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第3部 冬山離宮 第7話 盗賊
59、騒動
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その時、前方を行く人の波が乱れた。
男のざらついた罵声と共にざわめく人々の視線が落ち、屋台が途切れたところの奥にある食堂の方にも顔を向けている。
「何?」
ユーディアは人込みをかき分け進んだ。
人々の先に、地面に転び両ひざと手をつく女の姿があった。
後ろで一つに結んだ髪が乱れている。
顔を伏せ、やせた背中を震わせながら女はしきりに口の中で何かをつぶやいていた。
「申し訳ございません、申し訳ございません、きちんと致しますから……」
蚊の鳴くような力の抜け落ちた言葉をユーディアは聞き取った。
女は食堂から突き倒されたのだと、彼女の足元に腹を突き出して仁王立つ、偉そうな顔をした男の姿をみて理解する。
「そんな辛気臭い顔をして店をうろうろされたら飯もまずくなるだろ。俺が来たらお前はどこか見えないところに行くかしろ。それができないようなら、もう二度とこの店に来ない。そう亭主に何度も言っているんだが、聞いてないのかよ。この店にいられないようにしてもいいんだぜ」
「も、申し訳ございません、そのようにいたしますから、ここを放りだされたら生きていけません、それだけは……」
腹がだらしなく出た男の脅しの言葉に女は這うようにして男に向き直る。
必死に男の足に縋りついた。
その手の指に横に走ったいくつものあかぎれと、痛々しく切りそろえられた爪と、皮ばかりかと思える節ばった指の細さをみて、ユーディアの全身の血が下がっていく。
哀れな女の恐怖が伝染する。
その姿は、ベルゼラに来た時の自分の姿と重なった。
何度も何度も謝り、許しを請う。
次第に、謝罪の言葉は意味をなさなくなり、ただ相手の怒りの波をやり過ごすだけの、口の中で転がす呪文の言葉になる。
男はうっとうしそうに蹴とばした。
そのまま背後に尻もちをついて横倒しに倒れそうになるところを受け止めたのはユーディア。ジプサムがユーディアを引き留めようとしたが間に合わない。
男をにらみつけた。
男の背後には、様子を心配げに見る他の給仕の女たちの姿がある。
同じ給仕でも馬鹿にして笑っている、こざっぱりした女もいる。
彼女たちは立場が違うのだ。
ユーディアと侍女だったアリサのように。
食堂の客たちも、この場に居合わせた往来する人々も、誰も彼女を助けようとしなかった。
「あんたは客なの?彼女は給仕をしてくれている食堂の人なの?出されたものを食べるだけの客がどれだけえらいっていうの?」
面と向かって非難された男の顔色が怒りに赤黒く変わる。
「この女の肩を持とうっていうのか。こいつは奴隷なんだ。奴隷なら奴隷らしく、愛嬌を振りまいていればいいのに、不景気な顔をしているからしつけてやっただけだ。関係のないヤツは引っ込んでろ!」
「奴隷だから、何?女を蹴りつけることが男としてやるべきことなの?」
「それは、こいつが奴隷だから」
ぎりっとユーディアは奥歯をかみしめて女をかばうように立ち上がった。
「戦に負けたから?ベルゼラが強いから?捕虜にしたから?金で買ったから?ベルゼラではマイノリティだから?生きるすべがないから?働かせてやっているから?あんたはただの客。客じゃなくても彼女を所有しているものだって、人の尊厳を踏みにじるようなことをしてはならない。そんなこともわからないの?」
ユーディアの腕になだめるように触れ、前にでたのはジプサム。
レグランと似た端麗な顔は、不快げに歪む。
「立場を盾にして弱いものを虐げても構わないと思う考えをするものが、俺の目の前にいるんだな。ベルゼラ人として恥ずかしいとは思わないのか?」
「それは……」
男はユーディアとジプサムを交互に見る。
何事かと足を止めた者たちが、ジプサムの言葉にうなづき非難の目を向けているのを見て、形勢が悪いことを知り、この場を取り繕おうとひきつった笑みを浮かべた。
「ちゃんと笑顔で給仕をしてくれたらそれでよかったんだ。お兄さんたちは旅行で訪れた貴族の子息か何かだろ?騒ぎを大きくしないでくれ。こんなことしょっちゅうあることだから」
ぶつぶつ言いながら、懐から金を取り出し店の者に払い、人込みの中へ腹をねじりこむようにして、逃げ去るように去っていく。
最後に、女に憎々しい目を向けるのを忘れない。
ユーディアはほっと肩をなでおろした。
場が収まり、何事もなかったかのように再び人々は動きだす。
女はブルースに肩を支えられて食堂の扉の横へ、保護されていた。
女の腰にどこから見ていたのか5歳ぐらいの男の子が縋りついている。
女はユーディアとジプサムにしきりに感謝の言葉を述べ頭を下げた。
それもまた、繰り返された意味のない呪文のようにユーディアは聞こえた。
落ち着きをとりもどすと、やせた女は子供を連れて裏手の勝手口へ向かう。
ユーディアは、去り際にジプサムが女の手に何かを握らせていたのを見逃さない。男の子の目に涙がたまり流れ出すのを必死にせき止めているのも。
三人はその後ろ姿を見送った。
「……これが、繁栄の裏側の、闇の部分」
「いつでも誰かの助けがあるとは限らない。大多数の者は巻き込まれない限り距離を置き、傍観し、さらに見なかったことにする。ベルゼラの王子はこのままでいいと思っているのか?」
ブルースの言葉は冷ややかだ。
ジプサムの顔は険しい。
何か言おうと口を開いた。
その時、深刻な顔をして向かいあう三人に、腕を広げて近づいてきた者がいた。
男のざらついた罵声と共にざわめく人々の視線が落ち、屋台が途切れたところの奥にある食堂の方にも顔を向けている。
「何?」
ユーディアは人込みをかき分け進んだ。
人々の先に、地面に転び両ひざと手をつく女の姿があった。
後ろで一つに結んだ髪が乱れている。
顔を伏せ、やせた背中を震わせながら女はしきりに口の中で何かをつぶやいていた。
「申し訳ございません、申し訳ございません、きちんと致しますから……」
蚊の鳴くような力の抜け落ちた言葉をユーディアは聞き取った。
女は食堂から突き倒されたのだと、彼女の足元に腹を突き出して仁王立つ、偉そうな顔をした男の姿をみて理解する。
「そんな辛気臭い顔をして店をうろうろされたら飯もまずくなるだろ。俺が来たらお前はどこか見えないところに行くかしろ。それができないようなら、もう二度とこの店に来ない。そう亭主に何度も言っているんだが、聞いてないのかよ。この店にいられないようにしてもいいんだぜ」
「も、申し訳ございません、そのようにいたしますから、ここを放りだされたら生きていけません、それだけは……」
腹がだらしなく出た男の脅しの言葉に女は這うようにして男に向き直る。
必死に男の足に縋りついた。
その手の指に横に走ったいくつものあかぎれと、痛々しく切りそろえられた爪と、皮ばかりかと思える節ばった指の細さをみて、ユーディアの全身の血が下がっていく。
哀れな女の恐怖が伝染する。
その姿は、ベルゼラに来た時の自分の姿と重なった。
何度も何度も謝り、許しを請う。
次第に、謝罪の言葉は意味をなさなくなり、ただ相手の怒りの波をやり過ごすだけの、口の中で転がす呪文の言葉になる。
男はうっとうしそうに蹴とばした。
そのまま背後に尻もちをついて横倒しに倒れそうになるところを受け止めたのはユーディア。ジプサムがユーディアを引き留めようとしたが間に合わない。
男をにらみつけた。
男の背後には、様子を心配げに見る他の給仕の女たちの姿がある。
同じ給仕でも馬鹿にして笑っている、こざっぱりした女もいる。
彼女たちは立場が違うのだ。
ユーディアと侍女だったアリサのように。
食堂の客たちも、この場に居合わせた往来する人々も、誰も彼女を助けようとしなかった。
「あんたは客なの?彼女は給仕をしてくれている食堂の人なの?出されたものを食べるだけの客がどれだけえらいっていうの?」
面と向かって非難された男の顔色が怒りに赤黒く変わる。
「この女の肩を持とうっていうのか。こいつは奴隷なんだ。奴隷なら奴隷らしく、愛嬌を振りまいていればいいのに、不景気な顔をしているからしつけてやっただけだ。関係のないヤツは引っ込んでろ!」
「奴隷だから、何?女を蹴りつけることが男としてやるべきことなの?」
「それは、こいつが奴隷だから」
ぎりっとユーディアは奥歯をかみしめて女をかばうように立ち上がった。
「戦に負けたから?ベルゼラが強いから?捕虜にしたから?金で買ったから?ベルゼラではマイノリティだから?生きるすべがないから?働かせてやっているから?あんたはただの客。客じゃなくても彼女を所有しているものだって、人の尊厳を踏みにじるようなことをしてはならない。そんなこともわからないの?」
ユーディアの腕になだめるように触れ、前にでたのはジプサム。
レグランと似た端麗な顔は、不快げに歪む。
「立場を盾にして弱いものを虐げても構わないと思う考えをするものが、俺の目の前にいるんだな。ベルゼラ人として恥ずかしいとは思わないのか?」
「それは……」
男はユーディアとジプサムを交互に見る。
何事かと足を止めた者たちが、ジプサムの言葉にうなづき非難の目を向けているのを見て、形勢が悪いことを知り、この場を取り繕おうとひきつった笑みを浮かべた。
「ちゃんと笑顔で給仕をしてくれたらそれでよかったんだ。お兄さんたちは旅行で訪れた貴族の子息か何かだろ?騒ぎを大きくしないでくれ。こんなことしょっちゅうあることだから」
ぶつぶつ言いながら、懐から金を取り出し店の者に払い、人込みの中へ腹をねじりこむようにして、逃げ去るように去っていく。
最後に、女に憎々しい目を向けるのを忘れない。
ユーディアはほっと肩をなでおろした。
場が収まり、何事もなかったかのように再び人々は動きだす。
女はブルースに肩を支えられて食堂の扉の横へ、保護されていた。
女の腰にどこから見ていたのか5歳ぐらいの男の子が縋りついている。
女はユーディアとジプサムにしきりに感謝の言葉を述べ頭を下げた。
それもまた、繰り返された意味のない呪文のようにユーディアは聞こえた。
落ち着きをとりもどすと、やせた女は子供を連れて裏手の勝手口へ向かう。
ユーディアは、去り際にジプサムが女の手に何かを握らせていたのを見逃さない。男の子の目に涙がたまり流れ出すのを必死にせき止めているのも。
三人はその後ろ姿を見送った。
「……これが、繁栄の裏側の、闇の部分」
「いつでも誰かの助けがあるとは限らない。大多数の者は巻き込まれない限り距離を置き、傍観し、さらに見なかったことにする。ベルゼラの王子はこのままでいいと思っているのか?」
ブルースの言葉は冷ややかだ。
ジプサムの顔は険しい。
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