舞姫の君

藤雪花(ふじゆきはな)

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第2部 ベルゼラ国 第5話 色小姓

36、秘密②

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 馬場の正面の黒い荘厳な建物は新月城という。
 兵士や護衛たちの宿舎だった。
 抱えられて運ばれる、ふんわりと漂う心地よさにベルゼラの王城内であることを忘れる。
 ベッカムの割れた声で、兵士たち用の蒸気風呂ではなく、部屋に湯あみの準備をしてほしい、昼食の準備を二人分してほしい、着替えを用意してほしい、などと指示が飛んでいる。

 父ゼオンのような的確な指示。
 ユーディアは父に甘えたことがない。
 感じる安心感はブルースに抱えられているようだった。
 空腹にもかかわらず、あらがいきれない睡魔に意識が切れ切れである。

 ユーディアがおろされたのはきれいに整えられたベッドの上。
 しがみついてはなさないユーディアの手をベッカムはほどいた。
 壁に立てかけていた衝立を、慣れた様子でベッドと部屋の仕切りに開いておく。
 背丈ほどの4扇からなるそれは、短冊状の煤竹を横にわたして色とりどりの糸で綴った美しいものである。
 ユーディアの手には低いベッドの下から引き出した予備のシーツが押し付けられた。

「ベッドを水浸しにする前に脱いで、湯が運ばれるまでその布をかぶっていてくれ」
 衝立の向こう側に行ったベッカムの背中が、衝立から透けてみえる。
 ユーディアは言われるままに脱いだ。

「これをどこで乾かしたらいい?」
「乾かす前に洗っておいてやる。床に置くな、衝立にかけておけ」
「泉でもう洗ったからこのまま干すだけでいいよ」
「服のまま泳いだその服を、ベルゼラでは洗ったとは言わない」
「モルガンでは……」
「ベルゼラでやっていくのなら、郷に入りては郷に従え、だろう。今は、ひとつずつ、モルガンの常識とベルゼラの常識の違い、やり方の違いを知り、ベルゼラのやり方を早く覚えろ」
 割れた声は、説教臭くいう。
 ユーディアはベッカムは父と同じ年齢だと見当づけた。
「ん……」

 濡れた晒は胸を締め付け、気持ちが悪くなる。
 ユーディアは晒をほどき、シーツを身体に巻き付けた。
 衝立の向こうでは女たちが湯を運んできてくれる。

「湯の入り方を知っているか?最初にさっと湿らせたタオルでふき、皮膚表面の汚れを取り、湯につかりしっかりと身体を温め皮脂汚れを浮き立たせる。頭は何度か湯をかぶり髪を湿らせる。髪は石鹸を泡立て頭皮と髪を洗う。すすぎは使っている湯を何度か頭からかぶり、頭の石鹸成分を落とす。同時に湯に落ちた石鹸の洗浄成分で身体をこすり洗う。最後に別に用意した湯を全身に流す。外に流れても気にしなくていい。この新月城は排水が整備されている。ベルゼラは排水設備が整っていて、上下水道の設備は公衆衛生に役立ち、疾病や感染症を多いに減らすのに役立ち……」

 まだまだ続きそうである。
 ベッカムが指さすところの天井から釣り下げられた布を開くとそこは浴室だった。窓が開き、湿った蒸気がこもらないように外に流してくれている。
 足元は青いタイルが敷き詰められ、足裏が気持ちがよかった。
 湯おけを見るのは二度目であった。
 一度目は西都の宿の部屋。
 湯に入る習慣はモルガンにはない。
 もしかして以前、湯おけに入ったとき水を床に飛ばしてしまっていたかもしれない。あの時は専用の浴室ではなかった。
 ジプサムもサニジンも床を濡らしても何も言わなかったけれど。

「頭も石鹸でしっかりと洗えよ」
 ユーディアが湯に浸かってすぐに上がろうとしたのが見えたかのようなタイミングのだみ声に、再び湯に肩まで沈めた。
 仕方なく石鹸に手を伸ばした。
 頭を洗ってくれるのはいつもサラサで、自分で洗うのは何年ぶりだろうと思う。

「お前、あんな髪をしていたから髪がちりちりだと思っていたが、そうじゃなかったんだな。髪が長いと女のように思われる。ベルゼラでは男はたいてい短くしている。もちろん長いヤツもいる。学者や芸術家、建築家。その他大勢にくくられたくない者たちだが……」

 ユーディアが返事をしなくてもベッカムは話している。
 ユーディアの戸惑いを払拭しようとしてくれているようだった。
 髪を洗った泡を流すために湯に頭のてっぺんまで沈めた。
 息が続かなくなるまで堪える。

 40、41、42……。

 ユーディアはいきなり腕をつかまれ引き上げられた。
 後ろから両腕を掴まれ、顔を覗き込まれていた。
 ユーディアは驚愕し、目を見開いて隻眼を見た。

「おいっ、こんなところでおぼれるか!?それとも、いくらなんで世をはかなんで自死することはやめてくれ!お前はこれ以上ないほど恵まれた立場にいるんだから」

 手を振りほどこうにも振りほどけない。
「自死!?潜っていただけだけ」
「はあ!?なんで潜って」
「髪の石鹸を流そうと思って」
「髪を!?服のように水に沈んで!?」

 思い違いに気が付いたベッカムの目つきがほっとすると同時に、視線がユーディアの口元からその下へとすべり、目がみひらかれた。

「腕が痛い」
「す、すまない。お前が予測不可能な蛮族だということを忘れていた」
 すぐさま手が離され、顔が背けられた。
 用意された服はアイボリーの前合わせの上に、裾広がりのパンツである。


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