上 下
54 / 58
第13話 沙羅さんは私の想い人―4

(3)

しおりを挟む
 逢坂親子を除いた関係者には、ロビー側のカフェで待機してもらっていた。ところが今私は、反対側のエレベーター近くで深く頭を下げられている。
 今までしたことのない経験に、私は目を丸くした。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
「あ、あ、あの?」
「堀井さんには、信じられないほどのご迷惑をおかけして……っ」
「朝比奈さん、顔を上げてください……!」
 私の懇願を聞き入れた朝比奈恵さんが、ようやく頭を上げてくれた。さらりと揺れるロングヘアは、相変わらず絹糸みたいに綺麗だ。
「あの、いったい何に謝られているのか……」
「私の母が、貴女に大変なご迷惑をかけたと聞きました」
 監禁のことを?
 加世子さんを追求する場面に出くわした後、私の前の現れた沙羅さんはいつも通りの彼だった。
 掻い摘んだ事情説明の後、警察に通報するか否かを再確認された。私が出した答えは否だった。タイガ君が今後危害を加えられることがないのなら、それでいいと思ったのだ。
 そのこともあり、関係者にも日下部先生と除いて実状を説明することはしなかった。それなのに、彼女はどこまで事情を知らされているのだろう。
「私は、沙羅さんが好きです」
 思わず、息をのんでしまう。
「以前お仕事を一緒にさせていただいたときに、真摯な態度の彼に、一瞬で惹かれました。彼はすごく優しくて、真っ直ぐで」
「っ、あ……」
「でも、こんなことになっては、きっともう」
 俯いた彼女が、スカートの裾を握りしめる。
 白くなった拳を眺めていると、その視界に一滴落ちていくのに気づいた。彼女はすぐさま目元を拭う。
「ごめ、なさい」
 朝比奈さんは本当に沙羅さんが好きなんだ。それも、私よりもずっと前から。
「母には、私からもきつく言いました。もうこんなことは二度としないようにとお願いしました。こんな当たり前のことも目が行き届かなくて、本当に申し訳ないです」
「そんな、それだって、朝比奈さんのせいじゃありませんから」
「堀井さんは……優しい人ですね」
 苦しみの中で咲いた彼女の儚げな笑顔に、胸がどきんと震える。
「私だったら、とてもそんな気丈には振る舞えません。それなのに、あなたは」
「あ、あの。確かに怖い思いはしました。でも、結果的にタイガ君も何も気づかないままで済みましたから」
「……本当ですか?」
 必要以上に首を縦に振る。すると朝比奈さんは、ひどく安心したように息を吐いた。
「よかった。ほんの少しですけど、心が軽くなりました」
「ですから、そこまでで思い悩まないでください。さっきも言いましたが、朝比奈さんは何もしてないんですから……!」
「でもきっと……彼はそうは思わないから」
 静かに告げられ、目を見張る。彼女に満ちたままの悲しみの根元は「そこ」なのだ。
 告げることもできないまま、周囲の嵐に揉まれて消えるしかない恋。
「堀井さん」
「え?」
「こんなこと貴女に頼むのは、おこがましいことだとはわかってます。でも、私……っ」
 再び感極まり始める朝比奈さんに、慌てて肩をさする。目元をぎゅっと押さえた後、大きな瞳がまっすぐ私を映し出した。
「貴女から、沙羅さんに取りなしてもらうわけには、いきませんか……?」
「……え?」
「母がしたことが、決して許されないこととはわかってます。それでも、やっぱり私、沙羅さんのこと……っ」
 そこまで言うと、朝比奈さんは私の首もとにすがり泣き始めてしまった。
「堀井さんの言葉なら、きっと沙羅さんも耳を傾けてくれると思うんです」
「朝比奈、さ……」
「難しいでしょうか、堀井さん……っ」
 肩口に感じる熱い涙の感触に、胸がぎゅっと苦しくなる。それはまるで、昨日までの私と同じだと思った。
 想いを伝える前に叶わないと気づかされた、衝撃。沙羅さんの真摯な心に惹かれる、恋心。
 誰かにすがり助けを求める、弱い気持ちも。
「それは、できません」
 これ以上ないと言うくらい、固く強ばった声が出た。私の返答に一瞬だけ泣き声を止めた朝比奈さんが、静かに寄りかかっていた体を持ち上げる。
「朝比奈さんのお願いは、私にはきけません」
「ごめんなさい」はっきり告げ、深く頭を下げた。心臓が、胸を痛いくらいに叩いている。
 改めて見つめた朝比奈さんは、濡れた瞳を大きく見開いていた。
「それに、沙羅さんはそんな人じゃないと思います。沙羅さんは、色眼鏡で人を判断する人じゃありません。朝比奈さんの想いは朝比奈さん個人のものとして、きちんと受け取ってくれる……そんな人です」
 そう考えたから、私も自分の想いを伝えようと決心できたのだ。朝比奈さんは、表情を変えないまま私の言葉を聞いている。
「それにやっぱり、人を介して伝えるより、朝比奈さん自身の言葉で伝えた方が」
「はっきり言ったらいいじゃない。私も沙羅さんが好きだから、貴女に協力できないって」
 ……え?
 見えないはずの空気が、青ざめた気がした。
「貴女も、沙羅さんが好きなんでしょう? だったら、綺麗事を並べないでそう言えばいいじゃないですか。ねえ、堀井さん」
 言葉とは正反対の柔らかな笑みを向けられ、混乱する。
「でも、確か昨日言ってましたよ。沙羅さんにとって堀井さんは『あくまで友人』なんですって」
「!」
「そう考えれば、あなたも私と同じなんですよね。気持ちを伝えられないまま、想いを胸に閉じるしかない……悲しいですよね」
 哀愁の表情を浮かべながら、肩にそっと朝比奈さんの手が乗せられる。
 その手はとても美しく、重かった。
「最初に一緒にお仕事をさせてもらった時、彼はまだ慣れない私にとても優しくしてくれました。それで私、勘違いしてしまったんですね。沙羅さんはただ、誰にでも優しいというだけなのに」
 そしてそれは、貴女も同じなのよ。そう言われた気がした。
「もしかしたら、貴女も私も、彼を忘れる努力をした方がいいのかもしれませんね」
「私は、諦めません」
 肩に乗せられた朝比奈さんの手が、ぴくりと反応した。
「朝比奈さんの仰りたいことはわかります。でも、この気持ちは、どうしても諦められません」
「……」
「ですから、私は……、っ!」
 その瞬間、彼女の美しく彩られた爪が、肩にぎりっとめり込むのを感じた。
「あ、朝比奈、さん?」
「使えませんね。どいつもこいつも」
 一層強められた力に、眉を寄せる。ついに皮膚が裂けるような痛みが走るも、振りほどくことはしなかった。
 だって、こんなことに、負けたくない……!
「その手を離してください」
 冷たく落ちてきた声に、鋭い痛みが消えた。
「何をしているんですか、朝比奈さん」
 沙羅さん。出かけた私の掠れ声は、朝比奈さんの明るい声にかき消された。
「いえ、何も。小鳥さんと意気投合して、少し話が盛り上がってしまって」
「ね?」華やかな笑顔で同意を求める彼女に、ぞくりと背筋が凍る。この人はプロの女優なんだと、今更ながら実感した。
「小鳥さん?」
「……は、い。すみませんでした。皆さんを連れてくると言ったのに、遅れてしまって」
「……そうですか」
 穏やかな眼差しで告げた沙羅さんが、小さく頷いた。
 かすかに疼く悔恨を、ぐっと胸の底にしまいこむ。まるで朝比奈さんに屈してしまったように見えただろうか。
 でも、沙羅さんに告げ口するみたいなことはしたくない。
「朝比奈さん」
「はい。私もすぐに荷物を持ってきますね」
「俺は貴女に嘘を吐きました。小鳥さんは、あくまで友人だと」
「え……」
「小鳥さんは、他の誰よりも大切な人です」
 引き寄せられた胸板に、そっと顔を押し当てられる。
「そして、大切な人のことは何をしても守り抜きます。犯罪紛いの手段を使われても……人を操るような、賢しい手段を使われても」
 厳しい口調とは裏腹の、熱い言葉。
 遅れて理解できた状況に、上せるような熱がこみ上げてくる。
「貴女は、きっと業界を担う女優になると思います」
 腕の中に閉じこめられていて、二人の表情は見ることはできない。それでも、背後からかすかに息をのむ気配が届いた。
「嘘じゃありません。初めて貴女に会ったときに思いました。プロの女優というのは、こういう人のことを言うのだと」
「……」
「どうかこれからも、純粋に貴女を応援させてください。朝比奈さん」
「……ええ。もちろんです」
 回されていた手がわずかに緩み、そっと後ろに視線を向ける。朝比奈さんはかすかに瞳を潤ませ、静かに頷いた。
 先ほどまでの完璧な笑顔とは違う、感情が溢れた美しい笑顔だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。 どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。 だけど…何故か気になってしまう。 気がつくと、彼女の姿を目で追っている。 *** 社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。 爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。 そして、華やかな噂。 あまり得意なタイプではない。 どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。

王妃さまは断罪劇に異議を唱える

土岐ゆうば(金湯叶)
恋愛
パーティー会場の中心で王太子クロードが婚約者のセリーヌに婚約破棄を突きつける。彼の側には愛らしい娘のアンナがいた。 そんな茶番劇のような場面を見て、王妃クラウディアは待ったをかける。 彼女が反対するのは、セリーヌとの婚約破棄ではなく、アンナとの再婚約だったーー。 王族の結婚とは。 王妃と国王の思いや、国王の愛妾や婚外子など。 王宮をとりまく複雑な関係が繰り広げられる。 ある者にとってはゲームの世界、ある者にとっては現実のお話。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様

オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

処理中です...