寿町の星

ハリマオ65

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6話:子供達の個性と高校受験とマイカー購入

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 成績の方は善一がクラスでベスト3に入り学年でもベスト10前後だった。数学、理科、社会、国語が得意で英語が今ひとつだった。そこで自分のステレオのカセットに高校受験対策用のカセットを買って聞くようにしていた。一方の陽子は美術、音楽、国語、社会が得意で理科と数学が苦手でクラスでベスト10前後だった。そこで父に理科と数学を教えてもらっていた。

 しかし、努力をする事が苦手で飽きっぽく、なかなか成績が向上しなかった。ところが中学3年のクラス替えで東京から引っ越してきた佐久間賢という男の子が好きになった。彼は転校後、いきなり学年トップの成績となった。スポーツもサッカーが上手で女の子にもててバレンタインデーの時、彼の机や下足入れに多くのチョコレートが入った。

 その佐久間と話がしたいために数学と英語を必死になって3年の4月から勉強し始め、めきめきと成績を上げてきて、夏休み前の一斉テストでクラス5位に順位をあげた。その後、父が問題集をとくのが一番早いと言われて夜遅くまで勉強していた。そして秋の一斉テストクラス3位に成績をあげた。そして善一と肩を並べる位の成績となった。しかし善一が全体に成績がよいの比べて、陽子は偏りがあった。

 やがて1990年が終わり、1991年となり冬の一斉テストで主要五科目の合計点数で始めて陽子が、善一を上回った。これが悔しかったのか善一も夜遅くまで問題集を徹底的に勉強し続けた。反面、陽子は成績は上がったからと思い、佐久間賢にアプロートをかけたが全く相手にされず、頭にきていた。そして目的を見失い、勉強も以前ほど熱心にしなくなった。

 一方の善一は佐久間賢にライバル意識を燃やしていた。1991年4月に中学三年生になり善一は勉強を継続してコツコツしていた。そして中学3年の春の一斉テストで、念願のクラス1位、学年3位まで成績を上げた。中学3年の夏休みも善一は継続して問題集を解き、めざす高校を翠嵐高校に決めた。陽子も負けずに緑が丘高校を目標にしたいと担任の先生に言うと難しいと言われ善一に差を付けられた。

 そこで受験勉強にラストスパートをかけ、夏休みもエアコンの下で勉強していた。やがて秋になり受験校を決める時に善一は翠嵐高校、陽子は光陵高校をあげた。そして1992年となった。善一が翠嵐高校、陽子が光陵高校の受験の申し込みをして、受験日を迎えて父が善一につき、奥さんが陽子さんについて受験会場に行った。その翌週の合格発表会で善一も陽子も合格した。

 そして私立の受験をしなくて済んだ。実はこれが一番、世之介にとってありがたかった。この合格を聞きつけて昔から子供たちを可愛がってくれた兼松幸子おばあちゃんが来てくれて、合格祝いに善一には黒の陽子さんにはベージュの万年筆を買ってきてプレゼントした。そして4月から陽子は保土ヶ谷駅から東戸塚駅へ通い善一は橫浜市営バスで翠嵐高校のある三ツ沢まで通い始めた。

 その後、手がかからなくなり再び世之介が日本株投資の勉強を再び始めた。この姿を見て善一が、これから21世紀は経済の時代だと考えて証券、金融などを勉強しようと漠然と考え始めた。一方の陽子は英語好きで英会話の教師とか海外留学の手伝いなどの仕事をしたいと考えていた善一は翠嵐高校に入ると最初の試験でクラスで46人中32番目の成績まで落ちてしまい、この高校のレベルの高さを痛感させられた。

 しかし、どんな事があってもベスト10に入りたいと願い、勉強をつづけた。陽子の方でも最初のテストでクラス42人中36番目に落ちて大きなショックを受けた。その話を父の世之介に話すと冷静に光陵高校にギリギリは入れたって事で、ある意味ラッキーだと言い向上心があるなら上をめざせと言われた。その後、高校では大学進学の事を考えてクラブ活動に入らず過ごした。夏休みはエアコンの下で2人とも勉強していた。

 その後1992年8月19日午後13時半にN証券の池田からの電話でソニー株が下げてるので3400円で買いと言われた。そこでソニー1万株を3400万円の開始指示を出し、残金が5260万円となった。午後15時のN証券の池田からの電話で全部買えたと報告を受けた。そこで株の儲けで車を買おうと家族で展示場へ行くと善一がキャンピングカーが良いなと言った。

 そこでトヨタの展示場でトヨタ・ハイエースワゴン・スーパーリミテッドの2年落ちの中古車を270万円で購入した。座席はえんじ色のデラックスなシートで一目で気に入った。そして1992年の秋になり、気分転換に家族4人で箱根に一泊旅行に出かけた。芦ノ湖について遊覧船に乗った。帰りはロープウェイとケーブルカーを乗り継いで強羅駅から大平台で降りてタクシーで直ぐの組合の保養所を開放した宿に泊まった。

 そこの熱めの温泉に入り、夕食後、部屋でビールを飲んで早めに床についた。翌日は宿の近くを散歩して、9時半にホテルを出て大平台から箱根湯本を過ぎて小田原から西湘バイパスに入り相模湾の景色を見ながら大磯、平塚、茅ヶ崎、藤沢、戸塚を経て保土ケ谷郊外の自宅に着いた。そして夏が終わり秋を迎え、子供たち2人が受験勉強を続けた。やがて師走が来て1993年を迎えた。1993年に入り父の進学塾に2人が入り他の高校生38人と共に勉強を始めた。

 そして模擬試験を受けると、善一が3位、陽子は10位だった。その後も多くのテストを続けて、受験生個人の強みわかってきた。そして、善一の弱みは全体が平均的な点数なのでとくとくな科目を作る事とアドバイスすると、数学に力を入れると言った。続いて、陽子の弱点は数学と理科系打と指摘して、その強化を指示した。やがて春が過ぎ、夏休みが重要だと善一、陽子、その他、塾の全員にハッパをかけた。

 しかし息抜きも必要だと考えて8月10日、早朝に富士山周辺の山岳ドライブに出かけた。東名高速道路、横浜インターチェンジから入り、御殿場インターでおりて、御殿場バイパスを走り、子供たちが富士急ハイランドへ行きたいと言うので10時半に到着して、富士急ハイランドの入場券を買い入園した。そして、ジャイアントコースターに乗りたいと善一と陽子が言った。

 母の勝子は高い所が苦手だったが仕方なく世之介が一緒に乗った。最初はゆっくりでジェットコースターで頂上は景色が良く、快適だったが、下り始めると急にスピードアップして、やがて何が何だかわからず恐怖で大声を上げてしまった。そして他のアトランクションも子供たちと一緒にまわり12時前にレストランに入って昼食をとり13時過ぎに富士急ハイランドを出た。その後、山中湖を抜けて、芦ノ湖へ向かい遊覧船に乗った。

 15時に箱根関所前を出発し、山道を熱海方面に向かい、熱海港の近くのホテルに到着しチェックインした。そして、温泉に入り、世之介と奥さんは風呂から上がると部屋で仮眠し、子供たちは熱海港周辺を散策してから温泉につかり、19時に食事会場へ行き、バイキング形式の夕食をたべた。そして2つの洋室ヺ予約して、母と陽子さんで1室、父と善一が1室に別れて寝ることにした。

 その晩、大人たちがビールを飲みながら今日のドライブの事、大学の事、卒業後の進路などを長い間、話して22時過ぎに床についた。翌日は、家族全員では熱海港と周辺の公園を歩いたが、早朝から釣り人が多く来て、熱海港はにぎわっていた。その後10時にホテルを出て、途中、小田原魚センターで魚のひもを買って、早めの昼食をとった。

 西湘バイパスで相模湾の景色を眺めながら平塚、茅ヶ崎、藤沢、戸塚から橫浜新道を使って、保土ケ谷の自宅に帰った。1993年も秋風が涼しくなり10,11月が過ぎて、今年も12月のクリスマスパーティを幸子おばあちゃんを呼んで鳥の丸焼きと大きなケーキでお祝いした。やがて1994年があけた。今年も初詣でに行き家内安全と学業と投資の成功を祈願して来た。

 そして4月になると善一も陽子も高校3年生になった。受験希望校を聞くと、善一が東京工業大学と早稲田大学理工学部、陽子は橫浜市大商学部と日本大学経済学部と話していた。年のために4月から橫浜駅近くの進学予備校に通い始めた。
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