ことりの上手ななかせかた

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第9話 沙羅さんは危険な御人?

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「どうぞ、小鳥さん」
 さりげなく助手席にエスコートしてくれる沙羅さんに、ぐっと意味なく喉が鳴る。
「ドア、閉めますよ」
「あ、はい!」
 バシッと音を立てて閉まった車の扉。間を空けずに沙羅さんが運転席に乗り込んでくる。
 ちらりとかいま見た横顔があんまり綺麗で、またぐぐっと喉が鳴りかけた。
「実は俺もちょうど日下部先生に頼まれたんです。ちょうど良かったですね」
「そ、そうですね……その、助かりました」
「そう言ってもらえて、良かったです」
 細められた瞳がきらきらと輝いて見えて、頬に熱が集まる。
 ああ、やっぱり私、沙羅さんが好きなんだ。
 こんなことでいちいち確認してしまう恋心が恥ずかしく、少しくすぐったい。
「さ、沙羅さんは、日下部先生から何を?」
「栄養ドリンクです。一本買っていたんですが、先生はジュース感覚で飲んでしまう人で」
「ジュ、ジュース感覚……?」
 聞いたこともない悪癖に驚くも、あの人ならやりかねないと納得する。確かに、日下部先生ほどの完璧主義者的な集中力を持たせるには、相応の気力が必要なのだろう。
(俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ)
 彼の死角できゅっと拳に力を込める。みんなで必死にまとめてきたプロジェクトの集大成だ。
 この二日間は、沙羅さんにはあくまで「とても素敵なプロジェクト仲間」として接しよう。それが、私が出したひとつの答えだった。
 今は絶対に失敗できないことがある。目を逸らしてもどうしても消えてくれない恋心なら、せめて横に置いておこう。
 そしてプロジェクトが終わった後に、改めて向き合って考えればいい。
「小鳥さん」
「っ、あ、はい!」
「左側。見てみてください」
 言われるままに左の窓に視線を向け、はっと目を見開いた。
 風に揺れて光を蓄える橙色。一面に広がるのは鮮やかなヒマワリ畑だった。
「もしかしてここは……作中で、小さい頃の勝っちゃんと瑠璃が遊んだところ……!?」
「やっぱり、そのシーンが頭によぎりましたか」
 穏やかに告げられた言葉に、慌てて後ろを振り返る。
「実はこの道を通るようにと、日下部先生から言い遣ったんです。貴女がどんな反応をするか報告するようにと」
 先ほどの海での会話を思い出す。どうやら日下部先生は、私が思い描く作品の世界観が自分のそれに近いことに目を付けたらしい。
 思えばこのヒマワリ畑のシーンも、主人公の回想でしか語られていなかった部分だ。なのにすぐさま思い出されたのはあのシーンで……。
 もしかして私、先生に試されたのだろうか。
「今回の作品は、先生がデビューする前からずっと構想は練られていたそうです。ようやく自分の書きたいものを書けるようになって、初めて紐解いたのがこの作品だと」
 囁くように教えてくれる沙羅さんの声に、小さく頷く。日下部先生の想いに、沙羅さんもまた応えようとしているのだとわかった。
「先生のこの作品に懸ける思いは、俺も理解しているつもりですから」
「はい、そうですね」
「だからこそ、小鳥さんに確認したいことがあります」
「えっ」とこぼれた私の声は、突然踏まれたブレーキ音に難なくかき消された。
 目を丸くする私をよそに、沙羅さんは着々とギアを入れ直しエンジンを切る。
 風に揺られるヒマワリの音だけが、窓ガラスの向こうから気紛れに奏でられた。
「小鳥さん」
 シートベルトを外す音に、思わず肩が跳ねた。ゆっくり向けられた瞳が、容易く私を捉える。車の中。密室。二人きり。誰でもない、沙羅さんと。
 細切れなキーワードがぱらぱらと頭に降り注いでくる。そして気付けば、私の心臓は凄まじい勢いで駆けだしていた。
「あ、あ、あの、沙羅さん……っ?」
「俺の目を見てください小鳥さん。決して、逸らさないで」
 少しずつ、でも確かに近付いてくる沙羅さんに、頭が混乱していく。
 せっかく、沙羅さんへの恋心を一時保存出来ていたはずなのに。これでは、さらにレベルアップして上書き保存だ。
「俺は何か……貴女に嫌われるようなことをしたんでしょうか?」
「……」
 え?
 開けてきた視界に私の返答を待つ沙羅さんがいた。その瞳には、微かに憂う色が揺れている。
 沙羅さんが私を嫌うのならわかる。いつまでたっても会話がスムーズにいかないのが嫌になったとか、いまいち気が回らないとか、その他いろいろと。
 でも、私が沙羅さんを嫌うなんて、そんなこと。
「そんなことっ! ある訳ないじゃないですか!」
 車の中ということも忘れ、私は大声を上げた。
「私が沙羅さんを嫌うなんてそんなことっ、絶対にありません……!」
 感情が高ぶって、胸がグシャグシャに潰れたみたいに痛む。あんまり必死になりすぎて、涙まで滲みそうになっていた。
 それはまるで、胸に押し留めている恋心さえも、否定されている気がして。
「すみません。情けないことを聞いてしまいました」
 宥めるような優しい声が、耳のすぐそばから流れ込んでくる。しばらくしてようやく、自分が彼の腕の中にいるのだと気付いた。
「最近、貴女にどこか、避けられているような気がしていたんです」
 その言葉に、私は目を剥いた。
 恋心を自覚した私は戸惑って、慌てふためいて、思い悩んで、沙羅さんとなるべく二人きりにならないようにしていた。
 沙羅さんは、そんな私に気付いていた?
「でも、それは勘違いだったんですね」
「は、はい!」
 まるっきり勘違いとは言えないまでも、彼に誤解されたままにはしておけない。私の肩に顎をかけた沙羅さんが、ほっとため息をついたのがわかる。
 ああ。私ってば、好きな人になんて誤解をさせていたんだろう。
「さっきも言いましたけど、私が沙羅さんを嫌いになるなんて、有り得ませんから!」
「……本当ですか?」
 え、と返す前に、沙羅さんは私の身体に回す腕の力を一層強めた。
「さ、沙羅さん?」
「本当に……俺が何をしても、嫌わないでいてくれますか」
 甘ったるい恋心が、すかさず私の頭の中を占領していく。
「あ、当たり前です。私は、いつだって沙羅さんの味方で……っ、」
「それじゃあ」
 次の瞬間、彼の腕から呆気なく解放され、酸素が急激に流れ込んでくる。
 目を白黒させていた私だったが、すぐさま瞳を大きく見開くことになった。
「例えば……俺がこのまま貴女にキスをしても」
 沙羅さんの顔が、すぐ、目の前に。
「嫌わないでいてくれますか……?」
 何も、返答できない。
 言葉が見つからなかったのもそうだが、何より、少しでも唇を動かしたら触れてしまいそうだった。いつの間にか捕らえられていた両の手は、顔の横に押さえつけられている。
 それがなくても、吐息も交わせる至近距離からの彼の眼差しに、私はすっかり逃げ場を失っていた。
 冗談、だよね……? でなきゃコレは夢だ。
 我に返りかけた私は、すかさず自分の頬の裏あたりを甘噛みしてみる。うん、痛い。夢じゃない。でも、それじゃあ何で沙羅さんはこんなことを?
 いつもの沙羅さんはこんなことを口にしたりしない。私を本気で困らせるようなこともしない。いつも周りを一番に見ていて、心の底から優しい人だってこと、私は知ってる。
「なり、ません」
 絞り出した声は、情けなく震えてしまった。
「例えその、キス、を、されたとしても……きっと沙羅さんには何か、事情があるんだと、思いますから」
 薄茶色の瞳が、微かに見開かれる。
「だから……沙羅さんのことを、嫌いになんてなりません……!」
 胸の鼓動が、耳鳴りみたいに鼓膜をひっきりなしに揺らす。意識したくないのに、視線を向けてしまうのは目の前の唇だった。
 だめだ。私、喜んでいる。
 自分の情けない心にますます顔が熱くなる。恋人でもない。ただの片想いなのに。
 このままキスをされたいだなんて、そんなこと、考えちゃ駄目なのに……!
「沙羅、さん……っ」
 思わず懇願するように絞り出した声に、彼の拘束する両手がふっと解かれた。
「……ずるいな」
 沈黙を破ったのは、沙羅さんの方だった。
「そんな可愛い顔でそんな言葉、逆に手なんて出せませんよ」
 言いながら、沙羅さんが柔和な苦笑を浮かべる。それは今までも何度か目にしてきた表情で、そっと胸をなで下ろした。良かった。いつもの、優しい沙羅さんだ。
 それが顔に出てしまったのだろうか。安心しきった私をまるで諫めるように、沙羅さんの瞳がすっと細められる。「とはいえ」
「俺も男ですから。あまり無防備になり過ぎては駄目ですよ」
「へ?」
 沙羅さんは男の人。当たり前な事実を言い聞かせるように告げられ、私は目を瞬かせる。
 そんな私を後目に沙羅さんはシートベルトを再び締め、エンジンを踏み込んだ。
「今俺は、本気で小鳥さんにキスをしようとしていましたから」
 言葉の真意を求め見つめた先の横顔。
 その甘い妖しさをはらんだ微笑に、私はまた、呼吸を忘れた。
「それじゃあ、行きましょうか。皆さんを心配させてはいけません」
「──っ、ふぁいっ!」
 間抜けもここに極まれりという返答をした私に、彼はいつもの綺麗な笑顔で、くすくすと肩を揺らした。
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