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最終話 おかえりなさい、お兄ちゃん
(2)
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「部屋、随分と広くなったね」
「ね。そんなに荷物持ち込んだつもりはなかったけど、片してみると違うね」
今日からこの部屋は、元両親の寝室、兼、元兄の寝室になる。
綺麗に片付けられた部屋は、窓の日差しをいっぱいに含んで何だかすごく真っ白だった。
部屋の元主を見送る部屋が寂しそうのか、眺めている元主が寂しそうのか。もしかしたらどちらも正しいのかもしれない。
朝食べた食事が、2人で取る最後の食事だった。
朝食からご馳走を用意するのも滑稽な気がして、結局品数を1品増やすだけにとどめた。息吹の好物になったイカの味噌和えにした。
階段をゆっくりと下っていく。一歩一歩を感慨深げに踏みしめる息吹が可笑しくて、後ろで密かに笑みを浮かべた。
「手荷物、やけに小さいけど大丈夫?」
「必要最低限以外は全部、もう現地に送ったからね」
「そっか。鞄に入ってるのはパスポートと財布と……カメラくらい?」
「ん。ほとんど正解」
ふっと口元を綻ばせた息吹が、芽吹の頭に手を乗せる。
この手の感触が好きだった。急にそんなことに気付き、心が揺らぐ。
その隙を突くようなタイミングで家のチャイムが鳴った。タクシーだ。時計を見上げれば、もう出発の時間になっていた。時間ってこんなに早かったっけ。
「それじゃあ、行くね」
「……ん」
慣れた素振りで玄関を出る息吹に、芽吹も笑顔でついて行く。笑顔で、笑顔で。
一瞬あとに泣き崩れたとしても、笑顔で。
「これからは今まで以上に、戸締まりは厳重にね」
「うん、わかってる」
「油断してたら、裸の男がソファーで寝転がってるかもしれないからね」
「それ、あんたのことでしょ」
「バレたか」
息吹も笑顔だった。きっとそれは、自分と同じ種類の笑顔だ。
胸が、じりじりする。
タクシーに小さく合図した息吹に、運転手が扉を開けた。
「元気でね」
瞬間、タクシーの扉を掴んだのは、芽吹の手だった。
掴みかかった衝撃でタクシーが揺れたのか、運転手も驚きも目線を向けてくる。
「め、ぶき?」
「……やっぱり、私も空港まで行く」
「え、でも」
「いいから。待ってて! 待っててよ!?」
すぐさま自宅へきびすを返す。
何かの間違いでタクシーが出発してしまうかもしれない。自室に駆け込み鍵と財布とスマホを乱雑に掴んだ拍子に、辺りの荷物がバサバサと落ちた。片付けは後でだ。今は──今は。
自宅前で見送ると決めたのは自分だった。それなのに、何なんだこの様は。
自らの幼さを改めて認識させられ、芽吹は喉の奥でぎゅっとこみ上げるものを押し込んだ。
タクシーの中で、2人が言葉を交わすことはなかった。
運転手も特に話を振ってくることはなく、流れるラジオの音だけがかろうじて車内の沈黙を緩和した。
住む街から市を2,3またいでいく。空港に近づくにつれ建物がみるみる減っていった。
タクシーの窓からでも、広がる空の青さが見て取れた。せめて今日が、澄み切った快晴でよかった。悪天決行になんてなった日には、再度この手を離すことができるのか自信がない。
きっと、この空の青を忘れることはないと思う。
空港に降り立った後も、声をかける機会を逸したままだった。
芽吹は少しだけ先を歩く息吹のあとを、ただ黙ってついていく。
休日と言うこともあってか、空港内は想像以上に人で溢れていた。しかし息吹はやはり慣れているのか、意に介する風でもなく涼しい顔で進んでいく。その背中が酷く遠く感じ、まだ離れていないのに胸が潰れる感覚が襲った。
また、会えなくなる。
「今度会えるのは、また15年後なのかな」
保安検査場の前にたどり着いたとき、ほとんど無意識に零した言葉にようやく息吹の視線が向けられた。
「息吹が家を出たのが、私が生まれてすぐなんだよね。それからずっと会ってなかったから、そのくらいかなって」
「……その前にも、会ったよ。初めて外国の仕事を受けたときに、1回だけね」
「えっ」
初耳だった。
驚きに目を丸くする芽吹に、息吹はリュックから年季の入った財布を取り出す。
中から引っ張り出したのは、1枚の紙切れだった。お金ではない。
「これ……」
「芽吹はまだ5,6歳くらいかな。4人でご飯を一緒にして、近くの公園を少し歩いた」
人が行き交う空港の雑踏の中、芽吹の目には緑生い茂る丘が見えた。
そんな中聞こえてきた、記憶の中のカメラのシャッター音。
振り返った先の人物は既にカメラを構えをやめていたが、後にカメラ画面に映し出された画を目にして、小さく呟いたのだ──あの時も。
「それ……私たち?」
差し出された写真は、一面が緑色の芝生。
それでも、角から伸びる人影は、確かに2人の大人と1人の子どもを象っていた。
「そう。人を撮れなくなっていた馬鹿が、ない頭を振り絞って思いついた、家族写真」
「っ……」
「お守りにしてたから。あれからずっと、ずっと」
直接撮れないからって、撮れないと思い込んでいたからって、もっと普通に撮ってくれればいいのに。
感極まって吐き出しそうになる震えた息を、すんでの所で喉の奥に押し込む。
震える息を吐き出したのは、息吹の方だった。
「離れたくないな」
「え……」
「芽吹と、離れたくない」
見たことない、そんな顔。
今度こそ芽吹はくしゃりと顔を歪ませた。
「私も、私だって、離れたくない」
「うん」
「勝手に帰ってきて、人の生活滅茶苦茶に荒らして。まんまと大切な兄妹になっておいて、それなのに、今更こんなのっ」
「うん」
「……ごめん。ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ」
「芽吹、おいで」
涙でぐしゃぐしゃになったまま、広げられた息吹の胸に飛び込んだ。
流れる涙が、酷く熱い。でもこの熱さで兄が行く道を変えたいわけじゃない。それは互いにわかっていた。
嬉しい。寂しい。行かないで。行ってきて。それらは全て芽吹の本音だった。
手のひらで無理矢理目元を拭い、微かに赤く色づいた息吹の目を真っ直ぐ見つめる。
「そろそろ、本当に時間だよね」
「心配しないで。帰ってくるよ。また」
「どうせ、10年以上後の話でしょ」
「どうかな。前と違って、俺も堪え性がなくなってるから」
どうだか。小さく笑った芽吹に、息吹は優しく髪を撫でる。
「芽吹が、生まれたときさ」
「え?」
「涙が出た。父と母を亡くして、泣きたくても泣けなくなって、枯れるって本当にあるんだとか思ってたのにさ。ほんと、馬鹿みたいに」
「っ……いぶ」
「悲しい涙じゃないよ」
ありがとう。
耳元で告げた息吹が、保安検査場に向かった。
手荷物を慣れた手つきで検査機に流し、振り返ることなくゲートの向こうに真っ直ぐ進んでいく。私の方が。私の方こそ。
「私も! ありがとう!」
周囲の視線も全てを放って、芽吹は目一杯の声を張る。息吹は背を向けたまま、手を高く上げてそれに応えた。
その背に透けた兄の涙に、芽吹はまた泣いた。
「ね。そんなに荷物持ち込んだつもりはなかったけど、片してみると違うね」
今日からこの部屋は、元両親の寝室、兼、元兄の寝室になる。
綺麗に片付けられた部屋は、窓の日差しをいっぱいに含んで何だかすごく真っ白だった。
部屋の元主を見送る部屋が寂しそうのか、眺めている元主が寂しそうのか。もしかしたらどちらも正しいのかもしれない。
朝食べた食事が、2人で取る最後の食事だった。
朝食からご馳走を用意するのも滑稽な気がして、結局品数を1品増やすだけにとどめた。息吹の好物になったイカの味噌和えにした。
階段をゆっくりと下っていく。一歩一歩を感慨深げに踏みしめる息吹が可笑しくて、後ろで密かに笑みを浮かべた。
「手荷物、やけに小さいけど大丈夫?」
「必要最低限以外は全部、もう現地に送ったからね」
「そっか。鞄に入ってるのはパスポートと財布と……カメラくらい?」
「ん。ほとんど正解」
ふっと口元を綻ばせた息吹が、芽吹の頭に手を乗せる。
この手の感触が好きだった。急にそんなことに気付き、心が揺らぐ。
その隙を突くようなタイミングで家のチャイムが鳴った。タクシーだ。時計を見上げれば、もう出発の時間になっていた。時間ってこんなに早かったっけ。
「それじゃあ、行くね」
「……ん」
慣れた素振りで玄関を出る息吹に、芽吹も笑顔でついて行く。笑顔で、笑顔で。
一瞬あとに泣き崩れたとしても、笑顔で。
「これからは今まで以上に、戸締まりは厳重にね」
「うん、わかってる」
「油断してたら、裸の男がソファーで寝転がってるかもしれないからね」
「それ、あんたのことでしょ」
「バレたか」
息吹も笑顔だった。きっとそれは、自分と同じ種類の笑顔だ。
胸が、じりじりする。
タクシーに小さく合図した息吹に、運転手が扉を開けた。
「元気でね」
瞬間、タクシーの扉を掴んだのは、芽吹の手だった。
掴みかかった衝撃でタクシーが揺れたのか、運転手も驚きも目線を向けてくる。
「め、ぶき?」
「……やっぱり、私も空港まで行く」
「え、でも」
「いいから。待ってて! 待っててよ!?」
すぐさま自宅へきびすを返す。
何かの間違いでタクシーが出発してしまうかもしれない。自室に駆け込み鍵と財布とスマホを乱雑に掴んだ拍子に、辺りの荷物がバサバサと落ちた。片付けは後でだ。今は──今は。
自宅前で見送ると決めたのは自分だった。それなのに、何なんだこの様は。
自らの幼さを改めて認識させられ、芽吹は喉の奥でぎゅっとこみ上げるものを押し込んだ。
タクシーの中で、2人が言葉を交わすことはなかった。
運転手も特に話を振ってくることはなく、流れるラジオの音だけがかろうじて車内の沈黙を緩和した。
住む街から市を2,3またいでいく。空港に近づくにつれ建物がみるみる減っていった。
タクシーの窓からでも、広がる空の青さが見て取れた。せめて今日が、澄み切った快晴でよかった。悪天決行になんてなった日には、再度この手を離すことができるのか自信がない。
きっと、この空の青を忘れることはないと思う。
空港に降り立った後も、声をかける機会を逸したままだった。
芽吹は少しだけ先を歩く息吹のあとを、ただ黙ってついていく。
休日と言うこともあってか、空港内は想像以上に人で溢れていた。しかし息吹はやはり慣れているのか、意に介する風でもなく涼しい顔で進んでいく。その背中が酷く遠く感じ、まだ離れていないのに胸が潰れる感覚が襲った。
また、会えなくなる。
「今度会えるのは、また15年後なのかな」
保安検査場の前にたどり着いたとき、ほとんど無意識に零した言葉にようやく息吹の視線が向けられた。
「息吹が家を出たのが、私が生まれてすぐなんだよね。それからずっと会ってなかったから、そのくらいかなって」
「……その前にも、会ったよ。初めて外国の仕事を受けたときに、1回だけね」
「えっ」
初耳だった。
驚きに目を丸くする芽吹に、息吹はリュックから年季の入った財布を取り出す。
中から引っ張り出したのは、1枚の紙切れだった。お金ではない。
「これ……」
「芽吹はまだ5,6歳くらいかな。4人でご飯を一緒にして、近くの公園を少し歩いた」
人が行き交う空港の雑踏の中、芽吹の目には緑生い茂る丘が見えた。
そんな中聞こえてきた、記憶の中のカメラのシャッター音。
振り返った先の人物は既にカメラを構えをやめていたが、後にカメラ画面に映し出された画を目にして、小さく呟いたのだ──あの時も。
「それ……私たち?」
差し出された写真は、一面が緑色の芝生。
それでも、角から伸びる人影は、確かに2人の大人と1人の子どもを象っていた。
「そう。人を撮れなくなっていた馬鹿が、ない頭を振り絞って思いついた、家族写真」
「っ……」
「お守りにしてたから。あれからずっと、ずっと」
直接撮れないからって、撮れないと思い込んでいたからって、もっと普通に撮ってくれればいいのに。
感極まって吐き出しそうになる震えた息を、すんでの所で喉の奥に押し込む。
震える息を吐き出したのは、息吹の方だった。
「離れたくないな」
「え……」
「芽吹と、離れたくない」
見たことない、そんな顔。
今度こそ芽吹はくしゃりと顔を歪ませた。
「私も、私だって、離れたくない」
「うん」
「勝手に帰ってきて、人の生活滅茶苦茶に荒らして。まんまと大切な兄妹になっておいて、それなのに、今更こんなのっ」
「うん」
「……ごめん。ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ」
「芽吹、おいで」
涙でぐしゃぐしゃになったまま、広げられた息吹の胸に飛び込んだ。
流れる涙が、酷く熱い。でもこの熱さで兄が行く道を変えたいわけじゃない。それは互いにわかっていた。
嬉しい。寂しい。行かないで。行ってきて。それらは全て芽吹の本音だった。
手のひらで無理矢理目元を拭い、微かに赤く色づいた息吹の目を真っ直ぐ見つめる。
「そろそろ、本当に時間だよね」
「心配しないで。帰ってくるよ。また」
「どうせ、10年以上後の話でしょ」
「どうかな。前と違って、俺も堪え性がなくなってるから」
どうだか。小さく笑った芽吹に、息吹は優しく髪を撫でる。
「芽吹が、生まれたときさ」
「え?」
「涙が出た。父と母を亡くして、泣きたくても泣けなくなって、枯れるって本当にあるんだとか思ってたのにさ。ほんと、馬鹿みたいに」
「っ……いぶ」
「悲しい涙じゃないよ」
ありがとう。
耳元で告げた息吹が、保安検査場に向かった。
手荷物を慣れた手つきで検査機に流し、振り返ることなくゲートの向こうに真っ直ぐ進んでいく。私の方が。私の方こそ。
「私も! ありがとう!」
周囲の視線も全てを放って、芽吹は目一杯の声を張る。息吹は背を向けたまま、手を高く上げてそれに応えた。
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