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貴女と心中
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次の日、昼ご飯の後ぐらいに、來さんは訪ねてきた。
大きなリュックを背負っており、息切れしている。「どうしたんですか?」と焦りながら聞くと、彼女は肩で息をしながら答えた。
「いや。記憶を取り戻すためには、前の兄さんと遥姉がやってたことをやってもらえばいいかなって……。やってる最中に、何か思い出すかもしれないでしょう?」
「あら、それは名案ね。なかなかやるじゃない、貴方の妹」
「まだまだ、実感はわいてませんけどね……」
來さんはリュックを僕のベッドの上に置き、中から様々なものを取り出した。そして、ベッドの横にある机に乗せる。
手際よく取り出していく彼女に、遥さんは「すごく有能……」とつぶやいていた。
そして僕は、机に置かれたもののほうに驚いていた。
様々な模様が描かれた大量のこけしに、それから竹とんぼ、花札、百人一首……。それと、様々な衣装をまとった美少女フィギュア!
統一性のない謎のラインナップに、僕は驚いた。來さんは、玲央さんと遥さんがやっていたこと、とか言ってたけど、もしかして、これって彼らの所持物なのだろうか。
大量こけしや竹とんぼなどは、遥さん? そしていろいろな美少女フィギュアは玲央さんの? 三次元にも二次元にも手を出してるなんて、なんて恐ろしいやつなんだ、神代 玲央。
前の僕への恐怖におびえていたら、來さんが美少女フィギュアとこけしを手に取り、僕らに押し付けた。
そう、こけしを僕に、美少女フィギュアを遥さんに。
「そっち!?」
「……? 何か変なことがあるの、兄さん?」
「ん、あー、うん……。まあ、別に変でもないか。なんでもないです」
「そ。じゃ、いいや」
そして、來さんはこぶしを握り締め、期待のこもったまなざしで僕たちを見た。
「どう!? 何か思い出した!?」
「いやそんなこと言われても……。とゆーか、玲央さんの趣味ってこけし集めだったんですか!?」
「そだよー。家にこけしがあふれて大変だったんだよ? こけし高いしさー。それに、百円ショップのこけしは邪道だ、とかいうしー。せっかく百円で済むのに。他にも、日本の遊び道具とか好きだったな。ほら、そこの花札とか」
指さしたほうを見て納得する。確かに、なんかお高そうな花札だ。それにこけしも、なかなか年季が入っている。どう考えてもそこらへんで買いました! って感じじゃない。
多分、玲央さんはこだわりとかを持っていたのだろう。
脳内玲央さんのイメージがどんどん変わっていく。今まで女の子に見境がないクズなチャラ男だったのが、ちょっと頭が良さそうな感じになった。
いや、僕の姿=彼の姿ではあるのだが。
何とも言えない気持ちでこけしを見つめる僕を放り出し、來さんは遥さんに意気揚々と問いかけた。
「さ! 遥姉はなんかわかった!?」
「いやいや、記憶喪失ですよ? そんな、簡単に思い出すわけ……」
「な、なにか……浮かび上がってくる……っ!」
「はあっ!?」
遥さんは額を抑え、美少女フィギュアを丁寧に掌に載せてうなった。
そんな遥さんを、來さんがワクワクしたまなざしで見ている。
美少女フィギュアを持ちながらうなる長髪の少女と、それを見つめる短髪の少女。
……。なんというか、シュールだ。
しばらくうなり、遥さんは、カッと目を開けた。
「はっ! この光景は……。なんという美少女たち……。これは、これは……楽園よ! ああああああこの子はっ! この子がこの、フィギュアの子ねっ! かわいいっ! 素晴らしいわっ!」
「そうそうそうそうその感じ! そのなんか、熱量ある感じ! 割と遥姉に近いよっ!」
「君は遥さんが思い出した光景が美少女だということに疑問は持たないのか!?」
こけしを握り締めてそう叫ぶと、來さんははっとした顔で振り向いた。
「……君? それに、敬語も取れてる……」
「はっ! え、いや、ごめんなさい。なんか、口をついてでてきて、思わず言っちゃいました」
「いや、いいよいいよ。兄さんもそんな感じだった。こけしパワー、強い……」
「なんですかこけしパワーって!」
もう一度叫ぶと、彼女は残念そうに眉を下げた。
「ううん、つっこませればもっと兄さんみが引き出せると思ったんだけど、無理っぽい」
「あ、ごめんなさい……」
「だいじょぶだいじょぶー。いろいろもっと試行錯誤してみよ。絶対記憶取り戻せるって!」
「……はい」
僕はうつむいて、ちょっとだけ微笑んだ。
來さんが嬉しそうにしているのが、なぜかとても、幸福に思えた。
それから、僕たちはいろいろなことを試した。
こけしの種類を調べてみたり、前の遥さんが好きだった魔法少女のアニメの上映会をしたり。花札のルールを調べて三人で戦ったり。ちなみに僕が全勝した。記憶はないが、前の僕がやっていたことが、脳のどこかに残っているようだった。
そして、前の僕たちの話を聞いた。
神代 玲央はひどいチャラ男だったらしい。いろんな女性と付き合っては分かれ、常に女の子とともにいた。性格は軽薄で、言葉は薄っぺらく、常に嘘をついているように、來さんには感じられていたようだ。
「でも、兄さんは優しい人だった。私のことも、ちゃんと認識して、救ってくれた」
そう、優しいまなざしで、來さんは語った。
永城 遥は思いやりにあふれた人間だったらしい。文武両道、才色兼備、なにをやっても完璧。そんな人だったそうだ。
いつも優しく、來さんが落ち込んでいたら気にかけ、相談したら真摯に答えてくれたらしい。
「でも、ふとした時に暗い目をするの。表情が抜け落ちて、人形みたいに、茫然としてるの」
來さんは唇に手を当て、懐かしむように言った。
そんな、正反対の二人は、來さんの紹介によってであった。いや、普通の人間のように見えて、どこかかけた、そんなところは、似た者同士だったのかもしれない。
來さんと遥さんは先輩後輩の中で、來さんが家に呼んだときが、二人の初対面だった。
二人は最初、あまり仲が良くなくて、気まずそうだったという。
でも、いつの間にか二人はよくあうようになって、來さんが気づいた時には、付き合っていたらしい。
お互いに出会って、二人は変わった。遊んでばかりいた玲央さんは遥さん一筋になり、遥さんは以前より幸せそうに笑うことが増えた。
「……本当に、二人はお似合いで、幸福そうで、私もうれしかった。……それが、まさか心中なんて……。私、気づいてたんだ。兄さんが悩んでたこと。でも、なにも、できなかったの……」
悲しそうに、寂しそうに目を伏せて、來さんは懺悔するように語った。
そんな彼女の様子を見て遥さんは、
「……。気にすることないわ。人の心なんて、止められるほうがまれだもの」
と、目を細めていった。冷たい声ではあったが、その言葉には、やはり思いやりが込められているような気がした。
その言葉を聞いても、來さんは暗い表情のままだった。
辛そうな來さんをこれ以上見たくなくて、僕は無理やり笑顔を作った。
「じゃあ、記憶を失う前の僕たちの演技でもしてみますか? なにか、思い出すかもしれませんよ?」
「……そうね。やってみましょうか。來。遥姉とやらは、優しい人間だったそうね」
「うん、そうだよ」
「……じゃあ、こんな感じかしら」
栗色の髪を手で払い、遥さんは顔を伏せた。
手で口のあたりを触り、きゅっと上げる。
顔を上げた遥さんは先ほどまでの彼女からはは想像できない、おだやかな優しい笑みを浮かべていた。
そのまま、明るい声で言い放つ。
「愛してるわ、玲央」
「……なんでその台詞にしたんですか」
思わず突っ込むと、彼女の顔から表情が抜け落ちた。その顔のまま、冷たい声でつぶやく。
「気にしないでくれるかしら。思いつかなかったのよ」
「わあ怖いからそれやめてください」
「……」
「ここぞとばかりにオンオフ繰り返さないでください! 近づいて来ないでください怖いです!」
「そう! それだよ!」
一人の男が、笑顔と無表情を繰り返す美少女に詰め寄られているカオスな状況の病室に、來さんが叫ぶ音が響く。
だいぶ長いタイムラグの後に、僕たちは「は?」とそろって首を傾げた。
ほおを紅潮させ、興奮した様子で来さんはこぶしを握り締める。
「それだよそれ! その穏やかな感じ! うまいね遥姉!」
「……そうかしら」
「そうだよ! さあ! さあ! 兄さんもやってみよう!」
「うーん、あんまり自信がないから……がっかりしないでくださいね?」
苦い笑みを浮かべると、來さんは鼻息を荒くして顔を近づけてきた。
「大丈夫大丈夫! その慣れてない感じも、兄さん検定一級の私なら楽しめるからっ!」
「なんだそれは!」
「そ、そうだよその感じ! 近いよ!」
「まだ演技してませんけど!?」
異様に近い來さんの顔を押しのけて、僕は額を抑えた。来さんは玲央さんのことが好きすぎないか。いくら兄妹でも、ここまで仲がいいってことはあるのだろうか?
うーん、兄妹がいる記憶がないからよくわからない。
來さんに聞いても参考にならなさそうなので、その疑問はいったん放置して、僕は目を閉じた。
思い浮かべるのは、神代 玲央の顔。いや、まあ僕の顔なんだが。その妙にチャラい腹立つ顔を一発殴りたくなりながら、僕は最高にうざくウインクをした。
「遥、愛してるよっ!」
「……やっぱり、貴方もそういうんじゃない」
「思ったより思いつかなくて……」
「……ねえ、兄さん」
地を這うような低い声に、僕と遥さんはびくっと身を震わせた。
そして、がががが……と音を立てそうなくらいぎこちない動きで同時に來さんの顔を見る。
來さんは顔を伏せていて、表情は分からなかった。
もしかして怒らせてしまったのだろうか。さっき兄さん検定……? とかの一級だって言っていたし、なってない玲央さんの演技は許せないものだったのだろう。遥さんは完璧に演技をこなして見せたのに……。僕はできなかった。
せっかく來さんが詳しく話してくれたのに、僕は期待にこたえられなかった……。
落ち込んだ顔をしていると、遥さんが心配して声をかけてくれた。
「ねえ、もしかしなくても落ち込んでるわよね?」
「はい……。僕なんかもう失敗作のゴミです……。分別して捨ててください……」
「変な落ち込みかたしないで! それに、それは無用な心配よ。前を見てみなさい」
「……はい?」
僕は顔を上げ、彼女が指し示したほうを見た。
そこには、來さんがいた。いや、それはいいのだが。
――気持ち悪いくらいのピカピカの笑顔を浮かべた、來さんがいた。
「兄さん!」
「うわああなんですか!」
「かんっぺきだよ! 面影あるよ面影! マジ兄さん兄さん兄さん」
「わっ、すっげえや。まったくいみがわかんねえ――、っ!?」
その瞬間、僕の頭に衝撃が走った。記憶が浮かび上がり、高速で脳裏をよぎっていく。
月が、池に反射して、浮かび上がっている。光を受けて輝く黒髪、それに、流れる涙――。
凛とした涙声が、空気を震わす。
『ねえ、私の事、ずっと、覚えていてくれる――?』
『ああ、覚えてるよ。君のことは、絶対に忘れない』
暗転。
『お前は最高傑作だ! 神代家の後を継ぐのにふさわしい!』
広い部屋の中で、白髪の生えた大きな男性が、手を広げ、嬉しそうに叫んでいる。
『これなら、あの永城家も――』
暗転。
栗色の長髪を揺らした少女が、おだやかな微笑みを浮かべている。その横には、みどりいろの黒髪を短く切った少女が、人懐っこい笑顔で立っていた。
『よろしくお願いします、玲央さん』
嘘っぽい笑顔を浮かべるこの少女のことが、妙に、気に入らなかった。
――暗転。
断片的な情景が頭をよぎっては暗くなり、また記憶の再生が始まる。
濁流のように押し寄せてくる情報。それから目をそらすこともできず、ただ、神代 玲央の記憶を見続ける。
――肌を、冷たい風が撫でていく。
雪の降る屋上で、いつもと変わらない街並みを眺めている。
『ねえ、玲央』
栗色の髪が、揺れている。
つないだ手が離れないように、互いの手を強く握りしめ、見つめあう。
そして、彼女は、目を細め――。
『――愛してるわ』
「――あ」
気が付くと、僕はベッドの上で寝ていた。汗で病衣が肌に張り付き、気持ち悪い。上体を起こすと、少し体に痛みが走る。
白いベッドの周りでは純白のカーテンがふわりふわりと揺れている。
「――っ」
僕はうつむき、頭を抱えた。動かすと、ずきずきとした頭痛がする。
涙目になりながら立ち上がり、揺れるカーテンを開いた。
カーテンの向こうでは、栗色の長髪の少女――。遥さんが、冷たい顔をしてベッドに座っていた。
彼女は僕を見ようともせず、興味のなさそうな瞳で告げる。
「……來、帰ったわよ。頭痛は平気?」
「……あ。はい」
「――そう」
適当に相槌をうち、彼女は僕に何かを差し出した。
肌色の、顔が書かれた細長い物体――。
こけしだった。
「って、なんでですか……」
「來が置いていったの。貴方にって。……美少女フィギュアもあるわ。とてもかわいい、記憶を失う前の私の激選コレクションよ。見る?」
「み、見ませんよっ! ……もう、こんな時に、そんな……」
「……もっとあるわよ」
遥さんは無表情のまま、足元に置かれた段ボールのふたを開け、何かを取り出した。
彼女が両手に持ったのは、穏やかに笑っているこけしだった。
「なんっですか! それ!」
「まだ、まだまだ」
「ぎゃあああああっ」
遥さんはわんこそばをつぐ人みたいに、段ボールの中からこけしを取り出しては、僕の手にのせていった。というか、段ボールの大きさとこけしの量が見合っていない。
どんどん積みあげられていくこけしを奇跡のバランスで支えながら、僕は思わず叫んだ。
「もうやめてくださいよっ! こけしがかわいそうですっ!」
とたん、こけしを僕の手に載せる作業に没頭していた遥さんの動きが止まる。
そして、意外そうな顔でつぶやいた。
「……驚いた。意外と元気なのね」
「……はあー?」
僕はこけしを段ボールの中に直し、腰に手を当てて仁王立ちをした。
そして、悪びれない態度で座る彼女に、指を突き付ける。
「意外と元気って何ですか! こっちは目覚めた途端こけし乗せられて大変だったんですよ! もう! 反省してください!」
「――」
勢いに任せ叫ぶだけ叫び、僕はそっぽを向いた。
遥さんがいつもと同じ冷たい視線で僕を見ている。でも、僕は断固として許したりしないつもりだった。神代 玲央のものだとしても、こけしをあんな扱いするなんて。もう少しで落としていたところだった。物は大事に扱わないといけないのに。
横を向いたまましばらく黙っていると、小さい笑い声が聞こえてきた。
遥さんだった。
僕は顔を赤くして、うつむいた彼女に震える声で言った。
「な、何笑ってるんですか!」
「いえ」
そして、彼女は顔を上げた。
その口元は、綺麗な微笑の形をとっていた。
「……元気そうで安心したわ」
「は、はあ!?」
「こけしを乗せてしまってごめんなさい。今の貴方はこけしはあまり好きじゃないのね」
「え」
「じゃあ、私はもう寝るわ」
そういって、遥さんはベッドの中に入った。僕もようやく、窓の外が暗くなっていることに気づく。
そろそろ、寝たほうがいいかもしれない。
僕もベッドの中に入った。だが、さっきまでずっと寝ていたためか、眠ることが出来ない。
――それにしても、遥さんは何であんな謎行動をしたんだろう。こけしを掌に載せ続けるなんて……。いまどき、狂人でもやらないぞ。
遥さんの行動に頭をひねっていると、ふと、頭に先ほどの彼女の言葉がよぎった。
『今の貴方はこけしはあまり好きじゃないのね』
……あれって、どういう意味だったのだろうか。
また、彼女の行動を思い出す。こけしを段ボールから取り出し、僕の手にのせたこと、それから、怒った僕を見て、「元気そうで安心した」と微笑んだこと。
――もしかして、記憶を失う前の僕がこけしを好きだったから、僕にこけしを差し出して、元気づけようとしてくれたのだろうか。
あの微笑を思い出し、胸が痛くなる。
彼女は元気づけようとしてくれたのに、僕は怒ってしまった。
暖かいベッドに寝そべりながら後悔していると、落ち着いた、冷たい声が聞こえた。
「――ねえ、玲央」
「は、はい!」
遥さんは、静かな声でつぶやいた。
「明日は、また、來が来るから……ゆっくり、寝ておいたほうがいいわ。眠れないなら、ホットミルクを飲んでみたり、ちょっとした運動をしたりするのもおすすめよ」
「あ、ありがとうございます……。……さっきは、怒鳴ってしまってすみません」
「……いえ、いいわ。確認も取らずにこけしを押し付けてしまった私が悪いもの。それに、貴方全然怖くなかったし……。なんというのかしら。迫力がないわ」
「ひどい……。でも、ありがとうございました」
一瞬間があいて、彼女が答える。先ほどと変わらない、冷たい声だった。
「……なにがかしら?」
「……。あの大量のこけし、渡してきたのって、僕を元気づけてくれていたんでしょう?」
「――。ちがうわ」
「え、そうだったんですか? でも、なら、なんで僕に元気そうで、安心した……なんてこと?」
彼女は、またしばらく黙った。何かを考えているようだった。僕は、何も言わず、また遥さんが話し出すのを、ただじっと待っていた。
きっと、彼女は僕の問いの答えを、探してくれている。多分、彼女は、自分でもあの行動の意味を理解できていないのだろう。でも、答えを探してくれるだけで、それだけで、僕は嬉しかった。
……そして、彼女はためらいがちに、口を開いた。
「あれは……ただ」
「ただ?」
「ただ。……貴方が、苦しそうだったから」
「……苦し、そう、ですか」
彼女は迷いながら、とぎれとぎれに言葉を紡いだ。
「ええ、そう……。貴方、夢を、見ていたでしょう?」
「……っ」
遥さんの言葉に、僕はびくっと身を震わせた。脳裏に、あの暗転と記憶が延々と繰り返される世界のことがよみがえった。
いうなれば、あれは目をそらすことのできない映画、だ。醜いシーンも、悲しいシーンも、恐怖のシーンも、絶望のシーンも、すべてをまっすぐに見なくてはいけない。どれだけつらくても、映画は止まってくれない。
神代 玲央の人生は、終わらない。
荒くなった息を抑えながら、僕はなんて事のないように尋ねた。
「それで……っ。それが、何につながるんですか?」
「……あの時、貴方はすごく、辛そうだった。冷や汗をかいていて、息は荒くて、それで、「もうやめて、ゆるして……」って、つぶやいてるの」
「……っ」
「……だから、だからよ……。すこし、心配になってしまったの。……それだけ」
「はは、やっぱり、元気づけて、くれてたんじゃないですか……」
「……。わから、ないわ」
無感情だった彼女の言葉に、疑問の感情が広がっていく。そのまま、彼女はダムが決壊したように、流れだした感情のままに語った。
「なにも、わからない。どうして、貴方の事なんか気にかけてしまうのか。どうして、どうしてかしら。前の私のことが関係しているの? それとも、私はあなたに一目ぼれでもしてしまったのかしら?」
彼女は、そういって嘲笑をした。それは、自分の事を嘲る、悲しい笑みだった。
彼女には、きっと、わからないのだろう。なぜ、僕なんか気にかけるのか。
でも、僕は知っている。自信をもって、こたえられる。
それは、この二日間、彼女の心根に、ふれてしまったから。
いつの間にか、荒かった息は落ち着いていた。僕はゆっくりと息を吸い、堂々とした声で言う。
「その答えなら、僕分かりますよ」
「……なん、なの?」
遥さんは、懇願するようにそう聞いた。
僕は目を伏せ、こたえた。
「それは、遥さんが、優しい人だからですよ」
遥さんが、息をのんだのがわかった。
そして、信じられないといった声でつぶやく。
「……そんなはず、ないわ。だって、私の心は動かない。貴方が苦しんでいるのを見たときも、なんとも思わなかった。頭の中なかでは、心が痛むのが普通だってわかってるのに、何も感じないの。氷みたいに、冷たいままなのよ……」
「――貴女の抱える悩みは、僕にはきっと、とうていわからないでしょう。でも、優しいって、人からの評価だと思うんです。だから、僕が優しいなと思った遥さんは、きっと、優しい人ですよ」
「……。そう、かしら」
「はい。きっと、そうですよ」
「――ありがとう」
そう言って、彼女は笑った。顔は見えないけど、今度はきっと自分を嘲る笑みじゃない。
少しでも遥さんが笑ってくれるのなら、たったそれだけで僕は、とても幸せだった。
「ねえ、遥さん」
「何?」
言葉を返す彼女の声は晴れやかだった。その彼女に、僕は、不安そうな口調で切り出す。
「記憶が戻ったら、僕たちってどうなるんでしょう?」
「さあ? 元の人格と合体するんじゃない?」
彼女は何気ない口調で、まだ楽なほうの選択肢を上げてくれるが、それでも僕の不安は増すばかりだった。
「もし、もしですよ。消えてしまったらどうしましょう」
「……。もし、の話でしょう。今考えることではないわ。さあ、寝ましょう。ゆっくり、休みましょう。――おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
それから、数秒後に彼女の寝息が聞こえてきた。相変わらず寝るのが早い。
……僕ももう寝ることにしよう。
彼女の言う通り、もし、なんて考えたら際限がない。考えるだけ無駄だ。
さあ、早く寝よう。
先ほどまでは寝れなかったのに、こんどは、なぜかすっと眠ることが出来た。
大きなリュックを背負っており、息切れしている。「どうしたんですか?」と焦りながら聞くと、彼女は肩で息をしながら答えた。
「いや。記憶を取り戻すためには、前の兄さんと遥姉がやってたことをやってもらえばいいかなって……。やってる最中に、何か思い出すかもしれないでしょう?」
「あら、それは名案ね。なかなかやるじゃない、貴方の妹」
「まだまだ、実感はわいてませんけどね……」
來さんはリュックを僕のベッドの上に置き、中から様々なものを取り出した。そして、ベッドの横にある机に乗せる。
手際よく取り出していく彼女に、遥さんは「すごく有能……」とつぶやいていた。
そして僕は、机に置かれたもののほうに驚いていた。
様々な模様が描かれた大量のこけしに、それから竹とんぼ、花札、百人一首……。それと、様々な衣装をまとった美少女フィギュア!
統一性のない謎のラインナップに、僕は驚いた。來さんは、玲央さんと遥さんがやっていたこと、とか言ってたけど、もしかして、これって彼らの所持物なのだろうか。
大量こけしや竹とんぼなどは、遥さん? そしていろいろな美少女フィギュアは玲央さんの? 三次元にも二次元にも手を出してるなんて、なんて恐ろしいやつなんだ、神代 玲央。
前の僕への恐怖におびえていたら、來さんが美少女フィギュアとこけしを手に取り、僕らに押し付けた。
そう、こけしを僕に、美少女フィギュアを遥さんに。
「そっち!?」
「……? 何か変なことがあるの、兄さん?」
「ん、あー、うん……。まあ、別に変でもないか。なんでもないです」
「そ。じゃ、いいや」
そして、來さんはこぶしを握り締め、期待のこもったまなざしで僕たちを見た。
「どう!? 何か思い出した!?」
「いやそんなこと言われても……。とゆーか、玲央さんの趣味ってこけし集めだったんですか!?」
「そだよー。家にこけしがあふれて大変だったんだよ? こけし高いしさー。それに、百円ショップのこけしは邪道だ、とかいうしー。せっかく百円で済むのに。他にも、日本の遊び道具とか好きだったな。ほら、そこの花札とか」
指さしたほうを見て納得する。確かに、なんかお高そうな花札だ。それにこけしも、なかなか年季が入っている。どう考えてもそこらへんで買いました! って感じじゃない。
多分、玲央さんはこだわりとかを持っていたのだろう。
脳内玲央さんのイメージがどんどん変わっていく。今まで女の子に見境がないクズなチャラ男だったのが、ちょっと頭が良さそうな感じになった。
いや、僕の姿=彼の姿ではあるのだが。
何とも言えない気持ちでこけしを見つめる僕を放り出し、來さんは遥さんに意気揚々と問いかけた。
「さ! 遥姉はなんかわかった!?」
「いやいや、記憶喪失ですよ? そんな、簡単に思い出すわけ……」
「な、なにか……浮かび上がってくる……っ!」
「はあっ!?」
遥さんは額を抑え、美少女フィギュアを丁寧に掌に載せてうなった。
そんな遥さんを、來さんがワクワクしたまなざしで見ている。
美少女フィギュアを持ちながらうなる長髪の少女と、それを見つめる短髪の少女。
……。なんというか、シュールだ。
しばらくうなり、遥さんは、カッと目を開けた。
「はっ! この光景は……。なんという美少女たち……。これは、これは……楽園よ! ああああああこの子はっ! この子がこの、フィギュアの子ねっ! かわいいっ! 素晴らしいわっ!」
「そうそうそうそうその感じ! そのなんか、熱量ある感じ! 割と遥姉に近いよっ!」
「君は遥さんが思い出した光景が美少女だということに疑問は持たないのか!?」
こけしを握り締めてそう叫ぶと、來さんははっとした顔で振り向いた。
「……君? それに、敬語も取れてる……」
「はっ! え、いや、ごめんなさい。なんか、口をついてでてきて、思わず言っちゃいました」
「いや、いいよいいよ。兄さんもそんな感じだった。こけしパワー、強い……」
「なんですかこけしパワーって!」
もう一度叫ぶと、彼女は残念そうに眉を下げた。
「ううん、つっこませればもっと兄さんみが引き出せると思ったんだけど、無理っぽい」
「あ、ごめんなさい……」
「だいじょぶだいじょぶー。いろいろもっと試行錯誤してみよ。絶対記憶取り戻せるって!」
「……はい」
僕はうつむいて、ちょっとだけ微笑んだ。
來さんが嬉しそうにしているのが、なぜかとても、幸福に思えた。
それから、僕たちはいろいろなことを試した。
こけしの種類を調べてみたり、前の遥さんが好きだった魔法少女のアニメの上映会をしたり。花札のルールを調べて三人で戦ったり。ちなみに僕が全勝した。記憶はないが、前の僕がやっていたことが、脳のどこかに残っているようだった。
そして、前の僕たちの話を聞いた。
神代 玲央はひどいチャラ男だったらしい。いろんな女性と付き合っては分かれ、常に女の子とともにいた。性格は軽薄で、言葉は薄っぺらく、常に嘘をついているように、來さんには感じられていたようだ。
「でも、兄さんは優しい人だった。私のことも、ちゃんと認識して、救ってくれた」
そう、優しいまなざしで、來さんは語った。
永城 遥は思いやりにあふれた人間だったらしい。文武両道、才色兼備、なにをやっても完璧。そんな人だったそうだ。
いつも優しく、來さんが落ち込んでいたら気にかけ、相談したら真摯に答えてくれたらしい。
「でも、ふとした時に暗い目をするの。表情が抜け落ちて、人形みたいに、茫然としてるの」
來さんは唇に手を当て、懐かしむように言った。
そんな、正反対の二人は、來さんの紹介によってであった。いや、普通の人間のように見えて、どこかかけた、そんなところは、似た者同士だったのかもしれない。
來さんと遥さんは先輩後輩の中で、來さんが家に呼んだときが、二人の初対面だった。
二人は最初、あまり仲が良くなくて、気まずそうだったという。
でも、いつの間にか二人はよくあうようになって、來さんが気づいた時には、付き合っていたらしい。
お互いに出会って、二人は変わった。遊んでばかりいた玲央さんは遥さん一筋になり、遥さんは以前より幸せそうに笑うことが増えた。
「……本当に、二人はお似合いで、幸福そうで、私もうれしかった。……それが、まさか心中なんて……。私、気づいてたんだ。兄さんが悩んでたこと。でも、なにも、できなかったの……」
悲しそうに、寂しそうに目を伏せて、來さんは懺悔するように語った。
そんな彼女の様子を見て遥さんは、
「……。気にすることないわ。人の心なんて、止められるほうがまれだもの」
と、目を細めていった。冷たい声ではあったが、その言葉には、やはり思いやりが込められているような気がした。
その言葉を聞いても、來さんは暗い表情のままだった。
辛そうな來さんをこれ以上見たくなくて、僕は無理やり笑顔を作った。
「じゃあ、記憶を失う前の僕たちの演技でもしてみますか? なにか、思い出すかもしれませんよ?」
「……そうね。やってみましょうか。來。遥姉とやらは、優しい人間だったそうね」
「うん、そうだよ」
「……じゃあ、こんな感じかしら」
栗色の髪を手で払い、遥さんは顔を伏せた。
手で口のあたりを触り、きゅっと上げる。
顔を上げた遥さんは先ほどまでの彼女からはは想像できない、おだやかな優しい笑みを浮かべていた。
そのまま、明るい声で言い放つ。
「愛してるわ、玲央」
「……なんでその台詞にしたんですか」
思わず突っ込むと、彼女の顔から表情が抜け落ちた。その顔のまま、冷たい声でつぶやく。
「気にしないでくれるかしら。思いつかなかったのよ」
「わあ怖いからそれやめてください」
「……」
「ここぞとばかりにオンオフ繰り返さないでください! 近づいて来ないでください怖いです!」
「そう! それだよ!」
一人の男が、笑顔と無表情を繰り返す美少女に詰め寄られているカオスな状況の病室に、來さんが叫ぶ音が響く。
だいぶ長いタイムラグの後に、僕たちは「は?」とそろって首を傾げた。
ほおを紅潮させ、興奮した様子で来さんはこぶしを握り締める。
「それだよそれ! その穏やかな感じ! うまいね遥姉!」
「……そうかしら」
「そうだよ! さあ! さあ! 兄さんもやってみよう!」
「うーん、あんまり自信がないから……がっかりしないでくださいね?」
苦い笑みを浮かべると、來さんは鼻息を荒くして顔を近づけてきた。
「大丈夫大丈夫! その慣れてない感じも、兄さん検定一級の私なら楽しめるからっ!」
「なんだそれは!」
「そ、そうだよその感じ! 近いよ!」
「まだ演技してませんけど!?」
異様に近い來さんの顔を押しのけて、僕は額を抑えた。来さんは玲央さんのことが好きすぎないか。いくら兄妹でも、ここまで仲がいいってことはあるのだろうか?
うーん、兄妹がいる記憶がないからよくわからない。
來さんに聞いても参考にならなさそうなので、その疑問はいったん放置して、僕は目を閉じた。
思い浮かべるのは、神代 玲央の顔。いや、まあ僕の顔なんだが。その妙にチャラい腹立つ顔を一発殴りたくなりながら、僕は最高にうざくウインクをした。
「遥、愛してるよっ!」
「……やっぱり、貴方もそういうんじゃない」
「思ったより思いつかなくて……」
「……ねえ、兄さん」
地を這うような低い声に、僕と遥さんはびくっと身を震わせた。
そして、がががが……と音を立てそうなくらいぎこちない動きで同時に來さんの顔を見る。
來さんは顔を伏せていて、表情は分からなかった。
もしかして怒らせてしまったのだろうか。さっき兄さん検定……? とかの一級だって言っていたし、なってない玲央さんの演技は許せないものだったのだろう。遥さんは完璧に演技をこなして見せたのに……。僕はできなかった。
せっかく來さんが詳しく話してくれたのに、僕は期待にこたえられなかった……。
落ち込んだ顔をしていると、遥さんが心配して声をかけてくれた。
「ねえ、もしかしなくても落ち込んでるわよね?」
「はい……。僕なんかもう失敗作のゴミです……。分別して捨ててください……」
「変な落ち込みかたしないで! それに、それは無用な心配よ。前を見てみなさい」
「……はい?」
僕は顔を上げ、彼女が指し示したほうを見た。
そこには、來さんがいた。いや、それはいいのだが。
――気持ち悪いくらいのピカピカの笑顔を浮かべた、來さんがいた。
「兄さん!」
「うわああなんですか!」
「かんっぺきだよ! 面影あるよ面影! マジ兄さん兄さん兄さん」
「わっ、すっげえや。まったくいみがわかんねえ――、っ!?」
その瞬間、僕の頭に衝撃が走った。記憶が浮かび上がり、高速で脳裏をよぎっていく。
月が、池に反射して、浮かび上がっている。光を受けて輝く黒髪、それに、流れる涙――。
凛とした涙声が、空気を震わす。
『ねえ、私の事、ずっと、覚えていてくれる――?』
『ああ、覚えてるよ。君のことは、絶対に忘れない』
暗転。
『お前は最高傑作だ! 神代家の後を継ぐのにふさわしい!』
広い部屋の中で、白髪の生えた大きな男性が、手を広げ、嬉しそうに叫んでいる。
『これなら、あの永城家も――』
暗転。
栗色の長髪を揺らした少女が、おだやかな微笑みを浮かべている。その横には、みどりいろの黒髪を短く切った少女が、人懐っこい笑顔で立っていた。
『よろしくお願いします、玲央さん』
嘘っぽい笑顔を浮かべるこの少女のことが、妙に、気に入らなかった。
――暗転。
断片的な情景が頭をよぎっては暗くなり、また記憶の再生が始まる。
濁流のように押し寄せてくる情報。それから目をそらすこともできず、ただ、神代 玲央の記憶を見続ける。
――肌を、冷たい風が撫でていく。
雪の降る屋上で、いつもと変わらない街並みを眺めている。
『ねえ、玲央』
栗色の髪が、揺れている。
つないだ手が離れないように、互いの手を強く握りしめ、見つめあう。
そして、彼女は、目を細め――。
『――愛してるわ』
「――あ」
気が付くと、僕はベッドの上で寝ていた。汗で病衣が肌に張り付き、気持ち悪い。上体を起こすと、少し体に痛みが走る。
白いベッドの周りでは純白のカーテンがふわりふわりと揺れている。
「――っ」
僕はうつむき、頭を抱えた。動かすと、ずきずきとした頭痛がする。
涙目になりながら立ち上がり、揺れるカーテンを開いた。
カーテンの向こうでは、栗色の長髪の少女――。遥さんが、冷たい顔をしてベッドに座っていた。
彼女は僕を見ようともせず、興味のなさそうな瞳で告げる。
「……來、帰ったわよ。頭痛は平気?」
「……あ。はい」
「――そう」
適当に相槌をうち、彼女は僕に何かを差し出した。
肌色の、顔が書かれた細長い物体――。
こけしだった。
「って、なんでですか……」
「來が置いていったの。貴方にって。……美少女フィギュアもあるわ。とてもかわいい、記憶を失う前の私の激選コレクションよ。見る?」
「み、見ませんよっ! ……もう、こんな時に、そんな……」
「……もっとあるわよ」
遥さんは無表情のまま、足元に置かれた段ボールのふたを開け、何かを取り出した。
彼女が両手に持ったのは、穏やかに笑っているこけしだった。
「なんっですか! それ!」
「まだ、まだまだ」
「ぎゃあああああっ」
遥さんはわんこそばをつぐ人みたいに、段ボールの中からこけしを取り出しては、僕の手にのせていった。というか、段ボールの大きさとこけしの量が見合っていない。
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「もうやめてくださいよっ! こけしがかわいそうですっ!」
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そして、意外そうな顔でつぶやいた。
「……驚いた。意外と元気なのね」
「……はあー?」
僕はこけしを段ボールの中に直し、腰に手を当てて仁王立ちをした。
そして、悪びれない態度で座る彼女に、指を突き付ける。
「意外と元気って何ですか! こっちは目覚めた途端こけし乗せられて大変だったんですよ! もう! 反省してください!」
「――」
勢いに任せ叫ぶだけ叫び、僕はそっぽを向いた。
遥さんがいつもと同じ冷たい視線で僕を見ている。でも、僕は断固として許したりしないつもりだった。神代 玲央のものだとしても、こけしをあんな扱いするなんて。もう少しで落としていたところだった。物は大事に扱わないといけないのに。
横を向いたまましばらく黙っていると、小さい笑い声が聞こえてきた。
遥さんだった。
僕は顔を赤くして、うつむいた彼女に震える声で言った。
「な、何笑ってるんですか!」
「いえ」
そして、彼女は顔を上げた。
その口元は、綺麗な微笑の形をとっていた。
「……元気そうで安心したわ」
「は、はあ!?」
「こけしを乗せてしまってごめんなさい。今の貴方はこけしはあまり好きじゃないのね」
「え」
「じゃあ、私はもう寝るわ」
そういって、遥さんはベッドの中に入った。僕もようやく、窓の外が暗くなっていることに気づく。
そろそろ、寝たほうがいいかもしれない。
僕もベッドの中に入った。だが、さっきまでずっと寝ていたためか、眠ることが出来ない。
――それにしても、遥さんは何であんな謎行動をしたんだろう。こけしを掌に載せ続けるなんて……。いまどき、狂人でもやらないぞ。
遥さんの行動に頭をひねっていると、ふと、頭に先ほどの彼女の言葉がよぎった。
『今の貴方はこけしはあまり好きじゃないのね』
……あれって、どういう意味だったのだろうか。
また、彼女の行動を思い出す。こけしを段ボールから取り出し、僕の手にのせたこと、それから、怒った僕を見て、「元気そうで安心した」と微笑んだこと。
――もしかして、記憶を失う前の僕がこけしを好きだったから、僕にこけしを差し出して、元気づけようとしてくれたのだろうか。
あの微笑を思い出し、胸が痛くなる。
彼女は元気づけようとしてくれたのに、僕は怒ってしまった。
暖かいベッドに寝そべりながら後悔していると、落ち着いた、冷たい声が聞こえた。
「――ねえ、玲央」
「は、はい!」
遥さんは、静かな声でつぶやいた。
「明日は、また、來が来るから……ゆっくり、寝ておいたほうがいいわ。眠れないなら、ホットミルクを飲んでみたり、ちょっとした運動をしたりするのもおすすめよ」
「あ、ありがとうございます……。……さっきは、怒鳴ってしまってすみません」
「……いえ、いいわ。確認も取らずにこけしを押し付けてしまった私が悪いもの。それに、貴方全然怖くなかったし……。なんというのかしら。迫力がないわ」
「ひどい……。でも、ありがとうございました」
一瞬間があいて、彼女が答える。先ほどと変わらない、冷たい声だった。
「……なにがかしら?」
「……。あの大量のこけし、渡してきたのって、僕を元気づけてくれていたんでしょう?」
「――。ちがうわ」
「え、そうだったんですか? でも、なら、なんで僕に元気そうで、安心した……なんてこと?」
彼女は、またしばらく黙った。何かを考えているようだった。僕は、何も言わず、また遥さんが話し出すのを、ただじっと待っていた。
きっと、彼女は僕の問いの答えを、探してくれている。多分、彼女は、自分でもあの行動の意味を理解できていないのだろう。でも、答えを探してくれるだけで、それだけで、僕は嬉しかった。
……そして、彼女はためらいがちに、口を開いた。
「あれは……ただ」
「ただ?」
「ただ。……貴方が、苦しそうだったから」
「……苦し、そう、ですか」
彼女は迷いながら、とぎれとぎれに言葉を紡いだ。
「ええ、そう……。貴方、夢を、見ていたでしょう?」
「……っ」
遥さんの言葉に、僕はびくっと身を震わせた。脳裏に、あの暗転と記憶が延々と繰り返される世界のことがよみがえった。
いうなれば、あれは目をそらすことのできない映画、だ。醜いシーンも、悲しいシーンも、恐怖のシーンも、絶望のシーンも、すべてをまっすぐに見なくてはいけない。どれだけつらくても、映画は止まってくれない。
神代 玲央の人生は、終わらない。
荒くなった息を抑えながら、僕はなんて事のないように尋ねた。
「それで……っ。それが、何につながるんですか?」
「……あの時、貴方はすごく、辛そうだった。冷や汗をかいていて、息は荒くて、それで、「もうやめて、ゆるして……」って、つぶやいてるの」
「……っ」
「……だから、だからよ……。すこし、心配になってしまったの。……それだけ」
「はは、やっぱり、元気づけて、くれてたんじゃないですか……」
「……。わから、ないわ」
無感情だった彼女の言葉に、疑問の感情が広がっていく。そのまま、彼女はダムが決壊したように、流れだした感情のままに語った。
「なにも、わからない。どうして、貴方の事なんか気にかけてしまうのか。どうして、どうしてかしら。前の私のことが関係しているの? それとも、私はあなたに一目ぼれでもしてしまったのかしら?」
彼女は、そういって嘲笑をした。それは、自分の事を嘲る、悲しい笑みだった。
彼女には、きっと、わからないのだろう。なぜ、僕なんか気にかけるのか。
でも、僕は知っている。自信をもって、こたえられる。
それは、この二日間、彼女の心根に、ふれてしまったから。
いつの間にか、荒かった息は落ち着いていた。僕はゆっくりと息を吸い、堂々とした声で言う。
「その答えなら、僕分かりますよ」
「……なん、なの?」
遥さんは、懇願するようにそう聞いた。
僕は目を伏せ、こたえた。
「それは、遥さんが、優しい人だからですよ」
遥さんが、息をのんだのがわかった。
そして、信じられないといった声でつぶやく。
「……そんなはず、ないわ。だって、私の心は動かない。貴方が苦しんでいるのを見たときも、なんとも思わなかった。頭の中なかでは、心が痛むのが普通だってわかってるのに、何も感じないの。氷みたいに、冷たいままなのよ……」
「――貴女の抱える悩みは、僕にはきっと、とうていわからないでしょう。でも、優しいって、人からの評価だと思うんです。だから、僕が優しいなと思った遥さんは、きっと、優しい人ですよ」
「……。そう、かしら」
「はい。きっと、そうですよ」
「――ありがとう」
そう言って、彼女は笑った。顔は見えないけど、今度はきっと自分を嘲る笑みじゃない。
少しでも遥さんが笑ってくれるのなら、たったそれだけで僕は、とても幸せだった。
「ねえ、遥さん」
「何?」
言葉を返す彼女の声は晴れやかだった。その彼女に、僕は、不安そうな口調で切り出す。
「記憶が戻ったら、僕たちってどうなるんでしょう?」
「さあ? 元の人格と合体するんじゃない?」
彼女は何気ない口調で、まだ楽なほうの選択肢を上げてくれるが、それでも僕の不安は増すばかりだった。
「もし、もしですよ。消えてしまったらどうしましょう」
「……。もし、の話でしょう。今考えることではないわ。さあ、寝ましょう。ゆっくり、休みましょう。――おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
それから、数秒後に彼女の寝息が聞こえてきた。相変わらず寝るのが早い。
……僕ももう寝ることにしよう。
彼女の言う通り、もし、なんて考えたら際限がない。考えるだけ無駄だ。
さあ、早く寝よう。
先ほどまでは寝れなかったのに、こんどは、なぜかすっと眠ることが出来た。
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