わたしの心中

木苺

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君の心中

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 もし、夢の中でまた会えたら、彼女たちの様子を、伝えてほしい。
 彼女たちは幸せなのか。
 あいつは、幸せなのか。
 それだけで、自分は充分だ。

*****


 自室のベッドの上で、僕は目を覚ました。彼の記憶が戻っている気配はない。どうやら本当に、屋上に行かなければいけないらしい。
 早朝の冷たい空気が、肌を刺す。鳥のさえずりが聞こえてくる。
 僕は腕をさすりながら、布団の中から出て、椅子に座った。
 机の上に白いノートとシャーペンを出す。昨日、百円ショップに言って買ったものだ。真っ白のノートに、僕はシャーペンを走らせ始めた。

 その日の午後二時ごろに、僕は玲央と遥さんが心中した屋上へと向かっていた。
遥さんと玲央が心中に使ったビルは、もう誰にも使われていない廃ビルだった。すんなりとは入れたのには助かったが、エレベーターが動かないのはなかなか大変である。
 七階建てのビルを、階段を使って登っていく。
 もう、今日すぐに記憶を取り戻すつもりだった。
來さんに知らせると決心が鈍ってしまいそうだったから、知らせずに。
 遥さんと一緒に来なかったのは、そう。彼女と一緒に来てしまったら、彼女に記憶を取り戻さないことを願ってしまいそうだったから。
 僕にとっての遥さんは、言葉や態度は冷たくても、その心根はあったかい遥さんだ。彼女には幸せになってほしいから。消えてほしくないと思ってしまうから。
 でも、彼女は元の遥さんが幸せになることを望んでいる。
 だから僕は、だれにも知らせずに、ひっそりと、消えてなくなるつもりだった。
 ――なのに。
 ――なのに、どうして。
 屋上のドアを開けて、その先に見えた光景に、僕は顔をゆがめた。
「どうして、貴方がいるんですか」
 震える声でつぶやかれた言葉に、彼女は、冷たい表情で振り返った。
「遥さん……っ」
 彼女は目を細め、感情の乗らない平坦な声で答えた。
「あら、それは私の台詞ね。どうして貴方がいるの? 私は、だれにも知らせず、一人で記憶を取り戻すつもりだったのだけれど」
「あいにく、僕もですよ……っ。どうしてそんなことしたんですか?」
「それも私の台詞……と思ったけど、貴女が考えてることは大体わかるから違うわね。私が一人で記憶を戻そうとしたのは、そう……。貴方のやりたいことを尊重するため。一緒に記憶を取り戻しましょうといったら、貴方はもう戻れなくなるでしょう?」
「確かに、そうですけど……」
 他にもいろいろ文句は言いたかったが、自分も同じことをしようとした手前、偉そうなことをいうことはできない。
 結局、僕はそれ以上彼女をとがめることはできなかった。
「――雪」
 彼女がつぶやいた言葉を聞いて、僕も気づいた。僕たちの周囲には、白い粉雪がちらちらとまっていた。そう、まるであの日のように。
 空は暗くどんよりとした曇りで、昼に近いはずなのに、もう夜のように感じられた。
「それにしてもへんね。屋上に来たのに、記憶が戻らない」
「そういえば……」
 自分が消えたような感覚は、今のところない。これは、どういうことなのだろう。彼が言っていたことが、間違いだったのだろうか。
 疑問を感じていると、彼女は苛立たしそうにつぶやいた。
「なんで……。私は、記憶を取り戻さないといけないのに」
「……。どうして、貴方はそこまで、記憶を取り戻そうとするんですか?」
 ふと思い立って訪ねると、彼女は目を伏せて答えた。
「……夢を、見たの」
 その言葉に、はっとする。
 夢。
 それは、僕が見たものと同じかもしれない。
 僕は彼女にずんずんと近づき、勢いよく聞いた。
「あの! それって、人生を追憶する感じのやつですか! 永城 遥さんの!」
「――まさか、貴方も同じ夢を見ていたの?」
「はい! 僕は、玲央の人生を見ました!」
「そう、なら、話は早いわ。遥はね、人とは違う、冷たい自分に悩んでいたのよ。人が苦しんでも嘆いても、何も思えない自分に……」
 その話は、あの静かな病室の中で聞いた話と、どことなく似ているような気がした。
 この遥さんも、前の遥さんも、人とは違う、普通じゃない自分に悩んでいたのかもしれない。
 遥さんはいとおしいものを思い出すような優しいまなざしで、夢の中で見た永城 遥について語った。
「でもね、やっと、見つけることが出来たのよ。心からいとおしいと思える相手が。その人の名前は、玲央。前の貴方」
「――」
「彼女は、玲央のことを愛していたの。もう、一緒に死んでもいいくらい。でもね、彼女は、本当は、彼と一緒に過ごす、穏やかな日々を望んでいたのよ」
 彼女は顔を上げ、りりしいまなざしで語った。
「だから、私は彼女に幸せになってほしい」
「……そうなんですか」
「ええ」
「なら、早く消えないとですね」
「――ええ」
 彼女は無表情で頷いた。
「でも、どうするのかしら。屋上に来たのに、記憶は戻らないし」
「そうなんですよね……」
 彼の言ったことがあてにならないのなら、僕と遥さんになすすべはない。遥さんもこの様子だと、前の遥さんから何も聞いてないみたいだ。
 僕は頭を悩ませた。遥さんも、立ち止まって何やら考えている。
 その間も、降っている雪の勢いは増していった。
 何も思いつかず、彼女に「何か思いつきました?」と尋ねようと顔を上げたとき、僕はその光景を目撃した。
 そう、まるで結婚式のように、白い雪のヴェールを被った彼女を。
「なんだか、結婚式みたいだね」
 彼女は目を見開いて、それから、あの夢で見た光景のように、いたずらっぽく微笑んだ。
「あら、なら、貴方もお嫁さんかしら?」
 そう、ここに来ただけでは思い出せないのなら、この場所を、あの日になるべく近づけるのだ。そう、僕と遥さんで前の玲央と遥さんを演じたときのように。
 夢で見たあの光景を、まるまるこの場所に、トレースする。
 これは、同じ夢を見た彼女と僕にしかできない芸当だった。
 僕はコートを見回し、赤くなった。
 彼女はくすりと笑い、僕に手を差し出した。
 僕もおずおずとそれを握る。
 彼女はしっかりと握り返し、朗らかな声で語った。
「結婚は人生の墓場っていうものね。あながち間違いじゃないかもしれないわ」
「縁起が悪いなあ」
「あら、あなたに言われたくないわよ。こんなこと頼んでくるなんて、くるってるとしか言えないもの」
「……後悔、してる?」
 そう聞くと、彼女は無表情になった。
 彼女はその顔のまま、いつものように冷たい声で言った。
「してないわよ。私は人と同じじゃないから」
「……そっか」
「でも、そうね。私、感情だけはあるのよ。ずっとそれが嫌だったけど、いっそのこと、感情を持たない本当の化け物になってしまいたかったけど、でも、今はよかったって思えるわ」
「どうして」
「だって、感情がなかったら、この気持ちも味わえないでしょう」
 そして、彼女は口角を上げた。微笑みとは表現しがたい表情。
 それは、元の遥さんが、玲央へと送った笑みだった。
 なぜだろう。あの光景を再現しているだけなのに、なぜか心がもやもやする。
 冷たい風が頬を撫でていく。遥さんの栗色のサラサラした髪が、流れている。
 彼女と手をつないで、見知った街を見下ろす。
 雪が降っている。視界が白く染まる。
「ねえ、玲央」
 彼女は僕のほうを見て、笑わずに、ただ穏やかに目を細めて――。
 〝その言葉〟を口にする前に、僕は尋ねた。
「遥さんは、幸せですか?」
 口にしたとたん、僕の頭は真っ白になった。
 なぜ、こんなことを聞いてしまったのだろう。せっかく、状況をトレースしていたのに。
 僕がこんなことを聞いてしまったせいで、台無しじゃないか。
 彼女は一瞬目を見開いたが、やがて、冷たい声で言った。
「――幸せよ」
「どうして?」
「私も、心から思える人を見つけたから」
「だ、だれですかっ!?」
 焦った顔をする僕を見て、彼女はくすくすと笑った。そして、唇に手を当てる。
「秘密よ」
「えーっ」
「続きをしましょう」
 彼女は夢で見た遥さんのように、穏やかに目を細めて。
 僕はその顔に、ますます胸が苦しくなった。
「玲央――」
 それで、僕は彼女のその顔が、
 玲央に向けたその顔が見たくなくて。
 まぎれもなく、僕だけに送られた表情が見たくて。
 その事実に気づいたとき、僕は、この感情が何なのか理解した。
 そう、これはまぎれもなく、前の僕への――玲央への、嫉妬だった。
 微笑みでなくてもいいから、最後に、僕だけに向けた表情が欲しかった。
 だから、僕は彼女が口に出す前に、その言葉を口に出した。
「――愛してる」
 彼女は驚愕の表情を浮かべ――そして、あろうことか、最高に幸せそうに、微笑んだのだった。
 目を見張る僕の肩に両手を置き、いとおしそうな柔らかい声で、告げる。
「私もよ」
「は――」
 そして、彼女は僕に顔を近づけ、戸惑いなく口づけをした。
 空は相変わらずどんよりと曇っている。細かい粉雪が、彼女と僕を白く染め上げる。
 純白のヴェールとウエディングドレスを着た彼女と、僕は誓いのキスをした。
 これは、彼女と僕の、心中だった。

*****

 短い間に見た世界は、柔らかい幸福に満ちていた。
 自分はそのぬるま湯のような世界にずっと浸っていたかったが、終わりが来ることも知っていた。
 それが怖くて怖くて仕方がなかった。
 あいつはその気持ちを揺さぶってきたが、結果的にそれがこの結果につながったのだから、皮肉なものである。
 彼女たちと過ごした時間は、自分にとって、何にも代えられない宝物だった。
 自分の人生は、それに包まれていた。
 幸福だった。

 それと、最後に、あいつについて語ろうか。
 あいつは初対面で首を絞めてくるし、やたら言動はチャラいし、なんか雰囲気が重苦しいし、自己肯定感低いし……。
 僕が大っ嫌いな奴だ。
 最後に思いっきり殴りたい。
 でも、でも、彼女たちを救ってくれたのには、感謝している。それは、僕にはきっとできないことだから。
 これを読んでいるのが遥さんや、來さんなら……あいつのこと、気にかけてやってくれ。
 あいつはきっと、すぐ自分なんかいらない、彼女たちもそのほうがいいーとかいって、いなくなってしまう。
 ……これを読んでいるのがお前なら、前の文は忘れろ。全部嘘だ。

 なあ、神代 玲央。僕は、お前のことがものっすっごく大っ嫌いだ。
 あふれる思いを抑えられないから、ここに、お前について思うすべてのことを書くな。

 僕はお前が大っ嫌いだ本当に嫌いだお前も僕のことが嫌いだろうが両想いなんて反吐が出そうだから一瞬好きになってもいいなとか思うほど嫌いだお前の片思いにしてやろうと思うほど嫌いだバカめ。でも好きになんてなりたくないよお前なんか。
 なんでお前なんかが遥さんみたいな優しい人に愛されたの? 僕だったらお前なんかお茶に誘われたとたんに地面に埋めるね! 女装してやるから感謝しろ!
 お前分裂できないか? 片方に僕の人格が入ってやるよ。それで嫌がらせしてやるから。な、いいだろ。
 同じ時空に同時に存在できないのが悔やまれるよ、ほんとに。
 あとお前さあ、厨二病か? あの黒いノートの懺悔とか読んでて恥ずかしくなるくらいだったぞ。やばい。
 お前は本気なんだろうがあれはマジでやばい。
 だから來さんに渡しておいたよ、感謝してね。
要約すると、僕はお前のことがめっちゃ、ありえないくらい、世界一、宇宙一嫌いだ。


 ああ、でも、なあ。
お前しか二人のことは救えないんだろう、ってことがわかってしまうから、悔しい。
なあ、僕が消えた後、二人を頼んだよ。
お前は自分の事必要のない人間だとか思ってるかもしれないけど、彼女たちにとってお前は大事な人間だ。
だから、逃げるな。
ずっと一緒にいて、彼女たちを幸せにしてやってくれ。
それから、お前は自分の事あのノートの中で醜い人間だとか汚い人間だとかいってたけど、あれ間違いだよ。
お前は優しい人間だ。まあ、そこだけ見れば、遥さんと恋人なのもぎりぎりうなずけるくらい。
なあ、神代玲央。
お前と遥さんは心中をしたけどさ、実は、心中には他の意味があるんだよ。
相手に真心を尽くすこと、相手に変わらない愛情を示すこと。
あと、心の中なんてものもあるな。
だからさ、お前、遥さんを心中なんかに誘った罪滅ぼしに、そっちの心中もしてやれよ。
ちょっとずつでいいからさ、お前のその本当の自分を、彼女たちに見せてやってくれ。そっちのほうがきっと、お前も彼女たちも幸せだよ。
変化しないものはない。いろは歌もそういってる。

お前はあの時両想いって言ったよな。僕も、お前のことは本当に嫌いだけど、少しだけ、ちょっとだけなら、好きって言ってもいいかなって思えたんだよ。だから、お前の片思いだ。残念だったな。
僕も、もっとお前と話したかった。
 遥さんと來さん、あとついでに玲央に、世界一の幸福が訪れますように。

 最後のページまで読み終わって、俺は白いノートを眺めた。
 無駄にきれいな字で書かれた文章は、遥と來への愛と、あと俺への憎しみのことばで埋まっていた。
 あいつ、最初はおどおどした敬語野郎だったくせに、生意気だ。いつの間にあんな反抗的になったんだ。
 だが、俺がいなかった時の遥と來の様子は気になっていたので、文句は付けられない。
 こんこん、とノックが聞こえたので「はーい」と返事をすると、ドアが開けられた。
 遥だった。
「玲央」
 遥はドアノブを握ったまま、無表情で言った。
「ご飯できたから来てほしいそうよ」
「わかったよー」
 遥は以前より、俺に本音を見せてくれるようになった。ちゃんと、記憶も取り戻せたらしい。
 俺は、依然彼女に本音は見せられないままだった。
 どれだけ気持ちをさらけ出そうとしても、やっぱり、怖くて。
 嫌われることが、軽蔑されることが。
 だから、本当の自分をさらけ出せたのは、まだ彼の前だけだった。
 釈然としないが。
 でも、少しずつ、遥にも、來にも、本音で接していこうと思っている。
 そう思えたのはこのノートと彼のおかげだと思うと、少し癪だが。
 彼女が来てといったので、ノートを閉じて向かおうとすると、裏に、「棚の上」と書かれたメモが貼ってあることに気が付いた。
 怪訝な顔で棚の上に目線を向けると、俺はああ、と納得した。
「どうしたの?」
 首をかしげる彼女に、俺は棚の上を見たまま答えた。
「いや、本当に玲央は俺のことが嫌いだったんだなあって思ってね」
「え……?」
 俺に倣って棚の上を見た彼女は、堂々と飾ってあるそれを見て、「ああ」と声を漏らした。
「な? 笑えるだろ?」
 俺は、ピンときた様子の彼女に、思わず笑顔を向けてしまった。
 彼女が、息をのむ音が聞こえた。
 俺も目を見張り、口元を抑える。
 それは、初めて俺が遥に見せた、本当の笑みだった。
「ねえ――」
「――。それじゃあ、ご飯食べにいこっか、遥」
「え、あ、ああ、そうね」
戸惑う彼女の背中を押して、部屋から出す。俺も彼女に続いた。
 もしかしたら、俺が変わることは思ったよりも簡単なのかもしれない。少し決心したら、変化していくものなのかもしれない。
 まだ恐怖は残っているが、彼の言葉を信じてみよう。
 遥と來と、心中していこう。
 ドアを閉めようとして立ち止まり、部屋の中を見回す。
ああ、なんだ。よく見るとこんなにも、彼の残滓が残っているじゃないか。
配置の微妙な家具に、手入れの行き届いてないこけしや花札。それに、机に置かれたノート。
「なあ、玲央、やっぱり、両思いだったよ」
 俺はそれらを温かいまなざしで眺めて、ばたん、とドアを閉じた。

 棚の上には、百円ショップの安っぽいこけしが、堂々と飾られてあった。

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