芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第6話 兄妹は復唱する

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 次の日は、いつも通り息吹に挨拶をすることができた。
 その様子で判断したのか、息吹も昨日の1日がなかったかのようにいつも通りだ。こういう時、息吹はやはり大人なのだと感じてしまう。
「あれ。芽吹、もう行くの」
「うん。ちょっと、野球部の朝練に付き合うことになって」
 嘘だった。本当は早めに登校して、人目のないところで写真の特訓をするためだ。
 今は、時間の許す限りカメラに接していくしかない。
 あらかじめ用意していた言い訳をすると、息吹は少し考えた様子で押し黙った。
「息吹?」
「芽吹、ちょっとこっち」
 言うなり、息吹の長い指が伸びてくる。
 そっと目尻に触れた指先は、しなやかに見える印象とは対照的に、意外と固かった。
「目、赤いね。寝不足だった?」
「あ、うん。寝る直前、スマホいじっちゃって」
「そう」
 じっと見つめる息吹の視線に、何とか耐える。
 あまり不自然に目を逸らすと、心の中を覗かれてしまいそうだった。心臓の音が、どくどくと体を震わせる。
 頬に触れた指先はしばらく芽吹の目尻を小さく撫でていたが、そのままさっと離れた。
「あまり、無理しちゃ駄目だよ」
 息吹は懐から何か取り出した。チノルチョコだ。
「非売品。いってらっしゃい。気を付けて」
「ありがと。いってきます」
 受け取った小さな気遣いを握りしめ、芽吹は学校へと急ぐ。胸に抱いた決意のために。
 その背中を、息吹は視界から消えてもしばらく見つめていた。


 ところが、カメラ嫌いの克服はそう簡単にはいかなかった。
「奈津美。1分30秒経過」
「よし。ちょっと休憩しようかね」
「ん。ありがと、2人とも」
 ぺたりとその場に腰を落とした芽吹に、華が甲斐甲斐しくお茶を差し出す。手中のスマホには、ストップウォッチ画面が開かれていた。撮影時間を計測するためだ。
 初日1分以内に不調を訴えていた芽吹の撮影持続時間は、数日経過した時点で1分30秒になっていた。
「はは。ほとんど事故のような誤差だよねえ」
「そんなことない。初日は1回もいかなかった時間だよ。たぶん」
「ただ、問題は本番の撮影場所では、周りの視線も追加されるってことなんだよねー」
 今撮影練習している場所は、もっぱら人目のない屋上か学校の裏庭だ。
「だから、ある程度カメラ自体に慣れたら、今度は人目にも慣れる練習をしなくちゃ。ぶっちゃけ私も、そのときは緊張しそうだしねえ」
「そうだよね。了解」
 いまだにお腹の奥に力が入らない状態で、芽吹は努めて普段通りに答える。
 人の目がある撮影。カメラ嫌いの症状が悪化するのが嫌でも想像できる。それでもゆっくりしていられない。
 もう少し特訓の時間を増やさないと、と芽吹は自分に言い聞かせる。ふとポケットに入れたままになっていた小さな塊に気づき、かさかさと包みを開く。
「芽吹。それって」
「あ、チノルチョコ。今朝家を出るとき、息吹が渡してきたの。非売品って」
「非売品、ねえ」
 意味ありげに見下ろしてくる奈津美に、首をかしげる。
「実は昨日、私もお兄さんからチノルチョコもらったんだよね、非売品って言って」
「え、そうなんだ」
「でも、私のにはこんなこと書いてなかったなあ」
 そう言って指摘したチョコの包みに、視線をやる。そこには、小さな文字が追加されていた。
『お兄ちゃんの魔法入り』
「……なんだこれ」
 ふっと噴き出したはずが、目測を誤って泣き笑いになりそうだ。
 何の魔法かはわからない。
 それでも不思議と胸の奥から、温かな力が湧いてくるのを感じた。


「……で。俺に協力を要請したい、と」
「本当にすみません。でもこんな図々しいお願いできるの、先輩しかいないんです」
 2年生の廊下の角隅で、2人の人影が揺れた。
 授業の合間の時間で安達を呼び出した芽吹が、深々と頭を下げる。
「今はもう、どんなわらにもすがるべき時と言いますか」
「え、俺ってわらと同列? そゆこと?」
「いえ、決してそういうことではなくて」
 疲労が募っているからか、今の芽吹は少し言葉の選定力に欠けていた。
 それでもさして気分を害した様子のない安達に、芽吹はほっと救われる思いがする。
「でもなあ、俺写真なんて滅多に撮らねーし、専門的なことはわからねーよ?」
「いや、先輩に求めているのはそういうことじゃないんです。ひとまず、この写真を手に持ってください」
「ん? これ、前も持ってた写真じゃねーか」
 薄暗い廊下でも瞬時に判別できる。さすがエースピッチャー。視力もピカ一だ。
「この写真を見て、その、つまり、感想を言ってほしいんです」
「はい? 感想?」
「その……『写真写り、悪くないな』……みたいな?」
「はいい?」
 言いながら声量が小さくなる。
 自分でも馬鹿なことを頼んでいる自覚はある。でも今は、本気で手段を選んでいる余裕はないのだ。
「その、前に聞いてもらいましたよね。カメラが怖くなった理由が、『写真写り悪い』って言われたことだって」
「……おう」
「だからその……トラウマとは逆の言葉を耳にしていれば、効果が相殺されるんじゃないかと」
「ほう、なるほど」
「……すみません。馬鹿みたいですよね」
「いや。それだけ、カメラを克服したい気持ちが強いってことだろ?」
 そう告げると、安達の唇がそっと芽吹の耳元に寄り添った。
 驚きを表現する間もなく、唇が言葉を辿る。
「写真写り、いいじゃん。すっげー可愛い」
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