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第8話 兄妹の価値
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昼上がりの授業中、芽吹はひたすらペンを走らせていた。
今考え得る情報をまとめてみる。
息吹の父と母が結婚して、息吹が生まれた。けれどその後、息吹の母が亡くなった。
その後、息吹の父と芽吹の母が再婚した。3人生活が始まる。
けれどその後、息吹の父が亡くなった。芽吹の母と息吹が残され、2人暮らし。
その後、芽吹の父と母が再婚。芽吹が生まれ、4人家族に。
多分、これが本当の我が家の変遷。かりかりと自分の手帳に書き記す。
やっぱりそうだ。
確かに複雑な変遷だが、さして問題にする点はない。
現に両親は息吹に芽吹を預けた。少しでも不信感があるのならば、そんな決断はしないだろう。
息吹の行動は確かに常識外れな箇所もある。しかし、その背後にはいつも兄妹愛があった。
血の繋がりがなくたって。自分を静かに説得する。ほら、こんなに理論的に説明できる。
「次の文の訳を、来宮さん」
「はい」
すくと立ち上がる。淀みなく訳文を読みあげていく声を、なぜか他人みたいな心境で耳にする。
英訳だってこんなにスムーズに読めてる。いつも以上だ。自分が参ってるなんて考えすぎだ。
この事実を知ったところで何も変わらない。何も。何も。
「はい。ありがとう。じゃあ次は──、え?」
「っ、芽吹?」
「え?」
先生と斜め後ろの奈津美の声に、はっと我に返る。
同時に頬に熱いものが掠めたのがわかった。拭うことも隠すこともできないまま、教科書に小さい染みを作る。
わあ、嫌だ。芽吹は不快そうに眉を寄せた。
「来宮さん、どうしたの。体調悪いのなら、保健室に」
「先生、私、保健室まで付き添、」
「いらないよ、大丈夫。1人で行けるから」
奈津美が言い終わる前に、芽吹は笑顔で首を振る。
こんな自分のために、友達まで煩わせたくない。自分だけの問題だと、わかっているから。
涙を拭って、また溢れて、また拭う。でも少しだけ、落ち着いてきた気もする。
授業中の時間では他に行き場もなく、ひとまず保健室の前までたどり着く。それでも、もしも中に万一息吹がいたらと思うと、なかなかノックできなかった。今はきっと、向き合うにはまだ早い。
「芽吹?」
「え」
振り返ると、驚いた顔の安達が立っていた。驚いたのはこっちだ。お陰で性懲りもなく滲み始めていた涙が、すっと引いてしまった。
「どうして、今、授業中ですよ」
「や、お前のがどうしたんだよ」
手首を掴まれそうになり、それを咄嗟に避ける。
ここ数日、手探りで構築されていた新しい距離感。それが急に崩れかける予感に、酷く動揺した。
「っ……悪い。つい、勝手に動いてた。馴れ馴れしすぎたな」
「ち、違います。先輩のせいじゃありません、から」
慌てて首を横に振る芽吹に、安達が困ったような笑みになる。
「俺のせいじゃないのがマジだとしたら、やっぱり原因は、あの人か」
「え?」
「5限の時間にな、誰かさんから因縁つけられた。うちの芽吹に何してんだってさ」
「……」
息吹、と心の中に零す。
瞬間、予兆も感じる間もなく、ぼろぼろと涙が落ちていく。駄目だ。本当に涙腺が馬鹿になっている。
その場をしのぐ言葉を紡ごうとする芽吹の手首を、今度こそ安達の手が掴んだ。驚く芽吹に、安達が口を開く。
「ひとつだけ、教えろよ。お前がそんな風に壊れそうなのは、兄貴への恋心がはっきりしたからか」
「……恋?」
甘ったるいその単語が、涙の海に浮かんで、ゆらゆらと優雅に泳いでいく。
こちらに差し出される、大きくて指先の硬い手のひら。それに求めていたものは、見返りの恋心?
「そこまで」
がらり、と保健室の扉が開いた。
「安達。お前、こうなることも覚悟して、戦線離脱したんじゃなかったのか?」
別の手が芽吹の手首を引き、保健室に無理矢理引き込まれる。
視界の端に、白衣がふわりと揺れた。
「それならせめて、こいつのペースを守ってやれ」
小笠原の静かな言葉を最後に、戸が閉まった。
保健室には小笠原以外おらず、白い整然とした空間が整っていた。
今起こったやりとりに呆然とする。そんな芽吹をよそに、小笠原は慣れた手つきで室内の水道でタオルを濡らした。
「小笠原先生、あの」
「お前の周りは、感情に正直過ぎる奴ばかりだな」
背を向けながら言う小笠原が、電子レンジにタオルを突っ込む。
「蒸しタオルを作ってやる。そこで大人しくしてろ」
「……先生がモテる理由が、改めてわかりました」
「無駄口叩く元気があるなら、今すぐ追い出すぞ」
もちろん追い出す素振りなど見せることなく、小笠原から蒸しタオルを渡された。
続いて用意された冷たいタオルも傍らに置かれ、小笠原は再び自分の仕事に戻った。
言われたように芽吹はタオルを交互に当てながら、ベッドにぼうっと横になる。
「最近、涙腺が仕事のしすぎなんです。ふとした拍子にだらだら垂れ流し状態で……困ったものです」
「それで少しは、日頃のストレスを軽減できるんじゃねえのか」
返ってくるとは思わなかった返答に、少し驚く。
「先生」
「なんだ」
「先生は今、恋愛してますか」
「……ああ。してる」
「まじですか」
「お前が聞いたんだろ」
「あ、大丈夫です。誰にもバラしませんから」
「なに、人の弱み握った顔してんだ」
パソコン作業の音が小さく響く中、淡々とした会話の間でそっと言葉が引き出される。
「先生」
「なんだ」
「学生時代の息吹って、安達先輩に似てましたか」
今考え得る情報をまとめてみる。
息吹の父と母が結婚して、息吹が生まれた。けれどその後、息吹の母が亡くなった。
その後、息吹の父と芽吹の母が再婚した。3人生活が始まる。
けれどその後、息吹の父が亡くなった。芽吹の母と息吹が残され、2人暮らし。
その後、芽吹の父と母が再婚。芽吹が生まれ、4人家族に。
多分、これが本当の我が家の変遷。かりかりと自分の手帳に書き記す。
やっぱりそうだ。
確かに複雑な変遷だが、さして問題にする点はない。
現に両親は息吹に芽吹を預けた。少しでも不信感があるのならば、そんな決断はしないだろう。
息吹の行動は確かに常識外れな箇所もある。しかし、その背後にはいつも兄妹愛があった。
血の繋がりがなくたって。自分を静かに説得する。ほら、こんなに理論的に説明できる。
「次の文の訳を、来宮さん」
「はい」
すくと立ち上がる。淀みなく訳文を読みあげていく声を、なぜか他人みたいな心境で耳にする。
英訳だってこんなにスムーズに読めてる。いつも以上だ。自分が参ってるなんて考えすぎだ。
この事実を知ったところで何も変わらない。何も。何も。
「はい。ありがとう。じゃあ次は──、え?」
「っ、芽吹?」
「え?」
先生と斜め後ろの奈津美の声に、はっと我に返る。
同時に頬に熱いものが掠めたのがわかった。拭うことも隠すこともできないまま、教科書に小さい染みを作る。
わあ、嫌だ。芽吹は不快そうに眉を寄せた。
「来宮さん、どうしたの。体調悪いのなら、保健室に」
「先生、私、保健室まで付き添、」
「いらないよ、大丈夫。1人で行けるから」
奈津美が言い終わる前に、芽吹は笑顔で首を振る。
こんな自分のために、友達まで煩わせたくない。自分だけの問題だと、わかっているから。
涙を拭って、また溢れて、また拭う。でも少しだけ、落ち着いてきた気もする。
授業中の時間では他に行き場もなく、ひとまず保健室の前までたどり着く。それでも、もしも中に万一息吹がいたらと思うと、なかなかノックできなかった。今はきっと、向き合うにはまだ早い。
「芽吹?」
「え」
振り返ると、驚いた顔の安達が立っていた。驚いたのはこっちだ。お陰で性懲りもなく滲み始めていた涙が、すっと引いてしまった。
「どうして、今、授業中ですよ」
「や、お前のがどうしたんだよ」
手首を掴まれそうになり、それを咄嗟に避ける。
ここ数日、手探りで構築されていた新しい距離感。それが急に崩れかける予感に、酷く動揺した。
「っ……悪い。つい、勝手に動いてた。馴れ馴れしすぎたな」
「ち、違います。先輩のせいじゃありません、から」
慌てて首を横に振る芽吹に、安達が困ったような笑みになる。
「俺のせいじゃないのがマジだとしたら、やっぱり原因は、あの人か」
「え?」
「5限の時間にな、誰かさんから因縁つけられた。うちの芽吹に何してんだってさ」
「……」
息吹、と心の中に零す。
瞬間、予兆も感じる間もなく、ぼろぼろと涙が落ちていく。駄目だ。本当に涙腺が馬鹿になっている。
その場をしのぐ言葉を紡ごうとする芽吹の手首を、今度こそ安達の手が掴んだ。驚く芽吹に、安達が口を開く。
「ひとつだけ、教えろよ。お前がそんな風に壊れそうなのは、兄貴への恋心がはっきりしたからか」
「……恋?」
甘ったるいその単語が、涙の海に浮かんで、ゆらゆらと優雅に泳いでいく。
こちらに差し出される、大きくて指先の硬い手のひら。それに求めていたものは、見返りの恋心?
「そこまで」
がらり、と保健室の扉が開いた。
「安達。お前、こうなることも覚悟して、戦線離脱したんじゃなかったのか?」
別の手が芽吹の手首を引き、保健室に無理矢理引き込まれる。
視界の端に、白衣がふわりと揺れた。
「それならせめて、こいつのペースを守ってやれ」
小笠原の静かな言葉を最後に、戸が閉まった。
保健室には小笠原以外おらず、白い整然とした空間が整っていた。
今起こったやりとりに呆然とする。そんな芽吹をよそに、小笠原は慣れた手つきで室内の水道でタオルを濡らした。
「小笠原先生、あの」
「お前の周りは、感情に正直過ぎる奴ばかりだな」
背を向けながら言う小笠原が、電子レンジにタオルを突っ込む。
「蒸しタオルを作ってやる。そこで大人しくしてろ」
「……先生がモテる理由が、改めてわかりました」
「無駄口叩く元気があるなら、今すぐ追い出すぞ」
もちろん追い出す素振りなど見せることなく、小笠原から蒸しタオルを渡された。
続いて用意された冷たいタオルも傍らに置かれ、小笠原は再び自分の仕事に戻った。
言われたように芽吹はタオルを交互に当てながら、ベッドにぼうっと横になる。
「最近、涙腺が仕事のしすぎなんです。ふとした拍子にだらだら垂れ流し状態で……困ったものです」
「それで少しは、日頃のストレスを軽減できるんじゃねえのか」
返ってくるとは思わなかった返答に、少し驚く。
「先生」
「なんだ」
「先生は今、恋愛してますか」
「……ああ。してる」
「まじですか」
「お前が聞いたんだろ」
「あ、大丈夫です。誰にもバラしませんから」
「なに、人の弱み握った顔してんだ」
パソコン作業の音が小さく響く中、淡々とした会話の間でそっと言葉が引き出される。
「先生」
「なんだ」
「学生時代の息吹って、安達先輩に似てましたか」
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