芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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最終話 おかえりなさい、お兄ちゃん

(1)

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 息吹が退職届を出したのは、翌日のことだった。
 嵐のように現れ去るのが決まった購買のお兄さんに、どこからか噂を聞きつけた生徒が連日殺到した。
 残念がる声から激励する声、叱咤する声と様々だったが、どれにも息吹は「ありがとう」と笑っていた。
「また戻ってきてね。応援してる。そんなに待遇悪かったの。今日も色々声をかけられたよ」
 夕食を囲んで交わす今日の何気ない出来事に、芽吹は呆れたように肩をすくめた。
「嬉しそうで何よりだよ。それにしても、後任の人がこんなに早く決まるなんて驚きだったよね」
「うん。最近知ったんだけど、購買員の仕事ってかなり倍率高いんだって」
「……え。それなのに、どうして息吹が受かったの」
「ね。俺も不思議」
 もしかしたら、元担任の智子に付きまとっていたストーカーを撃退したことが考慮されたのかな、と芽吹はぼんやり思った。そんなわけないか。単純に運がよかったんだろう。
 和やかな夕食を済ませ、会話もそこそこに2階の自室に戻る。
 扉の向こうに入るほんの一瞬だけ、開かれたままの隣の部屋に視線を馳せた。
 荷物は、まだ詰められていない。元々数は少ないものの特別整理された気配は見られず、芽吹の心は密かに安堵した。
 そろそろ荷造りを進めなくちゃまずいんじゃないの──そんな言葉をかけようか迷って、迷って、結局かけられずにいる。
 自室のベッドに体を沈める。
「兄のことを、どうぞよろしくお願いします」
 きっかり1週間後に現れた谷に、息吹を遮って芽吹は言った。
 芽吹に続いて「よろしくお願いします」と頭を下げた息吹に、数秒後、谷は涙腺が決壊したみたいに号泣した。
 よかった。浩さんはいい人だ。息吹を大切に思ってくれている、いい相棒だ。
 仕事の引き継ぎやあれこれで、実際この街を離れるための時間をもらった。
 それもいよいよ大詰めになり、息吹がこの家を去るまであと1週間を切っている。
「ほんと、たった数か月だったのになあ」
 どうして、息吹がいない生活が想像できないでいるんだろう。天井に向かって溜め息を吐き、その重みを顔面で受けとめる。
 でも、後悔はしていない。兄を応援できない妹なんて、居ない方がましだ。何度となく頭の中で繰り返した言葉を、今一度自分に言い聞かせる。
 大丈夫。私の決断は、間違ってなんかいない。


「学校辞めるんだってね。あんたの兄さん」
 部活上がりの更衣室。いつもは事務的な会話しかない空間で、思いがけず飛んできたのはマネージャー仲間の百合の言葉だった。
 半端に持ち上げたままになったTシャツに気づき、よいしょと首から抜き取る。
「そうなの。うちの兄とは、その節は色々とあれこれあったよね」
「さて。何のことだか」
 視線を絡ませることなく、横顔のままで百合がうそぶく。
「で。あんたがどこか覇気がないのも、それが寂しいからだったりするわけ?」
 あ、この方にもバレてたのか。
 奈津美や華はもとより、安達からも噂が広まるより先に心配の声がかけられた。もう何度目だろう。最近の芽吹は周囲からの心配を集めすぎている。
「はは、心配させちゃってたか。ごめんね」
「謝らないでよ。気持ち悪い」
「相変わらず辛辣」
「別に興味ないけど。職場変えたところで、家に帰れば嫌でも顔合わせるじゃない。そんなしょげることなわけ?」
「……家、出るんだ。ずっと離れて暮らしてたんだけど、また、遠くに行くの。地球の反対側くらい遠いところ」
 本当は、反対側は言い過ぎなにかもしれない。それでも、芽吹には違いはさしてないほど遠くに感じられた。
 思わず滑り出た言葉に、いつの間にか百合の視線がこちらを向いていた。
 あれ私、泣いてないよね、無意識に目元をさらう。人前で泣くのが癖になってはいけない。
「寂しいんだ?」
「うん」
「そんな風に弱みをみせるようになったのも、あのシスコン兄の影響なんだろうね」
 唇に薄付きの桃色リップを引き終えた百合は、すでにいつもの美少女高校生のなりを完成させていた。
「寂しいなら、寂しいって言えばいいんじゃないの。どうせそんな遠くに行っちゃうなら、恥ずかしがる必要もないでしょ」
「え」
「高校生なんてまだ子どもじゃない。精々その若さを利用して、大人を困らせてやればいいのよ」
 唇の淡い色合いとは真逆のふてぶてしさで、百合が吐き捨てる。
 しかし言葉尻に感じたわずかな気恥ずかしさに、芽吹はふっと口元を綻ばせた。
「ありがとう。励ましてくれて」
「……感謝とかしないでよ。気持ち悪い」
 至極嫌そうな表情を浮かべ、百合は女子更衣室の扉に手をかける。
 長い髪をなびかせ去っていく百合の後ろ姿は、いつも通り美しかった。


「そっか。親御さんたちも、ちゃんとお前の1人暮らしを許してくれたのか」
 星が瞬く帰り道、安達の隣で芽吹は「はい」と頷いた。
「もともと1人暮らしをする予定でしたから。それに、特にお母さんは、息吹がカメラマンに復帰したことの方が嬉しかったみたいです」
 20年以上前──母が初めて息吹に会ったときから、その小さな手には余る大きさのカメラがあったらしい。
 息吹がようやく日本に戻るとの報と同時に聞かされた、カメラマンを辞めるという報は、母の心を大いに揺さぶった。
 そっか。また仕事に戻るんだ、よかった、よかった──と。電話の向こうで何度も繰り返す母に、息吹は居心地悪そうに苦笑していた。
 この歳になって母親を泣かせることになるなんて、息吹も思ってなかったのだろう。
「必要以上に私のことを心配してるのは、両親より息吹の方。警護システムをいれるべきとか真顔で言ってくるから、宥めるのが大変で」
「でも、年頃の女が1人なんて、どう考えても安全とは言えねーだろ」
「はは。今の先輩の台詞、昨日の息吹の台詞とおんなじですよ」
 クスクス笑みを漏らす芽吹に、安達は不本意そうに息を吐いた。
 ここ最近はいつの間にか、安達と下校するのが習慣化していた。
 安達の家は、高校と芽吹の自宅のちょうど中間地点の別れ道で逆方向に曲がる。部活で疲労困憊なエース様を、わざわざ自宅まで付き合わせるわけにはいかない。
 それでも時々、芽吹の表情をつぶさに観察して、半ば強引に家の前まで送っていく。
 家と真逆方向のドラッグストアに用があるなんて、どう考えても付け焼き刃の言い訳だ。そうわかっていながら、芽吹もついその優しさに甘えてしまう。それほどに、安達の観察眼が絶妙だった。この辺りは、さすがエースと言ったところだろうか。
 そして今日は、ごく自然に分かれ道で芽吹は安達と別れる。百合の励ましが功を奏しているようだった。
「ありがとうございます。それじゃあここで」
「ああ。くれぐれも気をつけてな。マジでな」
「はい。防犯ベルも持たされてますから」
「ん。それじゃあ、また明日」
「はい」
 また明日。こんなやりとりすら、実は当たり前ではないんだと、最近はつくづく思う。
「……息吹」
 名前を呼ぶことも、数日後には殆どなくなる。
 私も──息吹も。
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