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第一章 寄す処(よすが)を失くした乙女、小樽へ行く

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「……へ?」

 対峙している子犬のようなあやかしは、こちらを見つめてはいたが口元は動いていない。それでもはっきり耳に聞こえた、気取らない低い口調。
 まさかと思いつつ、紬はそっと視線をあげた。

「この犬が後に付いている姿を見て、俺がこれに憑かれていると思ったんだよね?」
「あ、え、と」
「ありがとう。親切なお嬢さん」

 肯定する前に、その人はごく自然に礼の言葉を発した。

「安心して。これはもともと俺に仕える身。知らずに後をつけられているわけでも、悪事の機を狙っているわけでもないからね」

 紬は不格好に片膝をついたまま、流暢にそう語る麗人をぽかんと見つめるほかなかった。
 漆黒に近い藍色の和装に身を包んだ麗人は、どうやら殿方だったらしい。

 先ほどまで長い前髪で見えなかった瞳が、真っ直ぐに紬に向けられる。その瞳がまるで星空を詰め込んだようにきらきらとした瞬きに満ちていた。
 優しく細められた目もと。柔和に弧を象る唇。美人なのに、どこか親しみを覚える茶目っ気をも感じさせる。

 そして何より驚いたのは──この人もまた、「視える」人なのだということだ。

「……大丈夫? もしかして、どこか具合でも悪いんじゃ」
「っ、ご、ごごごめんなさい! その、余計なことをしてしまいまして……!」

 フリーズしていた思考を、無理やりたたき起こす。
 どうやらとんだお節介だったらしい。まさかあやかしを自分の意志で連れている人がいるとは考え及ばなかった。
 ……まあ、今まさに自分がそうなろうとしていたわけだが、自分以外にそんな行動をとる者に出会ったことがなかったのだ。

「はは。そんなに恐縮しなくてもいいよ。君はただ親切心で動いただけだ。人としてとても真っ当で、素敵な人だと思う」
「……っっ」

 惜しげもなく見せられた麗人の笑顔に、紬の臨界点がギリギリまで達しそうになる。
 頬が熱い。手も熱い。ついでに、目の奥も熱い。

 何を隠そう、紬は人との関わり合いが得意な方ではないのだ。
 なかでも、きれいで眩しくて、貴重な褒め言葉まで平然と贈ってくれる、高貴な殿方相手だなんて、とてもとても──。

「……? 君は……」

 どきん、と痛いくらいに心臓が打ち付ける。
 件の子犬のようなあやかしを追い抜き、和装の麗人が紬の目の前にわざわざ膝を折ったのだ。
 鼻と鼻の先がつきそうなほどに、その距離は近い。
 泡を吹く勢いで狼狽する紬をよそに、麗人は平然と瞼を閉じてじっと何かを感じ取っている様子だった。
 美しい人はまつげまで長いのだと、紬は思った。

「ああ、思った通りだ」
「あ、あ、あのっ?」
「君は……いい匂いがする。すごく」

 ああ。だめだ去ろう。一刻も早く。
 何やら謝罪めいた言葉を発したのだけ覚えている。
 気づけば弾けるようにその場を脱兎し、そのまま小樽運河を併走するように駆けだした。
 その場を離れようと夢中だった。だからこそ、いつもは絶対にしない不注意を冒した。

 背後を引きずり回していたキャリーバッグが、がつん、と大きな音を鳴らす。
 石畳の階段に引っかかり、キャスターが思いきり跳ね上がった。

 あ、まずい、と紬は思った。しかし、残念ながらもう遅い。
 紬自身も妙な体勢で後ろを振り返ったため、足元の段差を踏み外してしまう。
 手すりに手を掛ける暇もなく地面に向かって傾いていく体と、それに反比例して空を裂いていくキャリーバッグ。周囲からの悲鳴に近い声を、地面に打ち付けた頭の端で微かに理解する。

 次の瞬間、隕石か何かが運河をめがけて落っこちたような水の音とともに激しい水飛沫が紬を襲った。

「……」

 寝転がった状態のまま、紬はしばらく呆然とする。
 ああ、まただ。また、やってしまった。

 後悔の意識の中で何とか理解できたのが、転んだ拍子にキャリーバッグを運河へ落としてしまったこと。そのときの大きな水飛沫で全身がずぶ濡れになったこと。
 そして何より、周囲の戸惑いと同情と、好奇の視線だった。

 大丈夫、大丈夫。こういう視線も、もう慣れっこだ。
 折れかけた心に適当な慰めをかけながら、紬はゆっくり体を起こした。濡れた衣服は水を含んで、想像以上に重たかった。

「どうぞ。よければこれを使って」

 周りから覆い隠すように掛けられた濃紺の羽織と──ふわりと届いた優しい香り。
 振り返ろうとした先には、先ほど目にしたばかりの黄金色の香炉を持つ手がある。

「もしも当てがないのなら、うちに来て。そのずぶ濡れの状態で、小樽観光はさすがに続けられないでしょう」
「っ、あ……」

 救いの手の主は、先ほど逃げ出した和装麗人その人だった。
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