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第三章 嵐

第20話 悪女 (嵐 完)

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 ベランダの窓に風雨が打ち付ける音だけしか聞こえない。
 ガラスは重さのある雨粒が流れて、黒々とした雲の気配しかうかがえない。
 ふと髪に触れる気配に振り返る。
 応えをした覚えはなかったが、魔術師は入ってきていた。
 この王城で、この魔術師を引きとどめることができるものはいない。 
 
 訪れる時間はまだ数時間先のはず。
 湯で体を温め、運んでもらった夕餉を食べたばかりである。

「……今日はてっきり厨房と酒蔵の整理の打合せをするものだと思っていたが」

 わたしは少し体調がすぐれなかったとかなんとか、適当に返事をする。

 魔術師が今夜来る目的は一つである。

「早い時間なのね」
「大きな嵐が来る。こんな時に港と城下に設置している要石の調子が悪い」
「要石?」
「魔力を注入している石で、結界や防御の魔術が込められている石のことだ。波風を防ぎ、嵐の被害を最小限に抑えるようにしている」
「この石も、要石なの?」
 
 わたしは振り返り、ずっと髪をいじっていたシャディーンの手を取る。
 その指にはどの指にも石の指輪がはまっている。

「これは今はただの石。いわば予備の石で、王城の要石が作用しなくなった時に、要石としてすぐに使えるように持っている」
「書庫の水盤の石のようなもの?」
「そうだ。奥の書庫に入ったと思ったが、魔術関係の本を借りたのか?」
「わかるの?」
「君が結界を越えた時はわかるが、水盤で何を借りたかまではわからない」

 ベンガラで染めた本は、枕の下に隠している。サイドテーブルには「魔術のかけ方」という本と「ロスフェルス帝国の歴史」が重ねて置いている。

 シャディーンの手を取りベッドに誘う。
 ベッドの端に腰を下ろした。
 

「キスを……」

 両腕をのばすと、シャディーンはベッドの端に膝をつき、腕の中に吸い込まれるように体を寄せ、髪の中に指を差し入れた。
 じっとわたしの目を見つめる。
 はじめのころのように、既に魔術を込めた青いものを口移しをするのではなく、呪文を唱えながらキスをするようになっていた。シャディーンの髪色に似た銀色の魔術紋様(クルアーン)が体の中で小さく弾けながら広がり、細胞一つ一つに染みわたる。
 ふわっと浮き上がるような快感がある。
 シャディーンにとっては魔術の口移しかもしれないが、わたしには濃厚なキスである。 

 舌を伸ばすと熱い舌が絡まり吸い上げられた。
 気持ちよさにため息が漏れるのを、男は飲み込んだ。 
 男は魔術を与え、わたしは快感を返す。

 じっくりとなじませるように、シャディーンとわたしは十分に長い間唇を重ね合わせる。
 男が離れようとする気配に、その首と、胴に腕を絡ませて引きとどめた。
 
 この世界に来た時、シャディーンが青い何かをわたし自身で飲ませようとしたのを覚えている。
 本当は口移しでする必要なんてない。
 シャディーンは、数ある手段の中でそうしたいから、唇を重ねるのだとわからないほど、わたしは初心ではない。
 呪文をつぶやく声色が、変わるのだ。
 わたしはキスをしているとき、男の体が男として反応しているのを知っている。
 呪文は途切れがちに続けるが、それでも終わる。
 離れようとするぬくもりを、わたしは追いかけた。

「……もう少し、わたしのそばにいて。この世界に頼れる存在はあなたしかいない」
「だけど、行かなければ」
「最近、疲れるの。疲労回復の治癒をお願い。嫌な咳がでるの」
 
 そういったとたん、喉がいがらっぽくなり咳が出た。
 魔術師はわたしの元にとどまった。
 再びわたしの広げた腕の中に吸い込まれる。
 青灰色の目に、心配げな色が混ざる。

 ルシルス王子も他の者たちも、疲労回復やささいな怪我で彼をわずらわせるのがはばかられるというが、シャディーンはわたしの頼みならばなんでも聞いてくれる。
 嫌な顔をされたことがない。

 わたしを大事にするのはジュリア姫のためだということは知っている。
 異世界から召喚された者は30日から1年の間に不可解な死を遂げている。 
 おそらくわたしも何もしなければそうなる。
 だから、シャディーンはわたしの体を常に気遣っている。

 わたしは生きたい。
 生きて元の世界に戻りたい。
 貴文が美奈を選んだその後の世界だとしても。
 わたしは彼氏に見捨てられた女として憐れまれたとしても。
「友人の彼を奪ったんだから、その彼に裏切られても自業自得よね」
 なんてささやかれるとしても。

 体の調子を見ようとする男の手を取り胸に押し付ける。
 王妃がはしたないという、この世界のレディにしては短いスカートの脚をその腰に押し付けた。
 
「駄目だ、樹里。煽るな。俺は君に対する責任を感じているとはいえ、愛することはできない」
「わたしは似ているのでしょう?いつもわたしの髪に触れるのは、姫の髪質に似ていると思っているのでしょう?姫には触れられないから、わたしに触れるのでしょう?3000世界の果てに、たった一つ見つけた存在がわたしだったのでしょう?そのわたしがいいと言っているの」

 男はわたしの目から逃れるように目を閉じた。
 だけどそれは、常人には見えない、光り輝いているという命の輝きを、心の目で感じるだけに過ぎないのではないの?

「そうだ。俺は、ジュリア姫の損なわれる前の、光り輝く魂と似た存在を時間空間を越えて探し続けた。君は、ジュリアと似ていた。だけど、ジュリアと違って磨こうともせず、生まれ持ったその価値を知らず、君の光に引き寄せられる者たちを持て余していた。いくつもの強い絆が君を引きとどめ、君自身もつないでいた。だけど、あの時、あの瞬間だけは、君を世界にとどめようとする娘を男が阻止したため、また君はあの瞬間自分を含めた世界に絶望し呪ったため、絆が緩み、隙ができた」


 美奈と貴文のことだ。
 わたしではなく、美奈を助けようと冬の川に飛び込んだ彼氏だと思った貴文に、わたしは絶望した。
 わたしはぽかりと胸に空いた空洞を埋めようと、シャディーンの頭をかきいだく。
 熱い唇と息が胸に落ちる。

「俺の待ち望んでいた、つけ入る隙が。手を伸ばし、捕まえ、引き寄せた。ずいぶん長い間、ずっとこの目で君を見たかった。同じ魂、同じ輝き、磨けばさらに光り輝く、美しき娘。それが藤崎樹里、君だった」
 その言葉は愛の告白のようにも聞こえる。
「あなたの姫は、事件が起こる前あなたの恋人だったの?」
「いや、ジュリアは、孤高の美しき姫。多くの男たちからの求婚をはねのけ続けた。彼女はまだ17歳で、誰のものにも、俺のものにもなることはない」
「それでも、ロスフェルス帝国の皇子は婚約者にと求めたのでしょう?」

 胸にはう唇の動きが止まる。

「そうだ。俺のものにならないのなら、そうなら、いっそ……」

 ぎりりと男は奥歯をかみしめた。
 男の体を通して欲望と絶望が、ずしりと重くのしかかった。
 そうなら、いっそ。
 その次は何を言おうとしたのか。
 

「わたしなら、あなたを愛せる。ジュリアがあなたに与えることはない喜びを、喜んで与えてあげることができる。だから……」

 だから、ジュリア姫ではなくてわたしを助けて。
 わたしなら男の欲望に、応えるができる。
 同じ魂というのなら、わたしを求めてほしい。
 壊れてしまったジュリアではなく、わたしが生きられる道を探してほしい。


 脚の間に膝が割り入り押し開く。

 美奈から色仕掛けで奪った貴文は、結局、最後の最後で美奈を選んだ。
 シャディーンも、目覚めない姫ではなくわたしを選べば、わたしをジュリア姫の代りに抱く度に、後ろ暗い後悔を味わい、最後の瞬間にはジュリアを選ぶのかもしれない。

 だから、こんなことすべきじゃないとわかっている。
 それでも、この肉体で、わたしにあるものすべてを利用して、色仕掛けで男を虜にしてでも生きられる可能性に縋りたいのだ。
 自分が生きるために努力して、結果、誰かが犠牲になるのはしょうがないじゃないの。
  
 冷たい美貌が欲望に我を失う姿に背筋がしびれた。
 シャディーンを愛しているかといえば、わからない。 
 わたしは愛を知らない。
 この瞬間、この世界でもわたしは悪女なのだと思った。
 そして、きっと、同じ失敗を繰り返す。
 

 次第に激しくなる悲鳴のような風鳴りは、きしむベッドとわたしの喘ぎをかき消した。



 

 


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