4 / 58
第1話 沙羅さんは雲の上の女神
(4)
しおりを挟む
とはいうものの。
「誰か、この書籍の関連資料集めをしてくれないー?」
「あ、はい。私がやります!」
ほぼ反射的にあげた手。はっと我に返った時には既に遅かった。
星空を期待できる日。資料探しついでに屋上に向かおうと考える思考回路は、そう簡単に治りそうにないらしい。
資料探しという名目で訪れた最上階の資料庫も、一週間ぶりだ。
「ええ~と。確か社会面の資料はこっちの棚にもあったような」
狙いのファイルや書籍をかき集めていくのも、もう手慣れたものだ。数分程度で、必要な資料収集は終わってしまった。
そして私は、ずっと意識を向けていた屋上に続く扉にちらりと視線を向ける。
屋上……誰の気配もしなかったよね?
資料の山を椅子に置いた後、意を決して屋上への扉を開けた。久々に出迎えてくれた星空に声を上げそうになり、慌てて口をふさぐ。
扉から続く数段の階段を忍び足で上り、顔を覗かせる。人影はどこにもなかった。
「ちょっと、神経質になり過ぎだったかな」
思えばあの日を除いて、沙羅さんと鉢合わせたことなんて一度もなかった。きっと私と沙羅さんがここを訪れるタイミングは、根本的にずれているのだろう。
少し肩すかしを食らったように笑った私は、いつものように大きく伸びをした。
交差させた両手の向こうには、きらきらと瞬く星空が広がる。いつも通り眼鏡を外しゴムを解いた私は、塔屋の屋根へ上っていた。
「う~ん。やっぱりここの空気が気持ちいい」
「こんばんは」
「き、やあああっ!?」
動揺に大きく後ずさったのが悪かった。塔屋の端まで下がっていたことに気付かなかった私は、さらに後退しようとして足を踏み外した。
お、落ちる……っ!
「危ない!」
身体がぐらりと浮遊する。しかしながら直後、もの凄い力が私を横に引き留めた。
とっさに閉じた瞳を開けると、温かなストライプのシャツが視界に広がっている。
「……っ、あ」
どうやら落ちることはなかったらしい。
それでも胸をよぎった恐怖心はなかなか消えず、心臓がどくどくとせわしなく走る。
「また、驚かせてしまいましたね」
沙羅さんの声が、私の頬を甘く掠める。細められた瞳がまるでもうひとつの星空のようで、吸い込まれてしまいそうになった。
また、沙羅さんに助けられてしまった。先に硬直が解けた頭が、ぐるぐると稼働を再開する。
……あれ?
抱き留められている状況を察すると同時に、小さな違和感が胸に滲んだ。
「気付いてもらえましたか。まあ、勘違いされるのももう慣れましたが」
「? え? へ?」
「俺は男ですよ。小鳥さん」
「…………おとこ?」
「はい」
なるほど。私は返答を忘れ、心中で呟いた。違和感の正体。
現在進行形で押しつけられている沙羅さんの胸に──「胸」が、ない。
「な、ななな……っ!?」
ぶわわわっと身体全体が沸騰する。
堅い胸の感触も、私の体を難なく抱き留める大きな手も男の人のそれだ。
ああ、駄目だ。胸の奥底からどくりと沸き上がってくる。最近は落ち着いてきていると思っていたのに、恐怖という名の重い痺れが、ゆっくりと手足にまで染み渡っていく。
男の人は──怖い。
「離して下さい!」
夜空に響いた叫び声。
そのあまりに理不尽な内容に気付き、さあっと血の気が引く音がした。無意識に突き出していた自分の手の先を追う。瞬間、目を瞬かせながらこちらを見つめる沙羅さんと視線が絡んだ。
大きな後悔に、胸が潰れそうになる。沙羅さんは、私を助けてくれただけなのに。
すぐさま、私は頭を深く深く下げた。
「す、すみません! 驚いてしまって……!」
「いいえ。男が女性にいつもまでも触れているのは不躾でしたね。失礼しました」
まるで何もかも飲み込んだように穏やかな沙羅さんに、少し安堵する。
そして同時に、今明かされた事実に、困惑の波がじわじわと襲いかかってきた。沙羅さんはどうやら男の人らしい、と。
あれ? でもそれじゃあ、この前の告白は? 男の人が男の人に……ってこと? そういうこと?
確かに沙羅さんが美人ということに変わりはないし、正直全く違和感ない。
でもだって、沙羅さんって名前も髪の長さも、女の人にしか見えなかったし。噂では確かに「女神」って言われていたよね!?
うーん、うーんと頭を抱える私に、沙羅さんはぷっと小さく吹き出した。
「相変わらず反応が愛らしいですね」
さらりとかまされた先制爆撃がクリティカルヒットする。妖艶にも思える異性の色香に、経験値0以下の私がかなうはずもなかった。
「来てくれて安心しました。貴女はもう、ここには来ないのかと思ってましたから」
わずかに愁いを帯びた声色に、目を見張る。
あれ以来、私がここを来るのを躊躇っていたことに、沙羅さんは勧付いていたんだろう。
「貴女の時間に水を差してしまって、申し訳なかったと思っています」
「い、いいえっ! それは誤解です!」
高速で首を横に振り、私は沙羅さんの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ただ……その。沙羅さんみたいな綺麗な方に免疫がなかっただけといいますか……っ」
「“女神”扱いされていたくらいですしね」
「ほ、本当にすみませ……!」
「いいんですよ。少しややこしい外見をしている俺も俺ですから」
先端が柔らかく肩に触れる自らの髪を掬い、沙羅さんがそう笑う。髪型もそうだけど、そのモデル顔負けプラス中性的な美貌のせいでは、とは言わないでおいた。
「でも、もしよければこれからもここで、貴女の歌声を聴かせてくれませんか」
それは、何とも唐突な話だった。
「決して邪魔はしません。歌声と、少しの会話さえ頂ければ」
「え、えええ……?」
どうして私の歌声なんぞを気に入ってくださったのだろう。綺麗で胸を揺さぶる歌姫なら、世の中にいくらでもいるのに。でも。
あ、抗えない……!
いまだに真っ直ぐ見据える瞳は強く美しいもので、とてもNOと言えるものではない。
そもそも女神VS庶民という時点で、立っている土台が違うのだ。
「わ……わかりまし、た……?」
「良かった。ありがとうございます」
もの凄い間を空けた後、ついに私は白旗を揚げた。何なんだ、これは。まるでついていけないぞ。
「総務部兼第二編集部の堀井小鳥さん、ですよね? 俺は第一グラフィック部CG課の沙羅慧人(けいと)です」
沙羅、というのは苗字だったらしい。
「ここへ来るのは今まで通り、無理なさらないで結構です。綺麗な星空の夜にでも俺を癒してもらえると助かります。ああ、それと」
駄目だ。今夜はもう、何が何だかわからない。ただ理解できることはひとつだけ──。
「眼鏡姿も素敵だと思いますよ。小鳥さん」
瞬きすらかなわない麗人に翻弄される未来が、否応なく目の前に広がっていくのがわかる。
私の平凡かつ無害な日常が、どうやら崩壊の危機にあるようです。
「誰か、この書籍の関連資料集めをしてくれないー?」
「あ、はい。私がやります!」
ほぼ反射的にあげた手。はっと我に返った時には既に遅かった。
星空を期待できる日。資料探しついでに屋上に向かおうと考える思考回路は、そう簡単に治りそうにないらしい。
資料探しという名目で訪れた最上階の資料庫も、一週間ぶりだ。
「ええ~と。確か社会面の資料はこっちの棚にもあったような」
狙いのファイルや書籍をかき集めていくのも、もう手慣れたものだ。数分程度で、必要な資料収集は終わってしまった。
そして私は、ずっと意識を向けていた屋上に続く扉にちらりと視線を向ける。
屋上……誰の気配もしなかったよね?
資料の山を椅子に置いた後、意を決して屋上への扉を開けた。久々に出迎えてくれた星空に声を上げそうになり、慌てて口をふさぐ。
扉から続く数段の階段を忍び足で上り、顔を覗かせる。人影はどこにもなかった。
「ちょっと、神経質になり過ぎだったかな」
思えばあの日を除いて、沙羅さんと鉢合わせたことなんて一度もなかった。きっと私と沙羅さんがここを訪れるタイミングは、根本的にずれているのだろう。
少し肩すかしを食らったように笑った私は、いつものように大きく伸びをした。
交差させた両手の向こうには、きらきらと瞬く星空が広がる。いつも通り眼鏡を外しゴムを解いた私は、塔屋の屋根へ上っていた。
「う~ん。やっぱりここの空気が気持ちいい」
「こんばんは」
「き、やあああっ!?」
動揺に大きく後ずさったのが悪かった。塔屋の端まで下がっていたことに気付かなかった私は、さらに後退しようとして足を踏み外した。
お、落ちる……っ!
「危ない!」
身体がぐらりと浮遊する。しかしながら直後、もの凄い力が私を横に引き留めた。
とっさに閉じた瞳を開けると、温かなストライプのシャツが視界に広がっている。
「……っ、あ」
どうやら落ちることはなかったらしい。
それでも胸をよぎった恐怖心はなかなか消えず、心臓がどくどくとせわしなく走る。
「また、驚かせてしまいましたね」
沙羅さんの声が、私の頬を甘く掠める。細められた瞳がまるでもうひとつの星空のようで、吸い込まれてしまいそうになった。
また、沙羅さんに助けられてしまった。先に硬直が解けた頭が、ぐるぐると稼働を再開する。
……あれ?
抱き留められている状況を察すると同時に、小さな違和感が胸に滲んだ。
「気付いてもらえましたか。まあ、勘違いされるのももう慣れましたが」
「? え? へ?」
「俺は男ですよ。小鳥さん」
「…………おとこ?」
「はい」
なるほど。私は返答を忘れ、心中で呟いた。違和感の正体。
現在進行形で押しつけられている沙羅さんの胸に──「胸」が、ない。
「な、ななな……っ!?」
ぶわわわっと身体全体が沸騰する。
堅い胸の感触も、私の体を難なく抱き留める大きな手も男の人のそれだ。
ああ、駄目だ。胸の奥底からどくりと沸き上がってくる。最近は落ち着いてきていると思っていたのに、恐怖という名の重い痺れが、ゆっくりと手足にまで染み渡っていく。
男の人は──怖い。
「離して下さい!」
夜空に響いた叫び声。
そのあまりに理不尽な内容に気付き、さあっと血の気が引く音がした。無意識に突き出していた自分の手の先を追う。瞬間、目を瞬かせながらこちらを見つめる沙羅さんと視線が絡んだ。
大きな後悔に、胸が潰れそうになる。沙羅さんは、私を助けてくれただけなのに。
すぐさま、私は頭を深く深く下げた。
「す、すみません! 驚いてしまって……!」
「いいえ。男が女性にいつもまでも触れているのは不躾でしたね。失礼しました」
まるで何もかも飲み込んだように穏やかな沙羅さんに、少し安堵する。
そして同時に、今明かされた事実に、困惑の波がじわじわと襲いかかってきた。沙羅さんはどうやら男の人らしい、と。
あれ? でもそれじゃあ、この前の告白は? 男の人が男の人に……ってこと? そういうこと?
確かに沙羅さんが美人ということに変わりはないし、正直全く違和感ない。
でもだって、沙羅さんって名前も髪の長さも、女の人にしか見えなかったし。噂では確かに「女神」って言われていたよね!?
うーん、うーんと頭を抱える私に、沙羅さんはぷっと小さく吹き出した。
「相変わらず反応が愛らしいですね」
さらりとかまされた先制爆撃がクリティカルヒットする。妖艶にも思える異性の色香に、経験値0以下の私がかなうはずもなかった。
「来てくれて安心しました。貴女はもう、ここには来ないのかと思ってましたから」
わずかに愁いを帯びた声色に、目を見張る。
あれ以来、私がここを来るのを躊躇っていたことに、沙羅さんは勧付いていたんだろう。
「貴女の時間に水を差してしまって、申し訳なかったと思っています」
「い、いいえっ! それは誤解です!」
高速で首を横に振り、私は沙羅さんの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ただ……その。沙羅さんみたいな綺麗な方に免疫がなかっただけといいますか……っ」
「“女神”扱いされていたくらいですしね」
「ほ、本当にすみませ……!」
「いいんですよ。少しややこしい外見をしている俺も俺ですから」
先端が柔らかく肩に触れる自らの髪を掬い、沙羅さんがそう笑う。髪型もそうだけど、そのモデル顔負けプラス中性的な美貌のせいでは、とは言わないでおいた。
「でも、もしよければこれからもここで、貴女の歌声を聴かせてくれませんか」
それは、何とも唐突な話だった。
「決して邪魔はしません。歌声と、少しの会話さえ頂ければ」
「え、えええ……?」
どうして私の歌声なんぞを気に入ってくださったのだろう。綺麗で胸を揺さぶる歌姫なら、世の中にいくらでもいるのに。でも。
あ、抗えない……!
いまだに真っ直ぐ見据える瞳は強く美しいもので、とてもNOと言えるものではない。
そもそも女神VS庶民という時点で、立っている土台が違うのだ。
「わ……わかりまし、た……?」
「良かった。ありがとうございます」
もの凄い間を空けた後、ついに私は白旗を揚げた。何なんだ、これは。まるでついていけないぞ。
「総務部兼第二編集部の堀井小鳥さん、ですよね? 俺は第一グラフィック部CG課の沙羅慧人(けいと)です」
沙羅、というのは苗字だったらしい。
「ここへ来るのは今まで通り、無理なさらないで結構です。綺麗な星空の夜にでも俺を癒してもらえると助かります。ああ、それと」
駄目だ。今夜はもう、何が何だかわからない。ただ理解できることはひとつだけ──。
「眼鏡姿も素敵だと思いますよ。小鳥さん」
瞬きすらかなわない麗人に翻弄される未来が、否応なく目の前に広がっていくのがわかる。
私の平凡かつ無害な日常が、どうやら崩壊の危機にあるようです。
0
お気に入りに追加
177
あなたにおすすめの小説
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
私の好きなひとは、私の親友と付き合うそうです。失恋ついでにネイルサロンに行ってみたら、生まれ変わったみたいに幸せになりました。
石河 翠
恋愛
長年好きだった片思い相手を、あっさり親友にとられた主人公。
失恋して落ち込んでいた彼女は、偶然の出会いにより、ネイルサロンに足を踏み入れる。
ネイルの力により、前向きになる主人公。さらにイケメン店長とやりとりを重ねるうち、少しずつ自分の気持ちを周囲に伝えていけるようになる。やがて、親友との決別を経て、店長への気持ちを自覚する。
店長との約束を守るためにも、自分の気持ちに正直でありたい。フラれる覚悟で店長に告白をすると、思いがけず甘いキスが返ってきて……。
自分に自信が持てない不器用で真面目なヒロインと、ヒロインに一目惚れしていた、実は執着心の高いヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、エブリスタ及び小説家になろうにも投稿しております。
扉絵はphoto ACさまよりお借りしております。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
こじらせ女子の恋愛事情
あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26)
そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26)
いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。
なんて自らまたこじらせる残念な私。
「俺はずっと好きだけど?」
「仁科の返事を待ってるんだよね」
宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。
これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。
*******************
この作品は、他のサイトにも掲載しています。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる