僕らの世界

Ottaing

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氷の館

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    まだ早かったのかもしれない。そう思ったのは5歳の頃だった。
    歓声とともに金属音が大きく鳴り、空を見上げると太陽が仁王立ちしている。ちょうど太陽と重なるようにして、黒い影が現れる。その時だけ時間が止まる。自分の呼吸音だけが耳に轟き、他の音は一切を遮断される。
    ボールは頭上高くを超えて行き、いつのまにか地面に寝転がっている。悟はボールを拾いに行くが、石につまずいてしまう。一年前に手術した跡のある首元が痛むような気がする。這うようにしてボールを取った時にはもう次の練習が始まっていた。
    悟の目には涙が膨らんでいる。小学6年生にして、まだフライすら取れないのがかなりきいたのだろう。が、すぐに鼻水の乾いたあとのついた袖でいそいそと涙を拭う。
    町の少年野球チームに入ったのは悟の意思ではなく、悟の両親によるものであった。小学生のみのチームで、様々な大会に出場している。練習は町の公園のグラウンドを使っている。この時代には珍しい、ピッチングマシーンなどもあり十分な環境といえる。空には桜島がのぞみ、海の匂いが常に漂っている。
「なんばしとる」
悟が振り返ると、コーチが少し怒ったような顔で近づいてきた。
「なんもしちょらん」
「みんな次の練習ば始めちょるわい」
ここで初めて悟は置いてかれていることを自覚したらしい。驚きと悲しみの入り混じった顔をして土を駆けてゆく。
    悟の方にボールが飛んできた。ボールはグラウンドの裏の森に姿を消した。
「悟ーっ、取ってくれやーい」
悟は森に向かって何も考えずに走って行く。
    森は、スギの木が多く生えていて、道はなく、ただ暗い闇が続いている。
「お前なんか嫌いだ」
と、なれない標準語で悟は寝そべったボールに向かって呟く。
    突如、寒気が襲う。
    雪が降り出している。
    ボールがみるみるうちに雪に埋もれて行く。一面が白く光り、モヤがかかる。モヤの向こうに建物が見える。悟は
(なにかな)
と思うよりも先に体が動いていた。悟の腕や首筋には鳥肌がたっていたが、気づくそぶりすら見せない。見入っているのだ。
    



   氷の館は、通称「仁王様の神殿」である。この鹿児島県南部の一部の地域で知られており、実際に見たという蚕角村の村長の話によると、
「モヤじゃ。神殿の前にモヤがかかっちゃった。そこからよう見ると、氷でできたお仁王様ばぁたっちょるんじゃ」
といった具合である。
    さて、そして悟が目にしたこの館は例の「仁王様の神殿」(氷の館)であった。
    無造作に駆け出した悟は自分の肌の凹凸にようやく気がつき、そして前方を見るとその無愛想な顔を捻じ曲げた。前方にあったのは氷でできた仁王様ではなかった。悟は瞬時にそのことに気づき、やがて、口が開き、塞がらない。
    無理もなかった。お仁王様とは仏教の金剛力士のことで、銅像や絵画になっている。確かにそこにいたのはお仁王様とそっくりだった。ただ一つ、悟の考えを決定づけるしんじつがそこにはある。動いているのだ。だんだんとこちらに迫ってくる金剛力士に悟は涙を流すことすらも忘れてしまう。
「コイ」
とだけその氷でできた男は言い、振り返り奥へと歩き出した。
    悟が奥へ進むと、何やら鉛筆の滑る音が聞こえてくる。振り返るとそこには18くらいの青年が机に向かって鉛筆を進めている。
「わしじゃ」
悟は瞬間的に理解した。これが自分の将来像であることを。なぜ理解したか。彼の首元に傷があったからか。単に自分に似ていると思ったからか。
    
    悟は鉛筆を止め、消しゴムを取ろうとした。ゴトッと背後で音がした。悟はゆっくりと振り向くが、そこには何もなく、ただただ氷がまるで冷笑するかのように佇んでいる。だが、右奥に椅子に座って本を読む中年くらいの男がいる。謎だった。ここには誰もいるはずがないのに、誰だ。
「お、おいあんた」

   声をかけられた。気がした。本から目をそらし前を見るが誰もいない。おそらく勘違いだろうと、メガネを取り隣にある机に置く。すると奥の部屋のベッドで寝ている男を発見する。まるで死んでいるみたいに青ざめている。悟はゆっくりと椅子から立ち上がり、ベッドに向かう。

    体はたくましく、二尺八寸ほどもある。顔も無愛想だが線がはっきりとしていてイケメンであった。が、身体が氷のように冷たい。息が苦しくなってくる。理性が迷路みたいに駆け回る。だが、体は動かず、まるで人形のように固定されている。瞬きはできた。が、瞬きをするごとにはっきりと見えてきてしまう。悟は信じたくなかったし、信じていなかった。不思議な感覚だった。さっきまで散歩していただけなのに、今はこうして寝ながら氷の館の一部になろうとしている。悟は静かに目を瞑る。






目を覚ました。が、からだはあいもかわらず、凍ったまま。だが動くことができた。悟は落ち着いた足取りで出口へ向かって歩き出した。
(ハヤク、カゾクニアイタイ)
その気持ちを抑えるようにしてゆっくりと進んでゆく。すると、前方に何かがいる。モヤが薄くなるまで近づくと、少年が駆けていることがわかる。悟はただ立ち尽くす。その瞳は、その傷は、その鳥肌は。全てを思い出し、一言だけくちにする。
「コイ」
    
    
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