舞姫の君

藤雪花(ふじゆきはな)

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第9話 トルメキアの姫

86、リリーシャ姫とレグラン王②

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 客が退席するのも早かったのだろう。
 片付ける者のざわついた気配だけを残して、雅な気配は消えていた。
 柔らかな薄物をなびかせ、夜の闇の溶け込んだクチナシの匂いを鼻の奥に感じながら、リリーシャは石を敷いた廊下を渡る。

 リリーシャの住む建物は、接待用にも使われる離れの部屋と、無数の香の粒を夜空に放出する幾多の花々を水面に見立て、その上に架けられた橋のような廊下でつながっている。
 欄干からのぞき込めば、虹色の鯉でも跳ね上がってきそうだった。

 人の気配はなかった。
 商団は10人ほどの男たちだった。
 彼等も全員、ここで休んでいるにしては、やけに静かである。
 部屋の窓からは明かりが漏れていた。
 目指す男ははまだ起きているようだった。

「……申し訳ありませんが、この先に行くことはできません」

 廊下の屋根を支える柱の陰から黒い影が現れた。 
 手にしたランタンでかざせば、宴席で派手な羽織を着た男のそばで穏やかに微笑んでいた壮年の男だった。
 だが、今はその目は笑っていない。
 闇に溶け込むような全身黒づくめで、父王が引き連れる手練れの護衛兵士たちの隊長であるといわれれば、納得してしまいそうな凄みを感じさせながらも落ち着きがあった。

「父王から、レグラルドさまとの間でお話がまとまったと聞いておりましたが」
「……これは、五の姫さまでございましたか。それは大変失礼いたしました。てっきり……」

 てっきり、娼婦とでも?
 憤りも感じない。
 まさしくその通りだと思うからだ。

 リリーシャの前に道が開く。
 男が再び闇に紛れても、空気が厚く重い壁のように感じられた。
 花の香に重さがあることを知る。

「こんな夜更けにお休みのところ訪問することをお許しください」
 扉の前でそっと声をかけた。
 応えを待たず、薄く扉を押し開けわずかなすき間から滑りいる。

 接待部屋は円形で、部屋がいくつか仕切られている。
 どの部屋にも父王が、一流の職人に費用度外視で作らせた家具が置いてある。とろりと感じるまで研磨された精緻な彫り物飾りが、円卓に、飾り棚に、天蓋を支えるベッドの柱に施されていた。

 男は天蓋の中にいた。
 おおきな影が得体のしれない獣のようにゆれた。
 ベッドの内側に明かりを持ち込み、腰を起こして書き物でもしているようだった。

「……今夜はここには誰も入れるなと言っていたのだが」
 花の刺繍が全面に施された幕の内側から声がする。
 声量を搾り、低音だが明瞭な声。

「そのようにおっしゃらないでください。わたくしは覚悟を決めてきました」

 リリーシャの心臓は先ほどから銅鑼でたたいているかのようにうるさい。
 今からしようとしていることに対して押さえきれない興奮と、男の落ち着きようの落差は大きい。
 商団の男はこういう接待の夜に女が忍んで来るのはよくあるのか。
 リリーシャは身に着けていたものをすばやく脱いだ。
 蚊帳の絹布に手をかけ膝をベッドに進めようとする。

 その瞬間、喉に冷たいものが押し付けられた。
 それが鋭いナイフの切っ先とわかるまでに、男の目をのぞき込んでしまった。

 黒い闇が広がる、冷酷な目。
 この場で殺されると思った。

 商人だと誰がいったのか。
 抵抗もできないままに、腕が強い力で掴まれ、視界が回る。
 ベッドに落とされ、男が腹の上にのしかかった。
 男の、動きやすい黒い前合わせの夜着のスタイルはベルゼラのもの。
 素早い動きは、訓練されたものだった。

「あなたは何者!?」
 闇色の目が笑った。
「俺のことを知らないで、五の姫はそんな恰好で忍んできたのか。で、俺をどうするつもりだ」
「わたしを抱きなさい」

 裸の胸が大きく弾む。
 男はリリーシャの顔と体を眺めまわし、噴き出した。

「抱きなさいって、女を抱くにはそれなりに準備がいるし、誰でもいいというわけでもない。油断をさせて殺すつもりか?武器も持っていないようだが……」
「あなたを殺しても意味がないでしょう。わたしのことを気に入っていたと父が言っていたわ」
「一生懸命踊る姿が好感がもてると言ったのだ。だが、抱きたいかといえばそうでもないというのが正直なところだ。その様子、男の経験もないんだろ?生娘はなだめすかしたりして手間がかかるし、求められるままに抱いたら、あの強欲の王のことだ、俺の妻にしろとか押し付けられかねないだろうから」
「……よくわかっているのね。妻にしてとはいわないわ」
「では、俺に抱かせる目的は?」

 体を押さえつけていた重みが失せる。
 喉元に押し付けられていた刃はしまわれた。
 男はベッドを離れると、昼間のド派手な羽織ものをリリーシャに投げ渡す。
 リリーシャは体に巻き付けた。
 途端に腹の底から湧き上がった羞恥が顔にまで吹き上げた。
 ひどく扱われるかもしれないとは思っても、拒絶されるとは思いもしなかった。 

「わたしは愛玩奴隷のような外見をしている。男たちはみんな、わたしを犯したいと思っていたわ」
「慰めるつもりもないが、俺みたいな男ばかりじゃないから安心しろ。で、まだ俺の問の答えを聞かせてもらってないが」


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