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第9話 トルメキアの姫
93-2、夜闇(第9話完)
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「お酒はないの?」
「今からお酒ですか?そりゃ、リンゴ酒、いちじく酒、あんず酒、梅酒……」
リリーシャはジャンの視線がさまよったあたりの瓶を取った。
棚から自分用のカップともう一つ探し、それぞれ注ぎ入れる。
もう一つはショウの分である。
「驚いた。お姫さまが自分で酒を注いでいる」
あんずの酒は甘くて濃厚な花の香がする。
これは合格点である。
「わたしは何でもできるわ。世話してくれる女官はいなかったから」
「なんだ、訳ありの姫さまなのか」
「そうよ。見てわかるでしょ。トルメキアの姫なのに金髪に、この美貌、この美脚。なのに、なのにベルゼラの男たちは見る目がないのよ」
「それに愚痴か。こんな早朝からお姫さまの愚痴をきいてあげるほど暇じゃないんだけど。その美貌、えっと美脚?なら別にジプサムさまでなくてもいいんじゃないか?いずれぴったりと合うやつがあらわれるんじゃないかなあ」
「あんた、結婚しているの?」
「はあ?俺はまだ18歳!それにまだ一人前じゃないし、結婚するにはもう少し実力を付けたい」
「ここの保養所の食事一切を受け持っているのに一人前じゃないですって?」
「俺はハルビン料理長の補佐役だったんだよ。でもハルビン料理長は腰を痛めて俺が任されることになった。この離宮での保養、じゃない蟄居は、敵から攻められて籠城することになったときに、あるものだけで生活するということを前提にして計画しているものだから、緊張感もあるし、勉強になる。半人前ではあるけど、俺はここで頑張って、ゴメスからも学べるだけ学んで、あんたの予測不能でわがままな希望も受け入れる度量の広さをもって……、だから結婚はまだ先、恋愛する暇もない……」
ジャンは夢中で話し始める。
ここにいるのは料理見習い、騎士見習い、王子の宰相候補。
トルメキアでは王子の評判はすこぶる悪い。レグラン王と違って戦場にもでず強権な母に庇護されているという位置づけの、独り立ちしていない軟弱ものという噂だった。
ここにいるのは、まだ柔らかい地盤で、目をみはるような実力を確立していない、自分の立場と未来を必死になって築こうとあがき努力する者ばかりのような気がした。
「酒だけでよかったのか?五の姫さま、何杯目だよ?それで愚痴だけなら、そろそろ帰ってくれないか?早朝の仕込みも済んだし、ひと眠りしておきたいんだ」
「……はちみつあるかしら?」
「あんず酒をさらに甘くするつもりかよ」
「はちみつは、抗菌作用がありビタミンも豊富。お肌がきれいになるので、クリームに混ぜるの。蜜蝋もあればほしいんだけど……」
「いいけど。ほんとそれ、姫さまよく勉強なさっているんだなあ。木材を見分けるの、驚嘆したんだぜ?そっちの方面の美容研究家とか、美容サロンとか開いてみれば、その美貌だし、稼げるんじゃないかなあ。もしくは自分が広告塔になって量産して販売するとか?」
美しくあることは、愛されるための必須の条件だと思うのだ。
必死に勉強して当然ではないか。
「……五の姫の護衛騎士さん、酒瓶を取り上げた方がいいんじゃないか?そのあんずの酒、結構アルコール度数も高いんだぜ?」
ショウが手から酒瓶を失礼といって奪い去る。
取り戻そうとして、足がもつれてよろけた。
支えたのはショウ。
彼の胸は特別大きくもないが安心する。
沈丁花、クチナシ、バラ、ゼラニウム……。
リリーシャが好きな花の香がする。
そばにいつもいるから、香が移ったのか。
父王は護衛を渋った。
本来ならば女官も護衛もぞろぞろ引き連れてきてもおかしくない、他国の王に招かれての、王子との顔合わせの保養なのに。
父王は、リリーシャがベルゼラの王子と結婚してもしなくてもどちらでも益があるとみている。
王子と結婚すれば、ベルゼラの内部の事情を探ることもできるだろうし、閨で夫にトルメキアに有利になることをささやくことができる。
王子と結婚しなくても、ベルゼラでの保養中にリリーシャが殺害されるようなことがあれば、父王はベルゼラに膨大な賠償金をふっかけたり、戦争を仕掛ける口実を得ることになる……。
父王の、少しでも利益を搾り取りたいという浅薄な思考は駄々洩れだ。
リリーシャの安寧はどこにもない。
ショウは足音なく歩く。
穏やかに上下する。
ふわふわ気持ちいい。
リリーシャは腕を護衛の首に回し鼻を胸に押し付けた。
「……リリーシャさま。何が起こってもお守りいたしますので安心してお休みください」
いつの間にか部屋のベッドに寝かされていた。
離れていく温かさが名残惜しくて手を伸ばす。
求めた温もりは与えられる。
指先にキス。
どんな顔でショウはキスをしたのか見ようと思ったが、瞼がひらかない。
リリーシャは瞼と格闘したが、勝ったのは睡魔。
「安眠によいというラベンダーを倉庫に見つけましたので枕元に置いておきます。ドライですがよい香りがしますので……」
「どうしてそれを知っているの」
「リリーシャさまが以前おっしゃられました」
ショウはいつ眠るのだろう。
誰にも求められずあがいていた彼を見つけた。同時に彼もまた、リリーシャを見つけたのだ。そんなふたりが響き合うのは自然のことで、身分など関係なく出会っていたら、違う関係になっていたのかもしれない。
音を飲み込む夜闇が思考の縁をおぼろにしていく。
どこまでも静謐な眠りがリリーシャを捕らえた。
(第9話 完)
「今からお酒ですか?そりゃ、リンゴ酒、いちじく酒、あんず酒、梅酒……」
リリーシャはジャンの視線がさまよったあたりの瓶を取った。
棚から自分用のカップともう一つ探し、それぞれ注ぎ入れる。
もう一つはショウの分である。
「驚いた。お姫さまが自分で酒を注いでいる」
あんずの酒は甘くて濃厚な花の香がする。
これは合格点である。
「わたしは何でもできるわ。世話してくれる女官はいなかったから」
「なんだ、訳ありの姫さまなのか」
「そうよ。見てわかるでしょ。トルメキアの姫なのに金髪に、この美貌、この美脚。なのに、なのにベルゼラの男たちは見る目がないのよ」
「それに愚痴か。こんな早朝からお姫さまの愚痴をきいてあげるほど暇じゃないんだけど。その美貌、えっと美脚?なら別にジプサムさまでなくてもいいんじゃないか?いずれぴったりと合うやつがあらわれるんじゃないかなあ」
「あんた、結婚しているの?」
「はあ?俺はまだ18歳!それにまだ一人前じゃないし、結婚するにはもう少し実力を付けたい」
「ここの保養所の食事一切を受け持っているのに一人前じゃないですって?」
「俺はハルビン料理長の補佐役だったんだよ。でもハルビン料理長は腰を痛めて俺が任されることになった。この離宮での保養、じゃない蟄居は、敵から攻められて籠城することになったときに、あるものだけで生活するということを前提にして計画しているものだから、緊張感もあるし、勉強になる。半人前ではあるけど、俺はここで頑張って、ゴメスからも学べるだけ学んで、あんたの予測不能でわがままな希望も受け入れる度量の広さをもって……、だから結婚はまだ先、恋愛する暇もない……」
ジャンは夢中で話し始める。
ここにいるのは料理見習い、騎士見習い、王子の宰相候補。
トルメキアでは王子の評判はすこぶる悪い。レグラン王と違って戦場にもでず強権な母に庇護されているという位置づけの、独り立ちしていない軟弱ものという噂だった。
ここにいるのは、まだ柔らかい地盤で、目をみはるような実力を確立していない、自分の立場と未来を必死になって築こうとあがき努力する者ばかりのような気がした。
「酒だけでよかったのか?五の姫さま、何杯目だよ?それで愚痴だけなら、そろそろ帰ってくれないか?早朝の仕込みも済んだし、ひと眠りしておきたいんだ」
「……はちみつあるかしら?」
「あんず酒をさらに甘くするつもりかよ」
「はちみつは、抗菌作用がありビタミンも豊富。お肌がきれいになるので、クリームに混ぜるの。蜜蝋もあればほしいんだけど……」
「いいけど。ほんとそれ、姫さまよく勉強なさっているんだなあ。木材を見分けるの、驚嘆したんだぜ?そっちの方面の美容研究家とか、美容サロンとか開いてみれば、その美貌だし、稼げるんじゃないかなあ。もしくは自分が広告塔になって量産して販売するとか?」
美しくあることは、愛されるための必須の条件だと思うのだ。
必死に勉強して当然ではないか。
「……五の姫の護衛騎士さん、酒瓶を取り上げた方がいいんじゃないか?そのあんずの酒、結構アルコール度数も高いんだぜ?」
ショウが手から酒瓶を失礼といって奪い去る。
取り戻そうとして、足がもつれてよろけた。
支えたのはショウ。
彼の胸は特別大きくもないが安心する。
沈丁花、クチナシ、バラ、ゼラニウム……。
リリーシャが好きな花の香がする。
そばにいつもいるから、香が移ったのか。
父王は護衛を渋った。
本来ならば女官も護衛もぞろぞろ引き連れてきてもおかしくない、他国の王に招かれての、王子との顔合わせの保養なのに。
父王は、リリーシャがベルゼラの王子と結婚してもしなくてもどちらでも益があるとみている。
王子と結婚すれば、ベルゼラの内部の事情を探ることもできるだろうし、閨で夫にトルメキアに有利になることをささやくことができる。
王子と結婚しなくても、ベルゼラでの保養中にリリーシャが殺害されるようなことがあれば、父王はベルゼラに膨大な賠償金をふっかけたり、戦争を仕掛ける口実を得ることになる……。
父王の、少しでも利益を搾り取りたいという浅薄な思考は駄々洩れだ。
リリーシャの安寧はどこにもない。
ショウは足音なく歩く。
穏やかに上下する。
ふわふわ気持ちいい。
リリーシャは腕を護衛の首に回し鼻を胸に押し付けた。
「……リリーシャさま。何が起こってもお守りいたしますので安心してお休みください」
いつの間にか部屋のベッドに寝かされていた。
離れていく温かさが名残惜しくて手を伸ばす。
求めた温もりは与えられる。
指先にキス。
どんな顔でショウはキスをしたのか見ようと思ったが、瞼がひらかない。
リリーシャは瞼と格闘したが、勝ったのは睡魔。
「安眠によいというラベンダーを倉庫に見つけましたので枕元に置いておきます。ドライですがよい香りがしますので……」
「どうしてそれを知っているの」
「リリーシャさまが以前おっしゃられました」
ショウはいつ眠るのだろう。
誰にも求められずあがいていた彼を見つけた。同時に彼もまた、リリーシャを見つけたのだ。そんなふたりが響き合うのは自然のことで、身分など関係なく出会っていたら、違う関係になっていたのかもしれない。
音を飲み込む夜闇が思考の縁をおぼろにしていく。
どこまでも静謐な眠りがリリーシャを捕らえた。
(第9話 完)
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