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第一章 満月と新月の夜
第2話 異質な男
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砂浜に打ち寄せる穏やかな波の音に、風鈴の音のような、リーンという涼やかな音が混ざる。
その音は頭蓋骨内部に響く。
いつから、そしてどこから聞こえてくるのだろうか。
もしかして、目を覚ましたときから聞こえていたのかもしれなかった。
潮の匂いを意識しなければ、その香りに嗅覚がなじんでしまっていて、意識しなければ気が付かないようなものだ。
ずるずると地を這いながら足元をすり抜けるような気配があり、悲鳴が喉をついた。
「蛇!?」
本当のところ、暗がりの中で正体はわからない。
海辺に生息する何か得体のしれないモノが闇の中に潜んでいて、わたしを驚かせてその反応を見て遊んでいるのか。
はじめて恐怖を覚えた。
すぐ先の、黒々とした嵩低い草木の茂みからわたしに向かって声がかかる。
「……〇×□〇、△■!」
耳がおかしくなったのか、恐怖のせいなのか。
言葉の音をつかみきれない。
だけどその言葉のいわんとするところはわかる。
お前は誰だ、どうしてここにいる、立ち去れ!
とでもいうような、不審者を威嚇する男の声。
ここは禁猟区で、わたしは踏み入れたらいけないところに立ち入ってしまっているのか。
わたしは気迫に押されてにじり下がった。
革靴の底にたまった水が厚手の靴下と足指の間でたぽんと揺れる。
闇のなかから舌打ちとともに、不意に明かりがともされた。
闇に慣れ始めた目にはまぶしすぎた。
何度も瞬きをしながら指の間から見た。
わたしを照らすのは懐中電灯ではなかった。
野外キャンプに使うようなランタンを手に下げた男が、闇のなかからくっきりと浮かび上がっていた。
その男を、シャツにジーパン姿をなんとなく想像していたわたしは、頭から体を覆うマントですっぽりと覆われた異様な風体に、入ってはいけないと知らなかったのです、すみません、ここはどこですか、とか助けてくださいとかなんとか、とっさにいうべき言葉をすっぽりと失念してしまった。
何よりもわたしをたじろがせたのは、外国人の風貌である。
鼻梁がくっきりとしていて、青黒い水晶のような目は険しく、肌は余分な色素が抜かれたように白い。
スクリーン越しであればうっとりと眺めたくなる眉目秀麗な容貌。
日本にも観光客の外国人はいつでもいるし、漫画にでてくる旅人風のマントを羽織ったコスプレ好きもどこにでもいるのに、わたしはまるで、日本ではなくて、目覚めたら別世界にいるかのように思えたのだ。
鋭い視線が改めてわたしの足先から顔に上がっていく。
わたしが男を異質だと思っているように、男も同様にわたしの様子に驚いているようだった。
「ラ イマーム ジャディーン 〇△△□、ラーララソ、□×ハ□!!*、アルメリア、レラソ、ジュリア、●□簡%!△■……、……チッ」
英語でもドイツ語でもなく、わたしの知らない言語を口にする。
わたしを驚かせないように、探るような、なだめるような低音である。
手の届きそうなところで足を止めた。
男がそれ以上近づこうとしてもわたしは同じだけ後ろに下がるから、それ以上近づいても無駄だった。
最後はまた舌打ちである。
言葉の響きやその顔立ちほどには上品な男ではないようである。
わたしがまったく言葉を理解していないことにイラついていた。
こんなわけのわからない状況で、わけのわからない理由で異様な恰好をした外国人に、言葉が通じないからといって一方的に腹を立てられたわたしも、怒りがこみ上げる。
そもそも全身濡れそぼって、肩までの髪の毛から、とめどなく水が滴るのが気持ち悪い。
鋭い視線がわたしの顔から離れないのも気持ち悪い。
不可解で不可思議な状況に、この男の登場でさらに不可解さの厚みが増している。
男は懐に手をいれてごそごそと探り、何かをゆっくりと引き出した。
その指先には青く発光する第一関節ほどの大きさの何かがつままれていた。
赤(ルビー)やら青(サファイア)やら黄色(トパーズ)やらの輝石の指輪が悪趣味にもどの指にもはまっている。
わたしの目を用心深く見つめながら、自分で自分の口の中に入れるふりをして、手を差し伸ばして動きを止める。どことなく必死さが伝わる。
万国共通のジェスチャーである。
「受け取って、それを食べろっていうの?初めて会って、一番にそれ?」
「●△□」
男は何かいいながら頷いた。
わたしの言葉が理解できているようだった。
わたしは受け取ろうと手をのばすと、安堵の表情が男の顔に浮かぶ。
「ねえ、その青い菓子?は相当やばいものでしょう?それを食べたら、気を失うか、抵抗することができなくなるんじゃないの?」
言葉とは裏腹に、微笑んでみせた。
男の手の緊張が緩み、わたしの笑みに引くついた笑みを返そうとした。
それで、日本語を理解しているわけではないことがわかった。
彼も声の調子からわたしの言葉を推測しているだけである。
差し伸ばされた手を手力で力いっぱいなぎ払った。
青い菓子が宙を飛ぶのもかまわない。
「□!@55!!(ああ、このバカ!何をするんだ!貴重なものなのに!)」
男は焦って叫んだ。
「馬鹿なのはそっちでしょ。夜中に一人でコスプレしている怪しいヤツから差し出されたものを、ありがとうって口にするはずないじゃない!前後不覚に陥っている間に、犯されて、まわされて、閉じ込められて、身代金を請求されて、殺されて、内臓売られて、どこぞの湾にコンクリ詰めにされて沈められるのがオチではないの!それから、あんたわたしの好みの顔よ!!」
海とは逆方向の、闇の中へと走り出した。
足が足首まで砂にのめり込んでも必死で足を運ぶ。
海から見た家の明かりの方向を見当づけた。
無我夢中とはこのことだ。
砂地は固くなり、イラクサが生い茂る。
森の中に入れば、足元は地面から張り出した根が蛇のようにくねり絡まり、足元が一層おぼつかなくなる。
獣の咆哮が、ほうぼうから仲間の声に呼応するように聞こえてきた。
背後にはマント男。
森には肉食の獣。
海には正体不明の蛇のような気配があって……。
これってかなり、やばい状況じゃないの?
獣か人か。
二者択一だとしたら、生きたままはらわたを食われるよりも、男のいう通りにした方がよかったかなと若干後悔する。
恰好だけが変なだけで、あの青い塊は違法薬物でもなくて、ただのミント飴だった可能性もある。
それに、真夜中の海辺で出会わなければ、顔立ちはハリウッド俳優の少し影のある美男子の役どころが似合いそうな、いい男だった。
あの男は、わたしの置かれた不可解な状況を、すぱっと解決してくれたかもしれなかった。
首を振った。
直感が告げる。
あの男は異質な存在。
本能的な危険を感じる。
あいつから逃げて、誰か彼でない人に助けを求めるのが正解なのだ。
どんな苦境でも必死にあがけば生き延びることができるはず。
藤崎樹里は、体は頑丈。
心も丈夫。
何キロも冬の川を流されてもこの通り、生きているのがその証拠。
「あの変な男さえふりきったら何とかなるわよ!ここから逃げるのよ、頑張れ樹里!」
わたし自身を鼓舞した。
足を何かに引っ掛けた。
冷たくてやわらかな感触。砂浜で感じた気配に似ている。
巨大な蛇の胴体のようなもの。
朽ちかけた木の根だったのかもしれないけれど。
盛大に転んだ。
地面に打ち付けた腕と膝が痛くてしびれた。
がさりがさりと草を踏む音が近づいてくる。
見なくてもわかる。
あのコスプレ、イケメン男だろう。
体を起こせなかった。
もう逃げられない。
わたしは再び気を失ったのである。
その音は頭蓋骨内部に響く。
いつから、そしてどこから聞こえてくるのだろうか。
もしかして、目を覚ましたときから聞こえていたのかもしれなかった。
潮の匂いを意識しなければ、その香りに嗅覚がなじんでしまっていて、意識しなければ気が付かないようなものだ。
ずるずると地を這いながら足元をすり抜けるような気配があり、悲鳴が喉をついた。
「蛇!?」
本当のところ、暗がりの中で正体はわからない。
海辺に生息する何か得体のしれないモノが闇の中に潜んでいて、わたしを驚かせてその反応を見て遊んでいるのか。
はじめて恐怖を覚えた。
すぐ先の、黒々とした嵩低い草木の茂みからわたしに向かって声がかかる。
「……〇×□〇、△■!」
耳がおかしくなったのか、恐怖のせいなのか。
言葉の音をつかみきれない。
だけどその言葉のいわんとするところはわかる。
お前は誰だ、どうしてここにいる、立ち去れ!
とでもいうような、不審者を威嚇する男の声。
ここは禁猟区で、わたしは踏み入れたらいけないところに立ち入ってしまっているのか。
わたしは気迫に押されてにじり下がった。
革靴の底にたまった水が厚手の靴下と足指の間でたぽんと揺れる。
闇のなかから舌打ちとともに、不意に明かりがともされた。
闇に慣れ始めた目にはまぶしすぎた。
何度も瞬きをしながら指の間から見た。
わたしを照らすのは懐中電灯ではなかった。
野外キャンプに使うようなランタンを手に下げた男が、闇のなかからくっきりと浮かび上がっていた。
その男を、シャツにジーパン姿をなんとなく想像していたわたしは、頭から体を覆うマントですっぽりと覆われた異様な風体に、入ってはいけないと知らなかったのです、すみません、ここはどこですか、とか助けてくださいとかなんとか、とっさにいうべき言葉をすっぽりと失念してしまった。
何よりもわたしをたじろがせたのは、外国人の風貌である。
鼻梁がくっきりとしていて、青黒い水晶のような目は険しく、肌は余分な色素が抜かれたように白い。
スクリーン越しであればうっとりと眺めたくなる眉目秀麗な容貌。
日本にも観光客の外国人はいつでもいるし、漫画にでてくる旅人風のマントを羽織ったコスプレ好きもどこにでもいるのに、わたしはまるで、日本ではなくて、目覚めたら別世界にいるかのように思えたのだ。
鋭い視線が改めてわたしの足先から顔に上がっていく。
わたしが男を異質だと思っているように、男も同様にわたしの様子に驚いているようだった。
「ラ イマーム ジャディーン 〇△△□、ラーララソ、□×ハ□!!*、アルメリア、レラソ、ジュリア、●□簡%!△■……、……チッ」
英語でもドイツ語でもなく、わたしの知らない言語を口にする。
わたしを驚かせないように、探るような、なだめるような低音である。
手の届きそうなところで足を止めた。
男がそれ以上近づこうとしてもわたしは同じだけ後ろに下がるから、それ以上近づいても無駄だった。
最後はまた舌打ちである。
言葉の響きやその顔立ちほどには上品な男ではないようである。
わたしがまったく言葉を理解していないことにイラついていた。
こんなわけのわからない状況で、わけのわからない理由で異様な恰好をした外国人に、言葉が通じないからといって一方的に腹を立てられたわたしも、怒りがこみ上げる。
そもそも全身濡れそぼって、肩までの髪の毛から、とめどなく水が滴るのが気持ち悪い。
鋭い視線がわたしの顔から離れないのも気持ち悪い。
不可解で不可思議な状況に、この男の登場でさらに不可解さの厚みが増している。
男は懐に手をいれてごそごそと探り、何かをゆっくりと引き出した。
その指先には青く発光する第一関節ほどの大きさの何かがつままれていた。
赤(ルビー)やら青(サファイア)やら黄色(トパーズ)やらの輝石の指輪が悪趣味にもどの指にもはまっている。
わたしの目を用心深く見つめながら、自分で自分の口の中に入れるふりをして、手を差し伸ばして動きを止める。どことなく必死さが伝わる。
万国共通のジェスチャーである。
「受け取って、それを食べろっていうの?初めて会って、一番にそれ?」
「●△□」
男は何かいいながら頷いた。
わたしの言葉が理解できているようだった。
わたしは受け取ろうと手をのばすと、安堵の表情が男の顔に浮かぶ。
「ねえ、その青い菓子?は相当やばいものでしょう?それを食べたら、気を失うか、抵抗することができなくなるんじゃないの?」
言葉とは裏腹に、微笑んでみせた。
男の手の緊張が緩み、わたしの笑みに引くついた笑みを返そうとした。
それで、日本語を理解しているわけではないことがわかった。
彼も声の調子からわたしの言葉を推測しているだけである。
差し伸ばされた手を手力で力いっぱいなぎ払った。
青い菓子が宙を飛ぶのもかまわない。
「□!@55!!(ああ、このバカ!何をするんだ!貴重なものなのに!)」
男は焦って叫んだ。
「馬鹿なのはそっちでしょ。夜中に一人でコスプレしている怪しいヤツから差し出されたものを、ありがとうって口にするはずないじゃない!前後不覚に陥っている間に、犯されて、まわされて、閉じ込められて、身代金を請求されて、殺されて、内臓売られて、どこぞの湾にコンクリ詰めにされて沈められるのがオチではないの!それから、あんたわたしの好みの顔よ!!」
海とは逆方向の、闇の中へと走り出した。
足が足首まで砂にのめり込んでも必死で足を運ぶ。
海から見た家の明かりの方向を見当づけた。
無我夢中とはこのことだ。
砂地は固くなり、イラクサが生い茂る。
森の中に入れば、足元は地面から張り出した根が蛇のようにくねり絡まり、足元が一層おぼつかなくなる。
獣の咆哮が、ほうぼうから仲間の声に呼応するように聞こえてきた。
背後にはマント男。
森には肉食の獣。
海には正体不明の蛇のような気配があって……。
これってかなり、やばい状況じゃないの?
獣か人か。
二者択一だとしたら、生きたままはらわたを食われるよりも、男のいう通りにした方がよかったかなと若干後悔する。
恰好だけが変なだけで、あの青い塊は違法薬物でもなくて、ただのミント飴だった可能性もある。
それに、真夜中の海辺で出会わなければ、顔立ちはハリウッド俳優の少し影のある美男子の役どころが似合いそうな、いい男だった。
あの男は、わたしの置かれた不可解な状況を、すぱっと解決してくれたかもしれなかった。
首を振った。
直感が告げる。
あの男は異質な存在。
本能的な危険を感じる。
あいつから逃げて、誰か彼でない人に助けを求めるのが正解なのだ。
どんな苦境でも必死にあがけば生き延びることができるはず。
藤崎樹里は、体は頑丈。
心も丈夫。
何キロも冬の川を流されてもこの通り、生きているのがその証拠。
「あの変な男さえふりきったら何とかなるわよ!ここから逃げるのよ、頑張れ樹里!」
わたし自身を鼓舞した。
足を何かに引っ掛けた。
冷たくてやわらかな感触。砂浜で感じた気配に似ている。
巨大な蛇の胴体のようなもの。
朽ちかけた木の根だったのかもしれないけれど。
盛大に転んだ。
地面に打ち付けた腕と膝が痛くてしびれた。
がさりがさりと草を踏む音が近づいてくる。
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