ことりの上手ななかせかた

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第12話 沙羅さんは私の想い人―3

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「これが、非常階段の近くに?」
 第二休憩に入ってすぐに伝えられた事実に、沙羅は目を剥いた。
「この階の、エレベーターを降りてすぐの所です。柚ちゃんに聞いたんですけど、小鳥ちゃんって」
「ええ。小鳥さんのコンタクトでしょうね」
「そこには、片方だけしか落ちてなかったんですけど」
 話にしか聞いたことがなかったが、ほぼ間違いないだろう。わざわざ黒のコンタクトを入れる人物は他に思い当たらない。
 小鳥は日頃コンタクトをしている。その保護のためのメガネも。そのコンタクトを落として、自分で回収できない事態に陥ってるのだとしたら。
「おい、沙羅君」
 とっさに部屋の外に駆け出そうとした沙羅の歩みは、いまだバルコニーから動こうとしない日下部の声により止められた。
「日下部先生」
「せっかくの休憩時間だ。こちらにきて、一緒に風に当たらないか」
 沙羅は、一瞬表情が堅くなりそうになるのをこらえる。
「君がそこまで動揺しているのは初めて見たな」
 どこまで内情に感付いているのだろう。
 中谷監督には、一回目の休憩の際に彼女の不在について尋ねられた。朝比奈恵と母親は、メインのスタッフではないことからか、彼女の不在を不思議に思っていないらしい。
 逢坂哲史は、息子のタイガの姿が見えないことを気にかけており、休憩ごとにマネージャーに様子を伺っているようだ。彼女の不在も息子が関わっていると思っているらしく、インタビュー直前には謝罪の言葉もあった。
 そしてこの人は、インタビュー開始以降、一度もバルコニーから腰を上げようとしない。
「そこまで大切か。あのちびっ子が」
 どこまでも見透かされそうな瞳が、静かに沙羅をとらえた。
 その瞬間、満天の星を背景に美しい髪を揺らめかせ、幸せそうに夜風に歌う彼女の姿が、沙羅の脳裏によぎる。
「ええ。誰よりも」
「それなら、きっと君は悔しがるだろうな」
 日下部が、どこか楽しそうに告げる。
「必死だった分、君は気づくのが私よりも遅かったらしい」
「先生?」
「前の休憩の時間から、私には“届いて”いたぞ」
 彼の謂わんとすることが、微かに、でも確実に沙羅に伝わった。バルコニーを囲うヒマワリを無造作に避け、呼吸をそっと止める。
 すると耳に届いたのは、焦がれてやまない歌声だった。

   ◇◇◇

「……」
 ああ、駄目だったみたいだ。
 微かに抱いた最後の希望が溶けてなくなるのを感じ、私は小さくため息を落とした。
「十五時十分、かぁ……」
 インタビューが終わり、ここから解放される時間まであと五十分。こうなったら、犯人を刺激しないように無事に解放されるのを待つしかない。
 開けてしまった窓をカーテンでそっと隠し、静かにベッドに近寄る。タイガ君はいまだにすやすや眠っていた。
「大丈夫だからね」
 タイガ君の頬を、優しく撫でる。私のために、タイガ君の傷つけたりさせない。
 その時だった。玄関に続く扉の向こうで、部屋の扉が開く音がする。大げさに肩がびくついたものの、私はすぐさまタイガ君を庇うようにベッドの前に立った。
「よお。どうやら、起きてるみたいだな」
「……はい」
 扉の向こうから聞こえたのは、さっきと同じ男の声だ。
「ガキの方は? まだぐっすりオネムか?」
「この子に怖い思いをさせたら、私が許しませんから」
「ははっ、威勢がいいねぇ」
 相変わらず、男の口調はどこか緊張感に欠けている。今はとにかく、この場を穏便に済ませるしかない。
「これから、あんたにももう一度眠ってもらう」
 言葉の意味を理解するのと同時に、今まで堅く閉ざされていた目の前の扉が開いた。
 そこに立つ男の姿に、私は思わず声を上げそうになる。男の顔には、ピエロのような仰々しい被りものがされていた。
「な、な……っ」
「騒ぐなよ。あんたに顔を見られるなと言われてるんでな」
 目の前の不気味なピエロがにたりと笑った気がして、背筋が冷たくなる。
 一歩、また一歩と近づいてくる男に、腰を抜かしそうになりながらも何とか耐えた。
「また、私を眠らせるんですか」
「ああ。起きたときには元の場所に戻ってる。荷物もちゃんと返してやるさ」
 男の手に、ハンカチが握られてる。睡眠薬だろうか。じりじりと近づいてくる男に、体が微かに震えを増していった。
「へえ、寝かせた時は気づかなかったけど」
「え……え?」
「あんた、瞳が面白い色してんだな。もしかしてハーフか?」
 ピエロの被りものをしていても、楽しげに笑っているのがわかる。
 幼い頃から言われ続けてきたからかいに気がそれた瞬間、男の手がぐいっと私の顎を持ち上げた。
「っ、何を……!」
「だから、騒ぐなって。そこのガキを起こしたくないだろ?」
「……!」
 すぐそこには、タイガ君が眠るベッドがある。
「危害を加えるつもりはないと、言ってませんでしたか……?」
 なるべく平静を装って、問いかける。
「まあ、確かにこの被りものをしていちゃ格好はつかねぇか」
 悟られないように、そっと胸をなで下ろす。
「でもよ。被りものをしてても出来ることだってあるだろ」
 反応する間もなかった。
 両手首を掴まれたかと思うと、そのまま絨毯の上に倒される。不気味なピエロと鼻先がくっつき、ドクッと心臓が大きく打ちつけた。
「や、やめ……っ!」
「少し触るくらい許せよ。減るもんじゃねえだろ」
「……!?」
 何? 一体何を言ってるの、この人は。
 まるで理解できない言動に、ますます意識が遠のいていきそうだった。
「あんなのに顎で使われてたらさ、少しくらいうまみを受けたくなるもんだろ」
「いや……、いやっ!」
「いいから黙れ」
 男の声が急に低くなり、ひゅっと喉が鳴る。
 予想してなかったわけじゃなかった。でもまさか、本当にこんなことになるなんて。
 さっき日下部先生に押し倒されたときとは明らかに違った。男の声が、吐息が、空気が。全てが危険だと頭に響いてる。
 嫌だ。嫌だ。こんなの。自分にまたがる男の手が、服の裾にゆっくり入っていくのを感じ、その潤みもついに決壊した。
「小鳥さん!」
 幻聴かと思った。
 何か大きな音が響き渡った瞬間、目の前を覆っていた男の影が消え失せる。そして私の体は、誰かの腕の中に抱きしめられた。
 痛いほど強く打ちつける胸の鼓動が、誰かのそれと重なる。
「小鳥さん……もう、大丈夫です」
「……あ」
「遅くなって、本当にすみません」
 ああ、やっぱり、来てくれた。
 優しくて、甘い香りに包まれる。
「沙羅、さん……沙羅さん……っ」
「大丈夫です。俺はここにいます」
 夢中ですがりついた胸板に、溢れる涙がしみこんでいく。自分が予想以上にぎりぎりの縁を立っていたのだと、ようやく気づいた。
「あーあーあー。男がへしゃげてるぞ。まーた派手にやっちまって」
「ひ、柊さん?」
 続いて入ってきた柊さんに気づき、かっと体に熱が帯びる。
 とっさに沙羅さんから体を離そうとしたが、その腕の力はなかなか抜けようとしなかった。
「小鳥ちゃん、今は勘弁してやって。慧人の奴、君のことめちゃくちゃ心配してたから」
 向こうで伸びている男の腕を締め上げながら、柊さんがけたけたと笑う。
 すると沙羅さんがようやく顔を上げてくれた。
「怪我は、ありませんか」
「はい。沙羅さんが、来てくれましたから」
「……どうしてですか」
 え? 返事をする前に、沙羅さんはいつになく厳しい面もちで私を見つめた。
「どうして、あんな方法で俺たちに知らせようとしたんですか」
「あ……」
「歌声が届く状況なら、助けてくれと叫んだ方が、よっぽど発見も早かったはずです」
 沙羅さんの言うとおりだ。
 あの時──窓の外から“ある香り”が届いた。つい先ほど嗅いだ覚えのある、ヒマワリの花の香りだ。
 この部屋は、意外とインタビューの部屋と近いのかもしれない。幸い、部屋の窓も細くだが開いている。
 一瞬、すぐに助けを求める言葉を発そうと思った。でも、出来なかった。
「そんな声を上げたら……順調に進んでいるかもしれないインタビューがめちゃめちゃになってしまうと思ったんです」
 その点、歌声ならまだその危険も少ない。どこかの部屋から漏れている歌声だと思えば、そこまで気も散らないだろう。
「それに……誰か助けて、なんて大の大人が叫んでいたら、タイガ君が目を覚まして怖い思いをしてしまいます」
 過去に、沙羅さんが誘拐されたときに、心の傷を残すことになったように。
「すみません。ここにいたのが私じゃなければ、もっとうまく立ち回れたのかもしれないのに」
「小鳥さん……」
「小鳥っ!」
「小鳥ちゃん、無事なの!?」
 部屋に駆け込んできた人物の姿に、今度こそ私と沙羅さんは体を離した。
 次の瞬間、彼とは別の二人の腕に同時に抱きしめられる。
「柚! 戸塚さん!」
「馬鹿! どれだけ心配したと思ってるの!」
「また危ない目に遭ってるんじゃないかって、本当に心配だったんだよ!」
 二人の言葉に、視界がぐにゃりと歪む。
 ぽろぽろと頬を伝う熱い涙は、安堵の涙だった。
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