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第8話 沙羅さんは私の初恋の人

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「はーい! それじゃあ何枚か連写します!」
 北の海は、初夏でも裸足で入るにはまだまだ冷たい。それでも波で遊びながら自然体で笑顔を浮かべる逢坂さんと朝比奈さんの姿は、まさに被写体として完璧だった。
 カシャカシャと柚のシャッターを切る音が雲一つない青空に溶けていく。
「タイガ君、海は初めて?」
 こそっと英語で尋ねた私に、隣の小さな身体がぴくりと反応した。
「ここの海はまだ少し冷たいと思うけど……良ければ少しだけ足を付けにいこうか?」
 しばらく考えたようだったが、結局プイッと逸らされてしまった。眉間に寄る小さなしわに、思わず苦笑が漏れる。
 車の中で自然と交わしていたタイガ君との会話。それにいつの間にか目を丸くしていた逢坂さんと柊さんは、気づけば揃って手を叩いていた。
(うはぁ~、戸塚ちゃんから聞いてたけど、小鳥ちゃんってば英語力が凄いんだな!?)
(あの……堀井さん、でしたね? こんなことをスタッフの方に頼むのは恐縮なんですが)
「仕事に差し障りない程度に息子の面倒をお願いできませんか」──とは言うものの。
 先ほどの逢坂さんの言葉を思い返しながら、私はちらりとともにベンチに腰を下ろすタイガ君を見遣った。
 さっきこそ車から抜け出してはいたものの、こうしている限り何も問題ない。大人しい良い子だ。今も砂浜で撮影を続けるお父さんの姿を、ひたすら目で追いかけている。
 そのこめかみに滲む汗の粒に気付いた私は、慌てて鞄から取り出したキャップをタイガ君にかぶせた。
「っ、何……」
「今日はこれからもっと日差しが強くなるんだって。熱中症にならないように、タイガ君かぶってて?」
 笑顔で告げて頭を撫でる私に、少し不服そうにしながら再び視線を逸らす。翼が弟だったら、こんな感じだったのかもしれない。
 すると不意に、目の前がふっと陰った。
「貴女も、帽子をかぶらないと熱中症になりますよ」
「さ、沙羅さん……っ」
 どうやら私もまた、後ろから帽子をかぶらされたらしい。
 目を白黒させる私に笑みを浮かべながら、沙羅さんはそっとタイガ君の前に屈んだ。
「どうぞ。タイガ君」
 差し出されたオレンジジュースに、タイガ君が子どもらしく瞳を輝かす。
「Thanks.」と短く告げてプルタブを開ける様子が何だか微笑ましい。沙羅さんは、タイガ君を隔てて静かにベンチに腰を下ろした。
「あ、あの。これ、沙羅さんの帽子じゃ……?」
「俺はいいんですよ。これでも男ですからね。小鳥さんがかぶっていて下さい」
 宥めるように返されてしまうと、突き返すわけにもいかない。短く礼を言った後、辺りに吹き付けた海風に帽子を押さえた。
 その後、事務的な確認事項を二、三紡いだだけで、なんとなく会話は潰えてしまう。沙羅さんと言葉を交わすのが怖かったのだ。
 昨日の屋上の時と同じように──知らない間に自分の想いを言葉に乗せてしまいそうで。
「Kotori?」
「っ、あ」
 キーの高い呼びかけに、いつの間にか固く瞑っていた瞳をはっと開く。横を向くと、タイガ君がこちらを見つめ、沙羅さんも心配そうに顔を覗き込んでいた。
「す、すみません、ちょっと考え事を……っ」
「考え事、ですか」
「え?」
 予想外に平坦に落ちてきた言葉。強く吸い込まれるような沙羅さんの眼差しに、胸が打ち震える。遠くに響く波の音が、一際大きな音を弾かせた。
「すみません。仕事中にこんなことを話すべきではないと分かっていますが、小鳥さんに聞きたいことがあるんです」
 外された視線に、胸が苦しくなる。そんな表情をさせているのは、私なのだとしたら。
「っ、沙羅さ」
「慧人ーっ! ちょっと確認したいことがあるんだけどよー!」
 響きわたった柊さんの呼びかけに、私たちは揃って肩を震わせる。
「……まったく。さすが柊チーフですね」
 すぐにとりなおしたらしい沙羅さんが、苦笑を浮かべ腰を上げた。
 遠ざかっていく背中をみつめながら、いいようのない感情が胸を暴れているのを感じる。
 続くはずだった言葉は一体何だったのだろう。彼の言葉が、初めて怖いと思った。
「大人は面倒だな」
 ふと耳に届いた英語だった。
「どいつもこいつも口をむずむずさせてさ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「タ、タイガ君?」
「大人なんてみんな臆病で嘘つきだ。アンタだってそうだろ」
 歯に衣着せない言葉を向けられ、反論も出来なかった。図星だったからだ。
 ゆっくりと見上げた視線は、自然と沙羅さんを捉える。打ち合わせをしているのだろう。撮影を一度終えたらしい朝比奈さんと並ぶ沙羅さんの立ち姿はまさに完璧で、互いにきらきらと輝いている。そんなことにさえ、今ではぎゅっと胸を締め付けた。
 自分自身も誤魔化しきれない。柚にも翼にもタイガ君にも看破されて、きっといずれは沙羅さんにだって。
「タイガ君の、言うとおりだね」
 ぽつりとこぼした私の言葉は、酷く情けないものだった。
「隠しても誤魔化しても、気持ちは変わるわけじゃないのに」
「……」
「どうしてこんなに、恐がりになっちゃったのかな……?」
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