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第一章 寄す処(よすが)を失くした乙女、小樽へ行く
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「…………はい?」
たっぷり沈黙を使ってもなお、紫苑の言葉の意図は読み取れないままだった。
目を見開いた珍妙な笑みで固まっていると、紫苑の背後から覗きこんできたハルが「まあ、そんな顔になるわな」と同情にも似たため息を吐いた。
「お前、諦めな。こうなったこいつは、人もあやかしも止められねーから」
「うるさいよ、ハル」
にっこり笑いながら少年を見下ろす。本来微笑ましい構図のはずのそれが、いまや一触即発の緊張感を孕んでいるのはどういうわけだろう。
ハルとてこの手の視線は慣れているらしく、すぐにはいはいと一歩身を引いた。
待って。引かないで。私を置いていかないで……!
「大丈夫だよ紬さん。別に取って食おうなんて考えちゃいない」
「は、はい?」
「ひとまず、落ち着いて座って話そうか」
そういう紫苑の笑顔の圧に負けて、ひとまずその場に座する。部屋に飾られている色とりどりの着物が、今や自分の行く手を塞ぐ要塞に思えた。
「ときに紬さん。北一ホールで話してくれた情報によれば、紬さんは今、泊まる場所もなければ勤め先も失ったということで間違いない?」
「……はい。その通りです」
「それなら、うちに住んで、うちで働けばいい」
それは、至極シンプルな解決策だった。
「この家は今、俺とハルとで住んでいるんだけど、二人住まいには少々広すぎてね。部屋は空いているし、香堂のほうも人手を探していたところだったんだ」
「え、え? でも私、お香のことはまるで知識がありませんし、何よりそんなご迷惑をお掛けするわけには」
「迷惑なんてこれっぽちも思ってないよ。それになにより、君にしか出来ないことがたくさんある」
静かに紡がれた言葉に、紬の瞳が開かれた。
「この小樽の街は、様々な歴史の残り香がある特別な街でね。在りし日の香りを求めて、どこからか人ならざるものが集まるようになっているんだ」
「それはつまり、あやかしたちが……?」
「そう。先ほど会った浪子さんもね。この街は、彼らにとって余程居心地がいいらしい」
紬は確かにと納得した。紬自身この街に降り立ったときから、漂う歴史の織り交ぜられた空気に魅せられていた。
「そんなあやかしたちをときに見守り、ときに語らい、ときに宥める。この香堂では、通常店舗の他にそれも生業にしていてね」
「もしかして……最初に小樽運河で会ったあのときも?」
「その通り。あれはあやかしたちが好む香料を織り交ぜたものでね。時折ああして、あやかしたちの心に触れに歩くんだ」
つまり、紫苑は香を用いてあやかしたちと交流している、ということか。
確かに浪子と会ったときも、紫苑は彼女の好む調合の香を焚いていた様子だった。
「でもそれは誰でも出来ることじゃない。あやかしを視る目と、寄り添う心がなければできないことだ。君には、その力がある。それこそ、ハルの落とし物をわざわざ自分事のように慮って届けようとする、優しい心根の持ち主でなければね」
思いも寄らない言葉だった。
確かに自分にはあやかしを視る目がある。しかしながら、それは今まで自分をただただ「はみ出し者」と判断される材料でしかなかった。
良いこととして認められることなんて、今まで一度もなかったのだ。
「現にさっきだって、浪子さんの意図を汲んで、かんざしを差し出してあげたでしょう」
「っ、気づいていたんですか?」
「もちろん。浪子さんは、どうやら自分の皿を人に見せるのを避けているようだからね」
人にじゃなくて、あなたにです。出しかけたその言葉を、紬は喉奥に押し込んだ。
「見ず知らずの者と暮らすのは、当然警戒もするでしょう。必要ならこの部屋に鍵をつけてもいいし、勤務を始めるのは日を改めてからでも構わない」
「え、ええっと」
「でもね、紬さん」
俺には、君が必要なんだ。
その言葉が耳に触れ、鼓膜を優しく震わせる。同時に、瞳の奥からじわじわと滲んできた熱いものが、目尻に堪えきれず流れ落ちた。
「紬さん?」やや慌てた声色が響き、何だか可笑しくなる。この上ない口説き文句を放っておきながら。
そっと涙を拭き取ると、紬は深く頭を下げた。
***
紬が自室として使うことになった一室は、玄関横の廊下を真っ直ぐ進んだ、奥の和室だった。
紫苑は洋室のほうが過ごしやすいのではと提案してくれたが、紬は敢えて和室を選んだ。漂う藺草の香りとこの屋敷全体を包むほのかな香の香りを同時に感じられるこの和室が、紬にとっては至極贅沢な安らぎの空間に思えたのだ。
「ふう。これで荷ほどきは終わりかな」
夕食をもらい片付けを済ませたあと、紬は一人黙々と自分の荷物の整理に取りかかっていた。
とはいえ荷物はキャリーバッグ一つに収まる程度で、一時間もあればあらかた片がついた。部屋に備えられた布団や桐箪笥、そして化粧台もすべて紬の好きに使ってほしいとのことだった。つくづく紬には身に余るほどの幸運である。
どうして、こんなに自分によくしてくれるのだろう。
たっぷり沈黙を使ってもなお、紫苑の言葉の意図は読み取れないままだった。
目を見開いた珍妙な笑みで固まっていると、紫苑の背後から覗きこんできたハルが「まあ、そんな顔になるわな」と同情にも似たため息を吐いた。
「お前、諦めな。こうなったこいつは、人もあやかしも止められねーから」
「うるさいよ、ハル」
にっこり笑いながら少年を見下ろす。本来微笑ましい構図のはずのそれが、いまや一触即発の緊張感を孕んでいるのはどういうわけだろう。
ハルとてこの手の視線は慣れているらしく、すぐにはいはいと一歩身を引いた。
待って。引かないで。私を置いていかないで……!
「大丈夫だよ紬さん。別に取って食おうなんて考えちゃいない」
「は、はい?」
「ひとまず、落ち着いて座って話そうか」
そういう紫苑の笑顔の圧に負けて、ひとまずその場に座する。部屋に飾られている色とりどりの着物が、今や自分の行く手を塞ぐ要塞に思えた。
「ときに紬さん。北一ホールで話してくれた情報によれば、紬さんは今、泊まる場所もなければ勤め先も失ったということで間違いない?」
「……はい。その通りです」
「それなら、うちに住んで、うちで働けばいい」
それは、至極シンプルな解決策だった。
「この家は今、俺とハルとで住んでいるんだけど、二人住まいには少々広すぎてね。部屋は空いているし、香堂のほうも人手を探していたところだったんだ」
「え、え? でも私、お香のことはまるで知識がありませんし、何よりそんなご迷惑をお掛けするわけには」
「迷惑なんてこれっぽちも思ってないよ。それになにより、君にしか出来ないことがたくさんある」
静かに紡がれた言葉に、紬の瞳が開かれた。
「この小樽の街は、様々な歴史の残り香がある特別な街でね。在りし日の香りを求めて、どこからか人ならざるものが集まるようになっているんだ」
「それはつまり、あやかしたちが……?」
「そう。先ほど会った浪子さんもね。この街は、彼らにとって余程居心地がいいらしい」
紬は確かにと納得した。紬自身この街に降り立ったときから、漂う歴史の織り交ぜられた空気に魅せられていた。
「そんなあやかしたちをときに見守り、ときに語らい、ときに宥める。この香堂では、通常店舗の他にそれも生業にしていてね」
「もしかして……最初に小樽運河で会ったあのときも?」
「その通り。あれはあやかしたちが好む香料を織り交ぜたものでね。時折ああして、あやかしたちの心に触れに歩くんだ」
つまり、紫苑は香を用いてあやかしたちと交流している、ということか。
確かに浪子と会ったときも、紫苑は彼女の好む調合の香を焚いていた様子だった。
「でもそれは誰でも出来ることじゃない。あやかしを視る目と、寄り添う心がなければできないことだ。君には、その力がある。それこそ、ハルの落とし物をわざわざ自分事のように慮って届けようとする、優しい心根の持ち主でなければね」
思いも寄らない言葉だった。
確かに自分にはあやかしを視る目がある。しかしながら、それは今まで自分をただただ「はみ出し者」と判断される材料でしかなかった。
良いこととして認められることなんて、今まで一度もなかったのだ。
「現にさっきだって、浪子さんの意図を汲んで、かんざしを差し出してあげたでしょう」
「っ、気づいていたんですか?」
「もちろん。浪子さんは、どうやら自分の皿を人に見せるのを避けているようだからね」
人にじゃなくて、あなたにです。出しかけたその言葉を、紬は喉奥に押し込んだ。
「見ず知らずの者と暮らすのは、当然警戒もするでしょう。必要ならこの部屋に鍵をつけてもいいし、勤務を始めるのは日を改めてからでも構わない」
「え、ええっと」
「でもね、紬さん」
俺には、君が必要なんだ。
その言葉が耳に触れ、鼓膜を優しく震わせる。同時に、瞳の奥からじわじわと滲んできた熱いものが、目尻に堪えきれず流れ落ちた。
「紬さん?」やや慌てた声色が響き、何だか可笑しくなる。この上ない口説き文句を放っておきながら。
そっと涙を拭き取ると、紬は深く頭を下げた。
***
紬が自室として使うことになった一室は、玄関横の廊下を真っ直ぐ進んだ、奥の和室だった。
紫苑は洋室のほうが過ごしやすいのではと提案してくれたが、紬は敢えて和室を選んだ。漂う藺草の香りとこの屋敷全体を包むほのかな香の香りを同時に感じられるこの和室が、紬にとっては至極贅沢な安らぎの空間に思えたのだ。
「ふう。これで荷ほどきは終わりかな」
夕食をもらい片付けを済ませたあと、紬は一人黙々と自分の荷物の整理に取りかかっていた。
とはいえ荷物はキャリーバッグ一つに収まる程度で、一時間もあればあらかた片がついた。部屋に備えられた布団や桐箪笥、そして化粧台もすべて紬の好きに使ってほしいとのことだった。つくづく紬には身に余るほどの幸運である。
どうして、こんなに自分によくしてくれるのだろう。
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