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第9話 トルメキアの姫
83-2、モルガンの匂い
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ブルースは言い、引き出しの取っ手にひきやすいように結びつけられた紐を引っ張った。
「モルガンの匂いをあの姫は臭いというんだ」
非難するような口調になる。
リリーシャの存在が、どうしようもなくユーディアを落ち込ませていた。
ユーディアは膝を抱えて額をのせた。
だけど落ち込む理由は、部屋を変えさせられたとか、立場の違いを思い知らされたとか、それだけじゃないような気がした。
だけど突き詰めて考えたくなかった。
いろんなものをそぎ落とした本当の自分を、見つめることになるのが怖かった。
「臭い?馬糞の燃える匂い、羊毛フェルトの匂い、ミルクの匂い、茶の匂い。俺たちには心が落ち着く匂いだな」
「……残してきたサラサたちは冬の宿営地をどこに決めたんだろう。冬の準備は滞りなくできたんだろうか。今年は何頭子羊と仔馬は生まれたんだろう。子供たちは、元気にしているんだろうか」
懐かしい面々の顔が浮かぶ。
「冬の宿営地は大体決まってるから、星読みのばばさまが大雪が降るとかいわなければいつものところだろう。あの場所は、ベルゼラから十分離れているから問題は起こらないだろう。俺たちがいなくても、みんなうまくやっていける。ゼオンさまも健在だから、生き残った西の部族の者たちも合流して……」
ブルースは押し黙る。
沈黙が怖い。
「今年は父から種馬を選ぶことをまかされていたんだ。カカと相談し、毛並みのつややかな優れた種馬を何頭か選ぶ予定だった。草原を、豊かなたてがみと尻尾をなびかせて力強く走る、僕たちの子馬がたくさん生まれるように……」
「雄羊もだろ」
「雄羊も、雄牛も……」
自然と涙が流れていた。
草原と遠く離れたところにユーディアはいる。
ブルースがユーディアの隣に座り、頭を引き寄せた。
おざなりにかぶった帽子が滑り落ちた。
ブルースの匂いは、草いきれのような匂いがした。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫」
「顔をちゃんと見せてみろ」
「いやだ」
「なら、無理やり顔を向けさせるが」
ユーディアの頭に手がかかった。
ブルースの力を感じる前に、ブルースの方へ向く。
「ほら、もう、泣いてないから。ただのホームシック」
笑って見せた。
ブルースの唇がゆがむ。
「だが、唇をかんで血がにじんでる。もう、食いしばるな。つらければ吐き出せ」
「舐めといたら治る……」
ブルースの顔が近づいた。
唇と唇がふれあった。
舌がユーディアの唇を舐めた。
ぞくりと背中に快感が走る。
あっと口を開き息を吸い込むと、唇をたどって歯に触れた熱い舌を受け入れてしまう。
ブルースとキスをしたのは初めてだった。
子供のころから許嫁だったのに、二人の間に体の関係は全くなかった。
ブルースは自分のもう一つの自分だった。
もしくは分かちがたい背中合わせの光と影。
表と裏。右と左。
命ある限り、互いが互いの影のようにつかず離れず存在していくことが当然だと思っていた。
だから、自分自身とキスすることなど思いもよらないではないか。
ブルースの掌がしっかりと頭をとらえた。
さらに奥へ、ユーディアを求めた。
不意に、ユーディアはブルースが自分の中でくっきりと男の輪郭を持ち始め、分離していくのを感じた。
自分ともうひとりの自分を別の存在に分けるのは、自分の中の女と、自分に向かうブルースの愛と欲望。
それはしなやかな筋肉と意志の強さを備えていた。
ユーディアは、自分が急に弱くなったような気がした。
「ユーディア、もう帰ろう。もう十分がんばった。あなたのいるところはここではない。突き抜けるほど広い空、どこまでも広い大地、香る風。あなたの満面の笑顔が俺には浮かぶ。皆待っている。ベルゼラに潜伏しているカカやトーレスやシャビも呼び戻し、もう一度、我らが我ららしく生きられるところへ戻ろう」
目を閉じると、ブルースの描く未来がみえるような気がする。
だけどまだ、ユーディアはその未来をつかめなかった。
「雪が溶けるまでわたしたちは動けない。だからまだ、ここでやるべきことがあるはず」
ユーディアはブルースの腕の中から立ち上がった。
「ユーディア!?」
引き留めようとしたブルースが、ユーディアの手を捕まえた。
ユーディアは向き直ると、ブルースの手首をしっかりと掴み直す。
ブルースの足を踏んで重心を後ろに思いっきりそらせ、ブルースを立ち上がらせた。
「いいことを思いついたの。ブルースのおかげよ!暇なら手伝って!」
ひとまずやるべきことが見えれば、元気になる。
ここにはモルガンがあふれている。
元気の素はここにはたくさんあるはずだった。
草原に帰るのも、ブルースに応えるのも、もう少し先にのばしてもいいじゃないか……。
急に元気になったユーディアをみて、ブルースが驚き慌てている。
最近はすましたブルースの顔しか見ていなかった。
ユーディアは笑った。
今度こそ、ちゃんと笑えていると思った。
「モルガンの匂いをあの姫は臭いというんだ」
非難するような口調になる。
リリーシャの存在が、どうしようもなくユーディアを落ち込ませていた。
ユーディアは膝を抱えて額をのせた。
だけど落ち込む理由は、部屋を変えさせられたとか、立場の違いを思い知らされたとか、それだけじゃないような気がした。
だけど突き詰めて考えたくなかった。
いろんなものをそぎ落とした本当の自分を、見つめることになるのが怖かった。
「臭い?馬糞の燃える匂い、羊毛フェルトの匂い、ミルクの匂い、茶の匂い。俺たちには心が落ち着く匂いだな」
「……残してきたサラサたちは冬の宿営地をどこに決めたんだろう。冬の準備は滞りなくできたんだろうか。今年は何頭子羊と仔馬は生まれたんだろう。子供たちは、元気にしているんだろうか」
懐かしい面々の顔が浮かぶ。
「冬の宿営地は大体決まってるから、星読みのばばさまが大雪が降るとかいわなければいつものところだろう。あの場所は、ベルゼラから十分離れているから問題は起こらないだろう。俺たちがいなくても、みんなうまくやっていける。ゼオンさまも健在だから、生き残った西の部族の者たちも合流して……」
ブルースは押し黙る。
沈黙が怖い。
「今年は父から種馬を選ぶことをまかされていたんだ。カカと相談し、毛並みのつややかな優れた種馬を何頭か選ぶ予定だった。草原を、豊かなたてがみと尻尾をなびかせて力強く走る、僕たちの子馬がたくさん生まれるように……」
「雄羊もだろ」
「雄羊も、雄牛も……」
自然と涙が流れていた。
草原と遠く離れたところにユーディアはいる。
ブルースがユーディアの隣に座り、頭を引き寄せた。
おざなりにかぶった帽子が滑り落ちた。
ブルースの匂いは、草いきれのような匂いがした。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫」
「顔をちゃんと見せてみろ」
「いやだ」
「なら、無理やり顔を向けさせるが」
ユーディアの頭に手がかかった。
ブルースの力を感じる前に、ブルースの方へ向く。
「ほら、もう、泣いてないから。ただのホームシック」
笑って見せた。
ブルースの唇がゆがむ。
「だが、唇をかんで血がにじんでる。もう、食いしばるな。つらければ吐き出せ」
「舐めといたら治る……」
ブルースの顔が近づいた。
唇と唇がふれあった。
舌がユーディアの唇を舐めた。
ぞくりと背中に快感が走る。
あっと口を開き息を吸い込むと、唇をたどって歯に触れた熱い舌を受け入れてしまう。
ブルースとキスをしたのは初めてだった。
子供のころから許嫁だったのに、二人の間に体の関係は全くなかった。
ブルースは自分のもう一つの自分だった。
もしくは分かちがたい背中合わせの光と影。
表と裏。右と左。
命ある限り、互いが互いの影のようにつかず離れず存在していくことが当然だと思っていた。
だから、自分自身とキスすることなど思いもよらないではないか。
ブルースの掌がしっかりと頭をとらえた。
さらに奥へ、ユーディアを求めた。
不意に、ユーディアはブルースが自分の中でくっきりと男の輪郭を持ち始め、分離していくのを感じた。
自分ともうひとりの自分を別の存在に分けるのは、自分の中の女と、自分に向かうブルースの愛と欲望。
それはしなやかな筋肉と意志の強さを備えていた。
ユーディアは、自分が急に弱くなったような気がした。
「ユーディア、もう帰ろう。もう十分がんばった。あなたのいるところはここではない。突き抜けるほど広い空、どこまでも広い大地、香る風。あなたの満面の笑顔が俺には浮かぶ。皆待っている。ベルゼラに潜伏しているカカやトーレスやシャビも呼び戻し、もう一度、我らが我ららしく生きられるところへ戻ろう」
目を閉じると、ブルースの描く未来がみえるような気がする。
だけどまだ、ユーディアはその未来をつかめなかった。
「雪が溶けるまでわたしたちは動けない。だからまだ、ここでやるべきことがあるはず」
ユーディアはブルースの腕の中から立ち上がった。
「ユーディア!?」
引き留めようとしたブルースが、ユーディアの手を捕まえた。
ユーディアは向き直ると、ブルースの手首をしっかりと掴み直す。
ブルースの足を踏んで重心を後ろに思いっきりそらせ、ブルースを立ち上がらせた。
「いいことを思いついたの。ブルースのおかげよ!暇なら手伝って!」
ひとまずやるべきことが見えれば、元気になる。
ここにはモルガンがあふれている。
元気の素はここにはたくさんあるはずだった。
草原に帰るのも、ブルースに応えるのも、もう少し先にのばしてもいいじゃないか……。
急に元気になったユーディアをみて、ブルースが驚き慌てている。
最近はすましたブルースの顔しか見ていなかった。
ユーディアは笑った。
今度こそ、ちゃんと笑えていると思った。
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