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第二章 迷子の小豆洗いは小樽を彷徨う

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「はい。こちらで間違いございません。いつもいつも素敵なお香をありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、毎度ありがとうございます」

 浪子と別れたあと、紬は一度店舗に戻ったのちに使いに出ていた。
 行き先は北一硝子の和のフロアだ。
 この店舗では切子きりこという技術で装飾された、ガラス製の香皿と香立てが販売されている。その実演に使用される線香を、小樽たちばな香堂から卸しているのだ。

「それにしても。たちばな香堂さんにこんな可愛らしい方がいらっしゃるなんてね。これでお店もいっそう華やぐこと間違いないわね」
「いえそんな。うちはすでに、店長の華やかさで十分過ぎるくらいですので」
「あっはっは。確かに、橘さんも男性なのに美人よねえ。女の私も惚れ惚れするほどだもの」

 応対してくれたフロア責任者の望月さんは四十代とおぼしき女性で、和装に身を包んだ朗らかで明るい方だった。自然と固い敬語が解けていくのを感じていると、「ところで」という言葉とともに望月さんとの距離がぐっと近づく。

「うちとたちばな香堂さんとはそれこそ十年以上のお付き合いだけれどね。新しく店員さんを雇いになったなんて初めてよ。その逆は何度もあったらしいけれど」
「そ、そうなんですね」
「そうなのよお。だからあなたが勤め始めたと聞いて本当にびっくりでねえ」

 確かにあんな美貌を持つ男性と魅力溢れるお香のお店が揃っていれば、世の女性たちが勤務を願い出るのは想像に難くない。

「私、本当に運が良かったんですね……。ここまでくると何だか不吉な予兆さえしてくるほどで、本当にただただ恐縮です……!」
「ああ、うん。そっちに落ち着いちゃうか……」

 なにやら消化不良気味にはにかんだ望月さんに別れを告げ、紬は来た道を引き返していく。

 暦は五月。北の大地にもようやく、遅い春の季節が根付いていた。
 初旬に見頃を迎えた桜も今は花弁を散らし、淡く白んだ空が明るく地面を温める。
 この小樽の街に来て一ヶ月。夏、秋、そして冬の景色は、一体どんな街並みを見せてくれるのだろう。
 紬の足取りは、届け物を済ませたこともありどこか軽い。慣れた調子で堺町通りを抜け、小樽運河ターミナルが佇む色内交差点を抜けていく。四月に紫苑に案内された通りを手慣れたように歩く自分に気づき、何だか可笑しかった。

「……え?」

 そのときだった。かすかに届いたある気配に気づき、紬は背後を振り返る。

 交差点は当然のように車が行き交い、ピーク時まで行かないにせよ観光客の姿も少なからず見られた。その光景をしばらく見据えたあと、紬ははてと首を傾げた。
 不思議な音が鳴った気がした。何かが羽ばたくような、風を切るような、そんな音が。

「この街だもの。不思議な物音のひとつやふたつしても可笑しくないよね」

 くすっと笑みを漏らした紬は再び歩き出す。
 その背後でふわりと舞い降りた白い羽根が地面に触れると、夢のように消えていった。

   ***

 戻った紬は、店先で作業を進めるハルの姿に目を丸くした。

「あーっ、やっと帰ってきた新入り! どこほっつき歩いてたんだよ!」
「すみませんハル先輩。今日はもう閉店ですか?」
「見ればわかるだろ。お前もぼうっとしてないでさっさと店じまいを手伝えっ」

 上背のない体を一生懸命伸ばしているハルに、紬は慌てて駆け寄る。
 どうやら店先の暖簾を卸そうとしていたらしい。そのまま暖簾を定位置にしまい込み、準備中の札を揺らた引き戸をそっと閉めた。

「おかえりなさい紬さん。急な店じまいだったから驚いたでしょう」
「紫苑さん。ただいま帰りました」

 店舗の中には、客がゆっくりお香の世界に触れられるようベンチを二カ所に設置されている。萌葱色の畳が座面になったそれは和の情緒が流れる店内によく合っていて、客にも好評な憩いのスペースだ。

 そして今そのスペースには、店主の紫苑の他にもう一人見慣れない御人が座していた。

 小柄な体。背中がやや弧を描くように曲がってはいるが、膝に置かれた手から浮き出た筋は秘めた力強さを感じさせる。身にまとう小豆色の着物がよく似合い、焦げ茶の羽織はまるでよく練られた餡の色を思わせた。
 いらっしゃいませと会釈をしつつ声をかけると、紫苑に向いていた顔がぱっとこちらを振り返った。人より大きいつぶらな瞳が、真っ直ぐに向けられる。

 その瞬間、目の前の老人があやかしであることが理解できた。

「ほおお。あんたがこの紫苑どのに見初められた、新入りの売り子さんかね?」
「は、はい。千草野紬と申します」
「ほっほっほ。これはこれは礼儀正しい娘さんじゃ。そなたもいい子を捕まえましたなあ」
「ええ。お陰さまで」

 にっこり返答する紫苑に、紬はどうしようもなく頬が火照る。例えそれが社交辞令だとしても、直球で褒め言葉を投げられることに紬は全く慣れていないのだ。そんな紬を見て、老人は再び微笑ましく肩を揺らした。

「ほっほっほ。こんな素敵な女性もお側にいるとなれば、今回の相談も俄然力が入るというものですな」
「もとより私は、貴方がたからのご相談には常に全力投球ですよ」
「ああ、これは失敬失敬」

 その後も気安いやりとりが交わされるのを見るに、二人はどうやら旧知の仲らしい。紫苑も当然、この老人があやかしということを知って「ご相談」を引き受けているのだろう。今日は臨時で店を閉めたのは、その相談に集中するためかもしれない。

「紬さんもこちらにおいで。一緒に話を聞いてくれるかな」
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