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第六章 収穫祭

第44話 水盤2

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 良い夫、子煩悩なパパで、不満などなかった。
 あっという間に子供は巣立っていく。
 ローンも完済し、定年を無事に迎えた貴文は、ようやく自由な生活ができると思った矢先、持病が悪化してあっけなく逝ってしまう。
 死後、彼の持ち物を整理していて、手紙やはがきの束を見つけた。
 それは見覚えのある字、美奈の字。
 昔、彼らは文通していたその時のものだった。
 それを、まさか貴文が死ぬまで大事にしているとは思わなかった。
 不意に悟る。この平凡だけれど幸せな人生を送るべきは、わたしではなくて美奈だったのではないか、と。
 美奈は、30代で結婚したが離婚し、地元に帰っていた。
 わたしは酒蔵を弟が継いだ地元にはあまり寄り付かなかったけれど、貴文は足しげく実家に戻っていた。
 まさかそのとき、美奈と会っていたりしたのだろうか。

 平凡だけれども幸せな人生が、軋みを立てて崩壊していくのを感じた。
 これが、わたしの選んだ人生だった。
 美奈から貴文を奪ったのは、良い夫、良いパパという形だけだ。
 そんなことを、いまさら突きつけられるとは思わなかった。

 遠くで誰かがわたしを呼ぶ。
 必死だった。
 切り込むような痛みに、わたしの意識は急激に手繰り寄せられる。
 別の場所にある、痛みを感じる体へと。


「樹里、魅入られるな!聞こえるか?」
 目の前にあるのは水盤の側面の模様で、わたしは背後の人物に水盤から引き離されていた。
 剣戟の演舞は続いていた。
 ここは、収穫祭の、舞台奥、崖際に設置された祭壇の、水盤の前。
 シャディーンの手がわたしの顔を包み、目を合わせる。
 シャディーンの目に恐怖と狼狽が見て取れた。

「未来を見た。わたしは戻っていて、貴文と美奈がずっと続いていて、幸せだと思っていた人生が裏切られていたことがわかって……」
「樹里、よくきけ。水盤が見せる未来は本当に起こるわけではない。多々ある可能性の一つにすぎない。だから信じるな」
「でも、あまりにリアルでこの手にまだ手紙を……」
 
 わたしの手は何ももっていなかった。
 深く刻まれたしわも、手の甲に浮き出たしみもない。
 つややかでみずみずしい、とうに失われたと思っていた18歳の手だった。
 自分の世界に戻って過ごした40年の人生は、水盤が見せた一瞬の夢だったのだ。




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