芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第2話 桜の下でついた嘘

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 初めて目にする安達の瞳が、そこにはあった。
 表情を崩すな。芽吹は自分に言い聞かせ、気取られないように呼吸を整える。
「それは気のせいですよ」
「気のせいじゃない。あいつらに聞けばわかる」
「スポーツマンなら、誰しも多少の波はあるものじゃないですか。それに」
 あなたの世話焼きならあの子1人で十分ですよ、と言いかけてやめた。
 途切れた言葉を追求しない安達との間に、沈黙が落ちてくる。
「ねえ、俺のこと、どんな風に思ってる?」
「格好よくて、男女問わず人気がある、かなり調子よくて、軽い先輩」
「あー、めっちゃ的確じゃん、その表現」
 眉を下げて頭をかく表情は、いつもの安達だ。芽吹は内心ほっと胸を撫で下ろした。
 いい加減しびれを切らしたらしい部員の1人が、安達に声をかける。あんたらもそんな所に突っ立てないで、早くこの男を回収していってくれ。
 芽吹が大きく溜め息をついたのと安達が大きく息を吸ったのは、ほとんど同時だった。
「お願いします、来宮芽吹さん! 週末の練習試合で俺がノーヒットノーラン決めたら! 野球部マネージャーに戻ってきてください!!」
「――っ!?」
 びりびりと響くほどの声量とともに、深々と頭を上げられる。
 呆気にとられた芽吹は、ようやく動き出した思考の中で「やられた」と眉をしかめた。
 外履きに履き替えて校門を出ようとしていた生徒たちの視線が、一斉に安達と芽吹の2人に向けられる。
「え、何今の」「あれって、野球部の安達先輩じゃん?」「え、なんか女にめっちゃ頭下げてるんだけど」「なんか、マネージャーがどうとか言ってた?」
 さざ波のように広がっていった噂話は、明日には学校内の周知の事実になるに違いない。
 当事者が他でもない、この男だからだ。
「……汚い手を」
「悪いな。でもこうでもしないと、本気で会話もできないみたいだから」
「おい安達! お前、また何めちゃくちゃなこと言ってんだよ!」
 ようやく待ちぼうけを食らっていた部員の1人――正捕手の田沼が、安達を物理的に止めに来た。向けるべき言葉が見つからない風体のまま、芽吹とは小さく会釈だけ交わした。
「大体、週末の練習試合って相手わかって言ってんのか。佐久翔だぞ」
 佐久翔。去年の練習試合で安達が大量失点し、途中降板した相手だ。当時一年だったとはいえ安達には珍しい成績だったので、データを整理したときに記憶していた。
「わからねーかな田沼。だからこそ、賭ける価値があるんだろ?」
 満足げに笑う安達を、田沼は呆れたように睨む。「滅茶苦茶な奴ですまん、来宮」と視線だけで詫びられた。
「な、芽吹。さっきの約束を守ったら、戻ってきてくれるよな?」
 何の握手かわからない手を差し出される。大きな手。チームを勝利に導き、想像つかない期待と負担を背負う手だった。
「俺! 絶対にノーヒッ」
「わかりました! だから黙ってください!」
 一時前の思考をすぐさま取り消しにかかる。何が期待と負担を背負う、だ。ほとんど脅しじゃないか。
 してやったり、と笑う安達は、悪の申し子のように見えた。


「あ、何かスーパーで買い出しはない?」
「いらない。まだ冷蔵庫に食材あるから」
「そか」視線もスピードを変えないまま短く答えた。
 学校への赴任が決まってすぐ、息吹はスクーターをどこからか調達してきた。見るからに中古だったが、動くものなら何でも構わない主義らしい。ヘルメットが2つあることについては、当初は気にも留めていなかった
「一応聞くけど、ちゃんと免許あるんだよね」
「大切な妹を乗せるのに、無免許なんてするはずないでしょ」
 ヘルメットで表情は窺えないが、恐らくへらへら笑う息吹を芽吹は無言で睨む。
 大切な妹なら、さっきの騒動のときもどうにか手を貸してほしかった。
 とはいえ、具体的に何をしてほしかったわけじゃないけれど。
「にしても、さっきの安達くん? すっごかったねえ、公衆の面前で大告白」
「告白じゃない。あの人はいつもああいう感じなの」
 ピンポイントで振られた話題に、くすぶる苛立ちをそのまま言葉に乗せる。そして予想通り、そんな口調を意に介するような兄ではなかった。
「芽吹、野球部のマネージャーだったんだね」
「たった、数か月だけだよ」
「芽吹は1年生なんだから、そりゃ数か月に決まってるでしょ」
 そりゃそうだ。馬鹿なこと言ってしまった。
「でも。色々あって辞めたの。1か月前」
「いいんじゃない。またやってみれば」
「簡単に言うね」
「だって、なんか楽しそうじゃない」
 始終軽い口調。
 それでも、あえて削いだ事情もすべて察しているように、息吹は言った。
「芽吹だって、ほんの少しは後ろ髪をひかれてるように見えたし」
「……」
 そうなのだろうか。実はずっと、小さな何かが引っかかってはいた。
 でもその正体はわからなかったし、部活が円滑に回っているのならそれでいいとも思っていたのだ。
「もし何かあったら、兄ちゃんが守ってあげるからさ」
 横目で、一瞬だけこちらに視線が向けられる。
 その瞳は、正面から照らす夕日の眩しさに阻まれ、よく見えなかった。
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