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6話:子供誕生とオイルショック
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初めての2人の正月を過ごし初詣でいき家内安全、商売繁盛、家族の健康と無事に出産できますようにとお参りしていた。その後、市役所へ行き婚姻届を出してきた。1973年1月4日から仕事が始まり忙しい日々が始まった。
1月13日に産婦人科に女房の小田香織が入院し1974年1月15日に男の子を出産し名前を健一、小田健一と名付けた。その後は仕事が終わると、子供が生まれたばかりと言うことを会社に話し早めに帰る日々が続いた。
1974年から日本の大手証券から既発債をパッケージしたファンドを期間限定・3年の単位型ファンド・スポット型ファンドが発売されて10%以上の利回りを売りにしていたので小田は奥さん名義で1千万円分を購入した。
やがて4月を迎えて子供の扱いにも慣れ始めた。5月になると乳母車に乗せて天気の良い日はレストランヘ行き食事をする事もできるようになった。6月梅雨、それが明けると7月、8月の暑い日は家でクーラーを効かせて生活していた。9月になり夜帰り、レストランにも出かけるようになった。10,11月は日曜日に散歩に出かけ、池袋の街を散策して回った。
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に石油輸出国機構OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が原油公示価格を1バレル3ドルから3.12ドルへ70%引き上げた。またアラブ石油輸出国機構・OAPEC諸国は10月20日以降イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国・アメリカ合衆国やオランダなどへの経済制裁、石油禁輸を相次いで決定した。
さらに12月23日には石油輸出国機構OPECに加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。1960年代以降にエネルギー革命を迎えエネルギー源を石油に置き換えていた日本はニクソン・ショック・ドル・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。
前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく中立の立場であった。
しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟を結んでいたためイスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す
ように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。
インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。その結果、1974年は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動も起きた。
1月13日に産婦人科に女房の小田香織が入院し1974年1月15日に男の子を出産し名前を健一、小田健一と名付けた。その後は仕事が終わると、子供が生まれたばかりと言うことを会社に話し早めに帰る日々が続いた。
1974年から日本の大手証券から既発債をパッケージしたファンドを期間限定・3年の単位型ファンド・スポット型ファンドが発売されて10%以上の利回りを売りにしていたので小田は奥さん名義で1千万円分を購入した。
やがて4月を迎えて子供の扱いにも慣れ始めた。5月になると乳母車に乗せて天気の良い日はレストランヘ行き食事をする事もできるようになった。6月梅雨、それが明けると7月、8月の暑い日は家でクーラーを効かせて生活していた。9月になり夜帰り、レストランにも出かけるようになった。10,11月は日曜日に散歩に出かけ、池袋の街を散策して回った。
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に石油輸出国機構OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が原油公示価格を1バレル3ドルから3.12ドルへ70%引き上げた。またアラブ石油輸出国機構・OAPEC諸国は10月20日以降イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国・アメリカ合衆国やオランダなどへの経済制裁、石油禁輸を相次いで決定した。
さらに12月23日には石油輸出国機構OPECに加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。1960年代以降にエネルギー革命を迎えエネルギー源を石油に置き換えていた日本はニクソン・ショック・ドル・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。
前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく中立の立場であった。
しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟を結んでいたためイスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す
ように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。
インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。その結果、1974年は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動も起きた。
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