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第9話 この繋がりの名を何と呼ぶ
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泣いてないよ、と鼻声で答えると、母親も鼻声で笑った。
「本当はね。私たちが日本を発つ前に、芽吹に改めて息吹のことを話すことも考えたの。息吹のことを正確に説明するには腰を据えて話す必要があったけれど、そんな機会をなかなかとれないまま来てしまったからね」
「うん」
「そのことを息吹にも伝えたの。でも、息吹は話さなくてもいいって言ったわ。自分は芽吹を大切な妹だと思ってる。それで十分でしょ──ってね」
息が詰まった。
熱くて、寂しくて、優しい想いが、いっぱいに膨らんで。
「正直言うとね、私たちもそれがいいと思ったの。あなたたち2人には仲良く暮らして欲しかったから。少しずつでもいい、兄妹としての絆を築いて欲しかったのよ。息吹に、あなたの帰る家はここにあるよって、感じて欲しくて……」
語尾が震え、母親の言葉が途切れた。
自分の帰る家がない。そんなことは想像したこともなかった。その瞬間、胸を巣喰うような大きな不安が一気に押し寄せてくる。
幼い頃に両親を亡くし、新たな家族と苗字を違えたまま、高校進学と同時に実家を去った。国をまたいでカメラを抱えて過ごす日々さえも、今は断ち切られて。
その腕を掴んで引き留める術を、自分は持っているんだろうか。
「ねえ、お母さん」
「……うん?」
「私ね、息吹のこと、もっと知りたい」
その後、時間を気にしつつ母子の会話を交わした。着信を切った後も、しばらくその余韻を含む息が漏れる。
よかった、と思った。息吹のことを少しでも知ることができたから。そして、今までなかなか踏ん切りがつかなかった覚悟も。
時計の長針が、思いがけず傾きを急にしていく。あれ? そう思った瞬間、芽吹は血が滲む方の足を踏み込んだ。ズキリと走る痛みを押して、部屋の扉を開ける。
ビニル袋が擦れる音が、小さく廊下に響いた。
ドアノブにかけられたその中には、包帯と絆創膏と消毒液と痛み止めが複数個詰め込まれている。
「……、ばか」
こんなものを大量に買い込んで、肝心のあんたはどこに行った!
靴擦れの足にのみ急いで靴下を履き、スニーカーに足を通す。目についたスマホと財布をひったくるように掴み、芽吹は部屋を後にした。
息吹は携帯電話を持っていない。
衝動的に飛び出した芽吹は、ひとまず駐車場の方へ足を運んだ。日が傾いている今でも悪目立ちするだろう赤い外車は、目に映らない。
車で行くにしても、変に遠くには行かないだろう。じゃないと私たち3人は、土地勘のないこの宿に置いてきぼりだ。
それならいっそ、部屋で大人しく待っているという選択肢もある。冷静に自分に告げる声が聞こえたが、今の芽吹には完全に思考の外に弾き出された。
息吹に、さっきの会話を聞かれた。
それは芽吹には決して後ろ暗い内容ではなかったが、息吹は一体どう受け止めて解釈されたのか。一体どの部分を聞かれた? 何を思って解放道具だけ残して姿を消したのか?
浮かんでは消え、浮かんでは消える疑問符は、芽吹の胸をただただ苦しめる。
息吹がこんな風に姿を消すなんて、今までなかった。
どんなに気まずい出来事があっても、息吹はいつも通りだった。飄々とした雰囲気で、何かあったっけみたいな顔をしていたのに。
「……っ、息吹!」
駐車場を抜けだし、細い通りを駆け上がる。ズキズキ痛む足の傷も、まるで奮起した自分の背を押す気がするから不思議だ。
だって、本当は、ちゃんと話したかった。
面と向かって、泣いても笑ってもいいから、話したかったんだよ──息吹(あんた)と。
大通りに出る。観光時期では閑散期ということもあり、車通りは驚くほど少ない。
夕焼けが辺りを染める。まだまだ明るいはずの時間帯なのに、目にする無人の光景は酷く暗く感じた。
同時に、最近、こんな光景を見た、と思った。
「……悪夢」
最近、忘れかけた頃によぎる夢。
誰もいない暗い道をひたすら歩いて、いつの間にか早足になり、ついには全速力で駆け出している。
何か大声で叫んでいるんだけど、その声は聞こえなくて、ますます恐怖が胸を上っていく。
自分は一体何を叫んでいるのか、何を求めているのか。それを考え始めた頃に、いつもふっと瞼が開くのだ。
「っ……息吹! どこ行ったの!」
でも、今は違う。夢じゃない、現実だ。
足を止めるのももどかしく、勝手に選んだ道を進み声を張る。
何度かその名を呼んだ後、小さくむせ込んで膝に手を付いた。履いているスニーカーが視界に入る。
「足、痛いって言ってるでしょ、ばか……」
ぐず、と鼻が鳴る。
迷子になったときの心細さって、こんな感じだったっけ。でも今迷子になってるのは、三十路のいい大人の方だ。
そのとき、傍らに1台の車が止まった。車体の色は派手な黄色。タクシーだ。
「どうかしましたかー。体調でも?」
「……だい、じょうぶです」
愛想笑いを浮かべる。しかしすぐに、親切で開けてもらった窓ガラスを両手で掴みかかった。
「あの、兄が乗ってる車を探していて。赤い外車、見かけませんでしたか!」
「あ、え? 赤い外車?」
唐突な言動に、当然のように運転手が顔を引きつらせる。
それでも、ゆっくり言葉をかみ砕いた様子で「ああ」と声を漏らした。
「見た見た。10分くらい前だったかな。あの通りを真っ直ぐ走っていく赤い車をね」
「追ってください!」
どこの刑事ドラマか知らない台詞の返事を待たず、芽吹はタクシーに乗り込んだ。
「本当はね。私たちが日本を発つ前に、芽吹に改めて息吹のことを話すことも考えたの。息吹のことを正確に説明するには腰を据えて話す必要があったけれど、そんな機会をなかなかとれないまま来てしまったからね」
「うん」
「そのことを息吹にも伝えたの。でも、息吹は話さなくてもいいって言ったわ。自分は芽吹を大切な妹だと思ってる。それで十分でしょ──ってね」
息が詰まった。
熱くて、寂しくて、優しい想いが、いっぱいに膨らんで。
「正直言うとね、私たちもそれがいいと思ったの。あなたたち2人には仲良く暮らして欲しかったから。少しずつでもいい、兄妹としての絆を築いて欲しかったのよ。息吹に、あなたの帰る家はここにあるよって、感じて欲しくて……」
語尾が震え、母親の言葉が途切れた。
自分の帰る家がない。そんなことは想像したこともなかった。その瞬間、胸を巣喰うような大きな不安が一気に押し寄せてくる。
幼い頃に両親を亡くし、新たな家族と苗字を違えたまま、高校進学と同時に実家を去った。国をまたいでカメラを抱えて過ごす日々さえも、今は断ち切られて。
その腕を掴んで引き留める術を、自分は持っているんだろうか。
「ねえ、お母さん」
「……うん?」
「私ね、息吹のこと、もっと知りたい」
その後、時間を気にしつつ母子の会話を交わした。着信を切った後も、しばらくその余韻を含む息が漏れる。
よかった、と思った。息吹のことを少しでも知ることができたから。そして、今までなかなか踏ん切りがつかなかった覚悟も。
時計の長針が、思いがけず傾きを急にしていく。あれ? そう思った瞬間、芽吹は血が滲む方の足を踏み込んだ。ズキリと走る痛みを押して、部屋の扉を開ける。
ビニル袋が擦れる音が、小さく廊下に響いた。
ドアノブにかけられたその中には、包帯と絆創膏と消毒液と痛み止めが複数個詰め込まれている。
「……、ばか」
こんなものを大量に買い込んで、肝心のあんたはどこに行った!
靴擦れの足にのみ急いで靴下を履き、スニーカーに足を通す。目についたスマホと財布をひったくるように掴み、芽吹は部屋を後にした。
息吹は携帯電話を持っていない。
衝動的に飛び出した芽吹は、ひとまず駐車場の方へ足を運んだ。日が傾いている今でも悪目立ちするだろう赤い外車は、目に映らない。
車で行くにしても、変に遠くには行かないだろう。じゃないと私たち3人は、土地勘のないこの宿に置いてきぼりだ。
それならいっそ、部屋で大人しく待っているという選択肢もある。冷静に自分に告げる声が聞こえたが、今の芽吹には完全に思考の外に弾き出された。
息吹に、さっきの会話を聞かれた。
それは芽吹には決して後ろ暗い内容ではなかったが、息吹は一体どう受け止めて解釈されたのか。一体どの部分を聞かれた? 何を思って解放道具だけ残して姿を消したのか?
浮かんでは消え、浮かんでは消える疑問符は、芽吹の胸をただただ苦しめる。
息吹がこんな風に姿を消すなんて、今までなかった。
どんなに気まずい出来事があっても、息吹はいつも通りだった。飄々とした雰囲気で、何かあったっけみたいな顔をしていたのに。
「……っ、息吹!」
駐車場を抜けだし、細い通りを駆け上がる。ズキズキ痛む足の傷も、まるで奮起した自分の背を押す気がするから不思議だ。
だって、本当は、ちゃんと話したかった。
面と向かって、泣いても笑ってもいいから、話したかったんだよ──息吹(あんた)と。
大通りに出る。観光時期では閑散期ということもあり、車通りは驚くほど少ない。
夕焼けが辺りを染める。まだまだ明るいはずの時間帯なのに、目にする無人の光景は酷く暗く感じた。
同時に、最近、こんな光景を見た、と思った。
「……悪夢」
最近、忘れかけた頃によぎる夢。
誰もいない暗い道をひたすら歩いて、いつの間にか早足になり、ついには全速力で駆け出している。
何か大声で叫んでいるんだけど、その声は聞こえなくて、ますます恐怖が胸を上っていく。
自分は一体何を叫んでいるのか、何を求めているのか。それを考え始めた頃に、いつもふっと瞼が開くのだ。
「っ……息吹! どこ行ったの!」
でも、今は違う。夢じゃない、現実だ。
足を止めるのももどかしく、勝手に選んだ道を進み声を張る。
何度かその名を呼んだ後、小さくむせ込んで膝に手を付いた。履いているスニーカーが視界に入る。
「足、痛いって言ってるでしょ、ばか……」
ぐず、と鼻が鳴る。
迷子になったときの心細さって、こんな感じだったっけ。でも今迷子になってるのは、三十路のいい大人の方だ。
そのとき、傍らに1台の車が止まった。車体の色は派手な黄色。タクシーだ。
「どうかしましたかー。体調でも?」
「……だい、じょうぶです」
愛想笑いを浮かべる。しかしすぐに、親切で開けてもらった窓ガラスを両手で掴みかかった。
「あの、兄が乗ってる車を探していて。赤い外車、見かけませんでしたか!」
「あ、え? 赤い外車?」
唐突な言動に、当然のように運転手が顔を引きつらせる。
それでも、ゆっくり言葉をかみ砕いた様子で「ああ」と声を漏らした。
「見た見た。10分くらい前だったかな。あの通りを真っ直ぐ走っていく赤い車をね」
「追ってください!」
どこの刑事ドラマか知らない台詞の返事を待たず、芽吹はタクシーに乗り込んだ。
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