「それにしても、旧安田銀行小樽支店の隣に建つあの建物もまた、元は銀行建築だったなんて驚きました……」
あの老婦人の厚意で、怪我の手当をするために引き入れられた建物。
実はあの建物もまた、歴史ある元銀行建築のひとつだった。
現在民間会社が入っているその建物は、建物正面の中央に据えられた扉に、白い石積みを思わせる壁面。扉や窓の並びもほぼ左右対称に整えられた、ブロック型の建物。
確かに、見ればみるほどに銀行建築の建物であるあの建物こそ、旧横浜正金銀行小樽出張所であった。
「本当にすみませんでした。私が最初に調べ上げたとき、その建物を見過ごさなければよかったんですが」
「いや。紬さんがわからなかったのも無理ないよ。あの建物は他の銀行建築と違って、小樽市指定の歴史的建造物にされていないからね」
そう。あの建物は旧銀行建築であるにもかかわらず、小樽市指定歴史的建造物とされておらず、建物の歴史を語る濃紺の説明看板も設置されていない。
そのことが、紬が当該銀行建築を見逃してしまった要因のひとつであった。
「そんな歴史の深い建物が街に自然に溶け込んでいるなんて……やっぱり小樽の街は素敵ですね」
「そうだね。現に、この街に十二年住んでる俺も知らなかったくらいだもん。俺も聞いたときは驚いたよ」
ふふ、と口元に笑みを浮かべる紫苑に、紬も自然とつられて笑顔になる。
同時に、今日屋敷に帰ってからのやりとりを思い返していた。
紫苑はこの街に十二年住んでいる。二十歳の時に移り住んできた。それ以前は、結局どこで過ごしていたのだろう。
淡路の橘家。輪廻香司──そんな言葉が、ぐるぐる頭の中に浮かんでは消えていく。
何故この小樽にやってきたのか。何故この街で一人香堂を構えることになったのか。輪廻香司とはいったい何者なのか──。
そして、当然のことを思い知る。自分は紫苑のことをほとんど知らないのだ。
「そろそろ部屋に戻ろう。体が冷えてしまうよ」
「……はい。おやすみなさい」
結局紬は、そのどれも質問として口にするのないまま、自室のふすまに手をかける。
そのとき──微かに星屑の香りが届いた気がした。
「紫苑さん!」
気づけば紬は、前を歩く紫苑の着物を固く掴んでいた。
驚きの表情で振り返る紫苑に一瞬怯みそうになるが、勇気を総動員して耐える。
「紫苑さんは……紫苑さんは」
「紬さん?」
「紫苑さんは……香司の仕事、好きですか?」
どうにか絞り出した問いかけだった。
しばらく目を瞬かせていた紫苑だったが、静かにまぶたを下ろした後に見せたのは、いつもの優しい微笑みだった。
「うん。大好きだよ」
「そう、ですよね。あの、あの!」
「うん?」
「もし良ければ今度……私に、香造りを教えてくれませんか!? 私がもっともっと、香の知識に精通するようになったら、そのときには……!」
必死だった。こんな小さな約束事を用いても、引き止めずにはいられなかった。
そうしなければ、橘紫苑という人が、いつか自分の前から消えてなくなる気がしたのだ。
「もちろん。紬さんとの香造り、楽しみにしてるよ」
「はい……」
紫苑のことを、自分は何も知らない。
それでもきっと、今目にしている紫苑の優しい笑顔は本物だ。だから今は、それだけでいい。
「引き止めてしまって、すみませんでした。紫苑さんもゆっくり休んでくださいね」
「うん。ありがとう」
「……夜に、溶けないでくださいね」
「……え」
言葉にするつもりはなかった言葉が出た。
こちらに向けられた見張られた瞳にはっと息をのむ。
「へ、変なことを言いました。その、おやすみなさい……!」
恥ずかしさに居たたまれなくなった紬は、しどろもどろで自室のふすまを閉めた。
もとより足音のない紫苑がしばらくその場に立ち尽くしたことに、紬が気づくことはなかった。
とはいえ、あのときの自分の話は、半分以上ただの自分語りだ。
それでお豆の感情がトーンダウンしたのは紬も感じたところだが、どちらかというと間の抜けた人間の話しぶりに呆れていただけな気もする。
「ええっと。それにしてもアレですね。私がお豆くんを見つけることができたのって、本当に偶然に偶然が重なった産物だったんですね」
漂うくすぐったい空気を振りきるため、紬は半ば強引に別の話題を供した。
「そうだね。俺たちもてっきり、紬さんはもうお豆くんの居場所がわかったんだとばかり思っていたけれど」
「はは……私ってばてっきり、旧安田銀行小樽支店にいたのを見逃したのだとばかり思っていました……」
紬がそう判断した理由は、旧安田銀行の建物前でのみ、匂い袋の芳香がふわりと香ったからだ。
それが余りに微かな香りだったから反応せずに一度通過してしまったが、振り返ればそのときの香りに勝る香りは、例え匂い袋に鼻を押しつけても聞くことができなかった。
しかしそれが香った本当の理由は、建物裏から吹き抜けた風に、裏手建物内で秘かに身を寄せていたお豆の妖気が微かに乗ってきたからだったのだ。
「それにしても、旧安田銀行小樽支店の隣に建つあの建物もまた、元は銀行建築だったなんて驚きました……」
あの老婦人の厚意で、怪我の手当をするために引き入れられた建物。
実はあの建物もまた、歴史ある元銀行建築のひとつだった。
現在民間会社が入っているその建物は、建物正面の中央に据えられた扉に、白い石積みを思わせる壁面。扉や窓の並びもほぼ左右対称に整えられた、ブロック型の建物。
確かに、見ればみるほどに銀行建築の建物であるあの建物こそ、旧横浜正金銀行小樽出張所であった。
「本当にすみませんでした。私が最初に調べ上げたとき、その建物を見過ごさなければよかったんですが」
「いや。紬さんがわからなかったのも無理ないよ。あの建物は他の銀行建築と違って、小樽市指定の歴史的建造物にされていないからね」
そう。あの建物は旧銀行建築であるにもかかわらず、小樽市指定歴史的建造物とされておらず、建物の歴史を語る濃紺の説明看板も設置されていない。
そのことが、紬が当該銀行建築を見逃してしまった要因のひとつであった。
「そんな歴史の深い建物が街に自然に溶け込んでいるなんて……やっぱり小樽の街は素敵ですね」
「そうだね。現に、この街に十二年住んでる俺も知らなかったくらいだもん。俺も聞いたときは驚いたよ」
ふふ、と口元に笑みを浮かべる紫苑に、紬も自然とつられて笑顔になる。
同時に、今日屋敷に帰ってからのやりとりを思い返していた。
紫苑はこの街に十二年住んでいる。二十歳の時に移り住んできた。それ以前は、結局どこで過ごしていたのだろう。
淡路の橘家。輪廻香司──そんな言葉が、ぐるぐる頭の中に浮かんでは消えていく。
何故この小樽にやってきたのか。何故この街で一人香堂を構えることになったのか。輪廻香司とはいったい何者なのか──。
そして、当然のことを思い知る。自分は紫苑のことをほとんど知らないのだ。
「そろそろ部屋に戻ろう。体が冷えてしまうよ」
「……はい。おやすみなさい」
結局紬は、そのどれも質問として口にするのないまま、自室のふすまに手をかける。
そのとき──微かに星屑の香りが届いた気がした。
「紫苑さん!」
気づけば紬は、前を歩く紫苑の着物を固く掴んでいた。
驚きの表情で振り返る紫苑に一瞬怯みそうになるが、勇気を総動員して耐える。
「紫苑さんは……紫苑さんは」
「紬さん?」
「紫苑さんは……香司の仕事、好きですか?」
どうにか絞り出した問いかけだった。
しばらく目を瞬かせていた紫苑だったが、静かにまぶたを下ろした後に見せたのは、いつもの優しい微笑みだった。
「うん。大好きだよ」
「そう、ですよね。あの、あの!」
「うん?」
「もし良ければ今度……私に、香造りを教えてくれませんか!? 私がもっともっと、香の知識に精通するようになったら、そのときには……!」
必死だった。こんな小さな約束事を用いても、引き止めずにはいられなかった。
そうしなければ、橘紫苑という人が、いつか自分の前から消えてなくなる気がしたのだ。
「もちろん。紬さんとの香造り、楽しみにしてるよ」
「はい……」
紫苑のことを、自分は何も知らない。
それでもきっと、今目にしている紫苑の優しい笑顔は本物だ。だから今は、それだけでいい。
「引き止めてしまって、すみませんでした。紫苑さんもゆっくり休んでくださいね」
「うん。ありがとう」
「……夜に、溶けないでくださいね」
「……え」
言葉にするつもりはなかった言葉が出た。
こちらに向けられた見張られた瞳にはっと息をのむ。
「へ、変なことを言いました。その、おやすみなさい……!」
恥ずかしさに居たたまれなくなった紬は、しどろもどろで自室のふすまを閉めた。
もとより足音のない紫苑がしばらくその場に立ち尽くしたことに、紬が気づくことはなかった。
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