ことりの上手ななかせかた

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第1話 沙羅さんは雲の上の女神

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 とはいうものの。
「誰か、この書籍の関連資料集めをしてくれないー?」
「あ、はい。私がやります!」
 ほぼ反射的にあげた手。はっと我に返った時には既に遅かった。
 星空を期待できる日。資料探しついでに屋上に向かおうと考える思考回路は、そう簡単に治りそうにないらしい。
 資料探しという名目で訪れた最上階の資料庫も、一週間ぶりだ。
「ええ~と。確か社会面の資料はこっちの棚にもあったような」
 狙いのファイルや書籍をかき集めていくのも、もう手慣れたものだ。数分程度で、必要な資料収集は終わってしまった。
 そして私は、ずっと意識を向けていた屋上に続く扉にちらりと視線を向ける。
 屋上……誰の気配もしなかったよね?
 資料の山を椅子に置いた後、意を決して屋上への扉を開けた。久々に出迎えてくれた星空に声を上げそうになり、慌てて口をふさぐ。
 扉から続く数段の階段を忍び足で上り、顔を覗かせる。人影はどこにもなかった。
「ちょっと、神経質になり過ぎだったかな」
 思えばあの日を除いて、沙羅さんと鉢合わせたことなんて一度もなかった。きっと私と沙羅さんがここを訪れるタイミングは、根本的にずれているのだろう。
 少し肩すかしを食らったように笑った私は、いつものように大きく伸びをした。
 交差させた両手の向こうには、きらきらと瞬く星空が広がる。いつも通り眼鏡を外しゴムを解いた私は、塔屋の屋根へ上っていた。
「う~ん。やっぱりここの空気が気持ちいい」
「こんばんは」
「き、やあああっ!?」
 動揺に大きく後ずさったのが悪かった。塔屋の端まで下がっていたことに気付かなかった私は、さらに後退しようとして足を踏み外した。
 お、落ちる……っ!
「危ない!」
 身体がぐらりと浮遊する。しかしながら直後、もの凄い力が私を横に引き留めた。
 とっさに閉じた瞳を開けると、温かなストライプのシャツが視界に広がっている。
「……っ、あ」
 どうやら落ちることはなかったらしい。
 それでも胸をよぎった恐怖心はなかなか消えず、心臓がどくどくとせわしなく走る。
「また、驚かせてしまいましたね」
 沙羅さんの声が、私の頬を甘く掠める。細められた瞳がまるでもうひとつの星空のようで、吸い込まれてしまいそうになった。
 また、沙羅さんに助けられてしまった。先に硬直が解けた頭が、ぐるぐると稼働を再開する。
 ……あれ?
 抱き留められている状況を察すると同時に、小さな違和感が胸に滲んだ。
「気付いてもらえましたか。まあ、勘違いされるのももう慣れましたが」
「? え? へ?」
「俺は男ですよ。小鳥さん」
「…………おとこ?」
「はい」
 なるほど。私は返答を忘れ、心中で呟いた。違和感の正体。
 現在進行形で押しつけられている沙羅さんの胸に──「胸」が、ない。
「な、ななな……っ!?」
 ぶわわわっと身体全体が沸騰する。
 堅い胸の感触も、私の体を難なく抱き留める大きな手も男の人のそれだ。
 ああ、駄目だ。胸の奥底からどくりと沸き上がってくる。最近は落ち着いてきていると思っていたのに、恐怖という名の重い痺れが、ゆっくりと手足にまで染み渡っていく。
 男の人は──怖い。
「離して下さい!」
 夜空に響いた叫び声。
 そのあまりに理不尽な内容に気付き、さあっと血の気が引く音がした。無意識に突き出していた自分の手の先を追う。瞬間、目を瞬かせながらこちらを見つめる沙羅さんと視線が絡んだ。
 大きな後悔に、胸が潰れそうになる。沙羅さんは、私を助けてくれただけなのに。
 すぐさま、私は頭を深く深く下げた。
「す、すみません! 驚いてしまって……!」
「いいえ。男が女性にいつもまでも触れているのは不躾でしたね。失礼しました」
 まるで何もかも飲み込んだように穏やかな沙羅さんに、少し安堵する。
 そして同時に、今明かされた事実に、困惑の波がじわじわと襲いかかってきた。沙羅さんはどうやら男の人らしい、と。
 あれ? でもそれじゃあ、この前の告白は? 男の人が男の人に……ってこと? そういうこと?
 確かに沙羅さんが美人ということに変わりはないし、正直全く違和感ない。
 でもだって、沙羅さんって名前も髪の長さも、女の人にしか見えなかったし。噂では確かに「女神」って言われていたよね!?
 うーん、うーんと頭を抱える私に、沙羅さんはぷっと小さく吹き出した。
「相変わらず反応が愛らしいですね」
 さらりとかまされた先制爆撃がクリティカルヒットする。妖艶にも思える異性の色香に、経験値0以下の私がかなうはずもなかった。
「来てくれて安心しました。貴女はもう、ここには来ないのかと思ってましたから」
 わずかに愁いを帯びた声色に、目を見張る。
 あれ以来、私がここを来るのを躊躇っていたことに、沙羅さんは勧付いていたんだろう。
「貴女の時間に水を差してしまって、申し訳なかったと思っています」
「い、いいえっ! それは誤解です!」
 高速で首を横に振り、私は沙羅さんの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ただ……その。沙羅さんみたいな綺麗な方に免疫がなかっただけといいますか……っ」
「“女神”扱いされていたくらいですしね」
「ほ、本当にすみませ……!」
「いいんですよ。少しややこしい外見をしている俺も俺ですから」
 先端が柔らかく肩に触れる自らの髪を掬い、沙羅さんがそう笑う。髪型もそうだけど、そのモデル顔負けプラス中性的な美貌のせいでは、とは言わないでおいた。
「でも、もしよければこれからもここで、貴女の歌声を聴かせてくれませんか」
 それは、何とも唐突な話だった。
「決して邪魔はしません。歌声と、少しの会話さえ頂ければ」
「え、えええ……?」
 どうして私の歌声なんぞを気に入ってくださったのだろう。綺麗で胸を揺さぶる歌姫なら、世の中にいくらでもいるのに。でも。
 あ、抗えない……!
 いまだに真っ直ぐ見据える瞳は強く美しいもので、とてもNOと言えるものではない。
 そもそも女神VS庶民という時点で、立っている土台が違うのだ。
「わ……わかりまし、た……?」
「良かった。ありがとうございます」
 もの凄い間を空けた後、ついに私は白旗を揚げた。何なんだ、これは。まるでついていけないぞ。
「総務部兼第二編集部の堀井小鳥さん、ですよね? 俺は第一グラフィック部CG課の沙羅慧人(けいと)です」
 沙羅、というのは苗字だったらしい。
「ここへ来るのは今まで通り、無理なさらないで結構です。綺麗な星空の夜にでも俺を癒してもらえると助かります。ああ、それと」
 駄目だ。今夜はもう、何が何だかわからない。ただ理解できることはひとつだけ──。
「眼鏡姿も素敵だと思いますよ。小鳥さん」
 瞬きすらかなわない麗人に翻弄される未来が、否応なく目の前に広がっていくのがわかる。
 私の平凡かつ無害な日常が、どうやら崩壊の危機にあるようです。
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