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え、と漏れかけた声を慌てて呑み込む。
気づけば会計を終えた望を、沙都は遠慮がちに見上げていた。
カウンター越しでは見ることのできなかった長いまつげ。
それが望の返答を待つように小さく揺れていて、どきっと大きく心臓が震える。
「すみません。こんなこと聞かれても困りますよね。お客さまもお仕事で本当にお忙しいでしょうし、職場でのお付き合いだってあるでしょうから」
「あ、いや……」
「昨夜街でお見かけしたお客さま……あのきらきらした街の中にとても自然に溶け込んでいらっしゃって、ああ、格好いいなあと思いました。田舎くささが抜けない私とは、きっと住む世界が違う人なんだなあと」
思いも寄らない言葉だった。
咄嗟に否定の言葉を出そうとした口を、沙都の笑顔が優しく封じた。
「でも、お客さまはそんな私にも変わらず接してくれました。土汚れを付けた私の顔を、笑顔で拭ってくれました。そのことが私、とても嬉しかったんです。自分でも驚くくらいに」
「沙都さん……」
「ふふ。そう、私の名前を覚えていてくださっていたことも」
照れくさそうな微笑みを向けられ、望の頬に堪えきれない熱がのぼる。
「関西に行かれても、もしもまたこちらに来る機会があるときはお立ち寄りくださいね。お待ちしていますから」
「……」
「……お客さま?」
「望です」
短い言葉とともに、望はポケットの中から一枚のメモ紙を差し出した。
いつも沙都が用意してくれる簡易レシピメモの、半分程度大きさ。
わざわざ文具店に立ち寄り品定めをした、カボチャ型のメモ紙だった。
「榊木望といいます。名前と……プライベートの電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが、こちらに」
「……あの」
「驚かせてしまって、本当にすみません!」
メモ紙を受け取ってくれたのを確認し、望はすぐさま深く頭を下げた。
掃除の行き届いた店内の床を見つめながら、望の心臓は痛いくらいに胸を叩き続けている。
「沙都さんに会う時間は、俺にとって特別な時間でした。近く関西に飛ぶ人間がなにをと思われるでしょうが、それでも……このままあなたとお別れになるのは、とても、嫌だなと……」
「……」
「ご近所の方には到底敵いませんが、何かに困ったときの愚痴相手くらいにはなれます。でも、もしも不快に思われたかご迷惑だったら、これは捨ててください。俺も、二度と沙都さんの目の前に現れませんので」
「す、捨てません!」
気づけば渡したメモ紙は、沙都の両手にぎゅうっと大切そうに握られていた。
そしてまるでお返しのように、沙都からもいつものレシピメモが渡される。
「私も、同じことを考えていました」
「え……え?」
「愚痴の相手くらいにはなれますって、ご迷惑だったら捨ててくださいって、お伝えするつもりでした」
受け取ったレシピメモに、そっと目を落とす。
いつもメッセージが書かれた空きスペースには、名前と電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが記されていた。
瞬間、ぐぐぐとこみ上げてくるものを感じ、望は思わず喉を鳴らす。
「榊木さん、とお呼びしてもよろしいですか……?」
「いえ。よければ名前のほうで。俺も沙都さんとお呼びしたいですから」
「それじゃあ……望さん」
控えめに呼ばれた自分の名に、思わず顔がにやけそうになる。
「アカウント名を書いてはみましたが、実はこういうデジタル関係は疎くて。どうやったら望さんのアカウントを見つけることが出来るんでしょうか」
「もしよければ、今ここで交換しませんか。そのほうが、お互い間違いもないでしょうから」
「よ、喜んで! とはいえ、どこをどう操作したらいいのか……?」
「アプリを起動させてみてください。そしたら、ここにあるプロフィール画面に移動して……」
慣れない様子で必死にアプリの操作を進める沙都の様子に、胸がじんと温かくなる。
追加された新しいアイコンは、色とりどりの野菜の写真だった。
「榊木の関西への転勤は、白紙になった」
「……は?」
素っ頓狂な望の声に、オフィスにいるメンバー全員がぴたりと動きを止める。
そんななかでも変わらないのは、我らが会社の長、伯父の昇のみだ。
「実は先日、別の東京チームのひとりから、親の介護の関係で急遽関西への転勤希望が出てな。もともと主戦力のお前が抜ける痛手も考慮すると、こちらから二人も関西に出すわけにはいかないってなわけで」
介護。出産。育児。傷病。
メンバーの人生の岐路をメンバー全員でサポートしていく姿勢が、我が社の大きな魅力のひとつだ。
「え。それじゃあ、俺は引き続き東京勤務になると?」
「ああ、そうなるな!」
「向こうで用意された社宅の部屋は?」
「お前の代わりに転勤になる奴に、そのままスライドさせるから問題ない」
「でも俺、こっちのマンション引き払っちゃったんですけど」
「ははっ、せっかくだから、この期にもっと立地のいい所を見つけたらどうだ?」
例えば、もっと気軽にいい人のところに通うことのできる場所とかさ。
そう耳打ちする伯父に思わず噛みつこうとした矢先、オフィス内は一気にお祝いムードに包まれた。
よかったよかったと、あちこちで祭の音頭のように交わされる。
続けて扉近くのホワイトボードにはまたも各自のスケジュール調整のあとに、『祝・榊木課長残留決定会!!』と仰々しい赤ペンで記された。
このオフィスのメンバーは本当に祝いごとが好きだ。
自分を慕ってくれるたくさんの存在に改めて感謝しつつ、望はそっとオフィスをあとにする。
廊下の突き当たりにはめ込まれた大きな窓。
脇のベンチに寄りかかりながら、どこまでも広がる青空を仰ぐ。
初めてのメッセージの内容がこれだったら、きっと彼女も驚くだろうな。
そんな想像を過らせながら、望は追加されたばかりの野菜のアイコンを静かにタップした。
おわり
気づけば会計を終えた望を、沙都は遠慮がちに見上げていた。
カウンター越しでは見ることのできなかった長いまつげ。
それが望の返答を待つように小さく揺れていて、どきっと大きく心臓が震える。
「すみません。こんなこと聞かれても困りますよね。お客さまもお仕事で本当にお忙しいでしょうし、職場でのお付き合いだってあるでしょうから」
「あ、いや……」
「昨夜街でお見かけしたお客さま……あのきらきらした街の中にとても自然に溶け込んでいらっしゃって、ああ、格好いいなあと思いました。田舎くささが抜けない私とは、きっと住む世界が違う人なんだなあと」
思いも寄らない言葉だった。
咄嗟に否定の言葉を出そうとした口を、沙都の笑顔が優しく封じた。
「でも、お客さまはそんな私にも変わらず接してくれました。土汚れを付けた私の顔を、笑顔で拭ってくれました。そのことが私、とても嬉しかったんです。自分でも驚くくらいに」
「沙都さん……」
「ふふ。そう、私の名前を覚えていてくださっていたことも」
照れくさそうな微笑みを向けられ、望の頬に堪えきれない熱がのぼる。
「関西に行かれても、もしもまたこちらに来る機会があるときはお立ち寄りくださいね。お待ちしていますから」
「……」
「……お客さま?」
「望です」
短い言葉とともに、望はポケットの中から一枚のメモ紙を差し出した。
いつも沙都が用意してくれる簡易レシピメモの、半分程度大きさ。
わざわざ文具店に立ち寄り品定めをした、カボチャ型のメモ紙だった。
「榊木望といいます。名前と……プライベートの電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが、こちらに」
「……あの」
「驚かせてしまって、本当にすみません!」
メモ紙を受け取ってくれたのを確認し、望はすぐさま深く頭を下げた。
掃除の行き届いた店内の床を見つめながら、望の心臓は痛いくらいに胸を叩き続けている。
「沙都さんに会う時間は、俺にとって特別な時間でした。近く関西に飛ぶ人間がなにをと思われるでしょうが、それでも……このままあなたとお別れになるのは、とても、嫌だなと……」
「……」
「ご近所の方には到底敵いませんが、何かに困ったときの愚痴相手くらいにはなれます。でも、もしも不快に思われたかご迷惑だったら、これは捨ててください。俺も、二度と沙都さんの目の前に現れませんので」
「す、捨てません!」
気づけば渡したメモ紙は、沙都の両手にぎゅうっと大切そうに握られていた。
そしてまるでお返しのように、沙都からもいつものレシピメモが渡される。
「私も、同じことを考えていました」
「え……え?」
「愚痴の相手くらいにはなれますって、ご迷惑だったら捨ててくださいって、お伝えするつもりでした」
受け取ったレシピメモに、そっと目を落とす。
いつもメッセージが書かれた空きスペースには、名前と電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが記されていた。
瞬間、ぐぐぐとこみ上げてくるものを感じ、望は思わず喉を鳴らす。
「榊木さん、とお呼びしてもよろしいですか……?」
「いえ。よければ名前のほうで。俺も沙都さんとお呼びしたいですから」
「それじゃあ……望さん」
控えめに呼ばれた自分の名に、思わず顔がにやけそうになる。
「アカウント名を書いてはみましたが、実はこういうデジタル関係は疎くて。どうやったら望さんのアカウントを見つけることが出来るんでしょうか」
「もしよければ、今ここで交換しませんか。そのほうが、お互い間違いもないでしょうから」
「よ、喜んで! とはいえ、どこをどう操作したらいいのか……?」
「アプリを起動させてみてください。そしたら、ここにあるプロフィール画面に移動して……」
慣れない様子で必死にアプリの操作を進める沙都の様子に、胸がじんと温かくなる。
追加された新しいアイコンは、色とりどりの野菜の写真だった。
「榊木の関西への転勤は、白紙になった」
「……は?」
素っ頓狂な望の声に、オフィスにいるメンバー全員がぴたりと動きを止める。
そんななかでも変わらないのは、我らが会社の長、伯父の昇のみだ。
「実は先日、別の東京チームのひとりから、親の介護の関係で急遽関西への転勤希望が出てな。もともと主戦力のお前が抜ける痛手も考慮すると、こちらから二人も関西に出すわけにはいかないってなわけで」
介護。出産。育児。傷病。
メンバーの人生の岐路をメンバー全員でサポートしていく姿勢が、我が社の大きな魅力のひとつだ。
「え。それじゃあ、俺は引き続き東京勤務になると?」
「ああ、そうなるな!」
「向こうで用意された社宅の部屋は?」
「お前の代わりに転勤になる奴に、そのままスライドさせるから問題ない」
「でも俺、こっちのマンション引き払っちゃったんですけど」
「ははっ、せっかくだから、この期にもっと立地のいい所を見つけたらどうだ?」
例えば、もっと気軽にいい人のところに通うことのできる場所とかさ。
そう耳打ちする伯父に思わず噛みつこうとした矢先、オフィス内は一気にお祝いムードに包まれた。
よかったよかったと、あちこちで祭の音頭のように交わされる。
続けて扉近くのホワイトボードにはまたも各自のスケジュール調整のあとに、『祝・榊木課長残留決定会!!』と仰々しい赤ペンで記された。
このオフィスのメンバーは本当に祝いごとが好きだ。
自分を慕ってくれるたくさんの存在に改めて感謝しつつ、望はそっとオフィスをあとにする。
廊下の突き当たりにはめ込まれた大きな窓。
脇のベンチに寄りかかりながら、どこまでも広がる青空を仰ぐ。
初めてのメッセージの内容がこれだったら、きっと彼女も驚くだろうな。
そんな想像を過らせながら、望は追加されたばかりの野菜のアイコンを静かにタップした。
おわり
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