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「ええっ、それじゃあ榊木さん、関西転勤の噂は本当だったんですかっ?」
「うそー……」
若い声がオフィスの一角に小さく響く。
顔を見合わせるのは、勤続五年目ほどの女性社員二人だ。
新人時代に望が教育係についていたこともあり、今でも慕ってくれている。
「そうなんだ。こちらので大きなプロジェクトもようやく一段落ついたしね。バタバタするけれど引き継ぎはしっかりさせてもらうし、何かあればいつでも連絡してくれて構わないから」
「ありがとうございます……でも! 榊木さんがいなくなるのはやっぱり寂しいですよ!」
「仕事もそうですけれど! これからいったいどうしたらいいんですか? 私たちの日々の目の保養はっ!?」
「ははは……目の保養ね」
苦笑するしかない望に、「笑い事じゃないです!」と二人が揃って喰ってかかる。
浮いた話がなかなか出ない自分は、どうやら若い子たちにとっては丁度いい話のネタらしい。
とはいえ別れを惜しんでくれる後輩の存在は、やはり嬉しいものに変わりなかった。
先ほど自販機で買ってきた飲み物を差し出しながら、望は微笑む。
「はい。ひとまず飲み物でも飲んで、午後の仕事も乗り切ろう。微糖のカフェラテと、炭酸オレンジでよかったよね?」
「うう……ありがとうございます、榊木さん」
「榊木さん優しい……別れが辛いいい」
「ありがとう。俺も寂しいよ」
目を細める望に、二人の頬がふわりと桃色に染まる。
そのとき、ポケットのスマホが震えていることに気づき、望は足早にオフィスをあとにした。
廊下の先に行き着いたところで着信ボタンを押す。
母からだ。
「もしもし。母さん、どうかした?」
「ああ、望。仕事中だったかしら、一応昼休憩かと思ってかけたんだけど」
「大丈夫だよ。元気そうだね。身体の具合はどう?」
「お陰さまでとっても元気よ。最近は近所の奥さまたちと小旅行に出掛けたりしてね」
受話器越しに聞こえてくる弾むような声色に、望は小さく安堵の息を吐く。
望の母親は、昔から身体が弱い人だった。
一人で黙々と無理を重ねては、突然倒れてしまうことも一度や二度ではなかった。
女手ひとつで自分を育て上げてくれた母親に、望は心から感謝している。
今は無理のないペースで楽しく働いて、友人との時間も取れている。
母親のとりとめない近況を聞くたびに、望は心穏やかになれた。
「ところで昇兄から聞いたんだけど。あなた、ようやくどなたかいい人が出来たんだって?」
「……はっ?」
まずい。つい大声を張ってしまった。
幸い周囲に人の影はないものの、受話器からは母親の愉しげな笑い声が届く。
「実は最近私の職場の人からも、お見合いの話を結構な頻度で頂いていたのよ。あ、私のじゃないわよ。もちろん望のね。お断りの文句を考えるのも結構大変だけれど、お相手がいるなんて嘘を吐くのも、何となく気が咎めたりしていたものだから」
「お相手なんていないって。期待させて悪いけど」
「え、そうなの? でも昇兄が」
「昇伯父さんのいうことは真に受けるなって、いつも言ってるだろ?」
とはいえ、心底がっかりした声を出されてはこちらの罪悪感も多少は疼く。
単身上京した息子の行く末を案じているのだろうが、もう三十一。立派な大人だ。
加えて、結婚を選ばない人生を送る人なんてごまんといる。
「別に母さん、早く結婚してほしいなんてせっついているわけじゃあないのよ。だってほら、現に私自身、結婚直前で大失敗しでかしたいい見本だものねえ?」
きゃはっと笑う母親に苦笑が漏れる。
ブラックジョークだ。
「でもあなたってば私に似て、仕事ばかりに明け暮れていると自分を省みなくなってしまうから。ふと周りを見回して、立ち止まれる存在があれば安心だわあなんて、母さん思うのよ。恋人さんじゃなくてもいいの。お友達とか、趣味とか」
「……馴染みのお店とか?」
「そうそう、それよお」
嬉しそうに語る母親に相づちを入れながら、望の脳裏には先日訪れた店の情景が浮かんでいた。
彩り豊かな野菜たちを愛して止まない、小柄で可愛らしいあの人の姿も。
母親との通話をしている中、とある準備が着々と進んでいたらしい。
望がオフィスに戻る頃には、入り口横のホワイトボードにスケジュール調整の赤ペン文字が多数入り組んでいた。
話によると、今夜二十時、望の送別会が急遽開催されることとなったらしい。
先ほどの話を聞いていた社員たちが協力し、時間調整をしてくれたようだった。
伯父の会社というひいき目なしに、ここはとてもいい会社だ。
仕事のやりがいも勿論のこと、何より社員同士の人間関係もとても良好だ。
例えば人生の岐路と呼べる子の出産時も、産休育休は男女問わず取ることが昔からの慣例となっている。
緊急時の仕事の割り振りや人員補充の仕組みも確立され、それらの負担も見込まれた給与体制も整っていた。
社員を大切にする風潮があるからこそ、社内の空気も清々しい。
関西でもきっと、うまくやっていける。
新鮮な仕事環境が、自分をさらに成長させてくれるに違いない。
だからこそ望は、真っ先に転勤の打診に手を上げたのだ。
「飲み会の企画は、いつも榊木さんが率先してやってくれていましたからね!」
「こういうときくらい、遠慮せずに誘われてくださいよ!」
「ああ。ありがとう」
照れくささを覚えながらはにかむ望に、周囲の社員たちが一様に笑顔になる。
いつも一生懸命な仲間たちに恵まれた幸運を、望は改めて噛みしめていた。
「うそー……」
若い声がオフィスの一角に小さく響く。
顔を見合わせるのは、勤続五年目ほどの女性社員二人だ。
新人時代に望が教育係についていたこともあり、今でも慕ってくれている。
「そうなんだ。こちらので大きなプロジェクトもようやく一段落ついたしね。バタバタするけれど引き継ぎはしっかりさせてもらうし、何かあればいつでも連絡してくれて構わないから」
「ありがとうございます……でも! 榊木さんがいなくなるのはやっぱり寂しいですよ!」
「仕事もそうですけれど! これからいったいどうしたらいいんですか? 私たちの日々の目の保養はっ!?」
「ははは……目の保養ね」
苦笑するしかない望に、「笑い事じゃないです!」と二人が揃って喰ってかかる。
浮いた話がなかなか出ない自分は、どうやら若い子たちにとっては丁度いい話のネタらしい。
とはいえ別れを惜しんでくれる後輩の存在は、やはり嬉しいものに変わりなかった。
先ほど自販機で買ってきた飲み物を差し出しながら、望は微笑む。
「はい。ひとまず飲み物でも飲んで、午後の仕事も乗り切ろう。微糖のカフェラテと、炭酸オレンジでよかったよね?」
「うう……ありがとうございます、榊木さん」
「榊木さん優しい……別れが辛いいい」
「ありがとう。俺も寂しいよ」
目を細める望に、二人の頬がふわりと桃色に染まる。
そのとき、ポケットのスマホが震えていることに気づき、望は足早にオフィスをあとにした。
廊下の先に行き着いたところで着信ボタンを押す。
母からだ。
「もしもし。母さん、どうかした?」
「ああ、望。仕事中だったかしら、一応昼休憩かと思ってかけたんだけど」
「大丈夫だよ。元気そうだね。身体の具合はどう?」
「お陰さまでとっても元気よ。最近は近所の奥さまたちと小旅行に出掛けたりしてね」
受話器越しに聞こえてくる弾むような声色に、望は小さく安堵の息を吐く。
望の母親は、昔から身体が弱い人だった。
一人で黙々と無理を重ねては、突然倒れてしまうことも一度や二度ではなかった。
女手ひとつで自分を育て上げてくれた母親に、望は心から感謝している。
今は無理のないペースで楽しく働いて、友人との時間も取れている。
母親のとりとめない近況を聞くたびに、望は心穏やかになれた。
「ところで昇兄から聞いたんだけど。あなた、ようやくどなたかいい人が出来たんだって?」
「……はっ?」
まずい。つい大声を張ってしまった。
幸い周囲に人の影はないものの、受話器からは母親の愉しげな笑い声が届く。
「実は最近私の職場の人からも、お見合いの話を結構な頻度で頂いていたのよ。あ、私のじゃないわよ。もちろん望のね。お断りの文句を考えるのも結構大変だけれど、お相手がいるなんて嘘を吐くのも、何となく気が咎めたりしていたものだから」
「お相手なんていないって。期待させて悪いけど」
「え、そうなの? でも昇兄が」
「昇伯父さんのいうことは真に受けるなって、いつも言ってるだろ?」
とはいえ、心底がっかりした声を出されてはこちらの罪悪感も多少は疼く。
単身上京した息子の行く末を案じているのだろうが、もう三十一。立派な大人だ。
加えて、結婚を選ばない人生を送る人なんてごまんといる。
「別に母さん、早く結婚してほしいなんてせっついているわけじゃあないのよ。だってほら、現に私自身、結婚直前で大失敗しでかしたいい見本だものねえ?」
きゃはっと笑う母親に苦笑が漏れる。
ブラックジョークだ。
「でもあなたってば私に似て、仕事ばかりに明け暮れていると自分を省みなくなってしまうから。ふと周りを見回して、立ち止まれる存在があれば安心だわあなんて、母さん思うのよ。恋人さんじゃなくてもいいの。お友達とか、趣味とか」
「……馴染みのお店とか?」
「そうそう、それよお」
嬉しそうに語る母親に相づちを入れながら、望の脳裏には先日訪れた店の情景が浮かんでいた。
彩り豊かな野菜たちを愛して止まない、小柄で可愛らしいあの人の姿も。
母親との通話をしている中、とある準備が着々と進んでいたらしい。
望がオフィスに戻る頃には、入り口横のホワイトボードにスケジュール調整の赤ペン文字が多数入り組んでいた。
話によると、今夜二十時、望の送別会が急遽開催されることとなったらしい。
先ほどの話を聞いていた社員たちが協力し、時間調整をしてくれたようだった。
伯父の会社というひいき目なしに、ここはとてもいい会社だ。
仕事のやりがいも勿論のこと、何より社員同士の人間関係もとても良好だ。
例えば人生の岐路と呼べる子の出産時も、産休育休は男女問わず取ることが昔からの慣例となっている。
緊急時の仕事の割り振りや人員補充の仕組みも確立され、それらの負担も見込まれた給与体制も整っていた。
社員を大切にする風潮があるからこそ、社内の空気も清々しい。
関西でもきっと、うまくやっていける。
新鮮な仕事環境が、自分をさらに成長させてくれるに違いない。
だからこそ望は、真っ先に転勤の打診に手を上げたのだ。
「飲み会の企画は、いつも榊木さんが率先してやってくれていましたからね!」
「こういうときくらい、遠慮せずに誘われてくださいよ!」
「ああ。ありがとう」
照れくささを覚えながらはにかむ望に、周囲の社員たちが一様に笑顔になる。
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