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第5話 王座の行方

66、解放

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高齢の医者と、無口な護衛が守る扉には食事を運んだり、部屋を整えるごく少数の使用人以外訪れるものがいない一週間が過ぎようとしていた。
ほぼ軟禁状態の住人は日が落ちてから護衛と共に部屋を出て、人払いを済ませた岩場の温泉に浸かり、小一時間ほどで戻ってくる。
フードを目深に被る彼は、終始無言である。
それが、唯一の開かずの扉の住人の外出だった。
あらゆるものが寝静まり深々と夜の帳が落ちる頃。その扉の前に人影ひとつ、小さな灯りを手にして近づいた。
護衛はその訪れた者が誰か分かると立ち上がった。
だが、その影は護衛を無視して部屋に入っていく。
この部屋には彼とあからじめ決められている予定の者以外が入ろうとすれば切り捨ててもよいと、護衛は命令されていた。



シディはラズが移された部屋に慣れたように滑べり入った。
中腹の館の中でもシディの部屋とは階が違うが以前よりも近い部屋である。
ぐるりと部屋を見回した。
以前と同様に大きな部屋で、大きな窓。窓はベランダに続くが、その下は絶壁である。
この部屋の客人の一日の行動報告を毎晩目を通すために、今日の起きた時間、食べたもの、読んだ本、体の怪我の治り具合もすべて把握していた。
客人は日に日に活動的になっていた。
といっても部屋の中で、ひとりで黙々と体を動かすぐらいであるが。

ようやく、シディは部屋の奧のベッドに近づいた。
手にした灯りも直接寝入る顔に当てないように下に向ける。
静かな寝息。
のろのろとシディの手がラズの頬に吸い寄せられたが、届かない。
力なくだらりと体側に落ちる。
シディは立っていられなくなって、ベッド横の椅子に腰を降ろした。
もうじき、ボリビアに冬が訪れる。
真冬には毎年積雪も珍しくない、有数の豪雪地域である。
来るべく厳しい冬を生き延びることが培った性質により、ボリビア人は勤労に励み、かつ勤勉である。

シディはラズの手足がシーツからこぼれ出ているのを、シーツを優しく整えてかけ直す。まだ夏用のシーツであるが、そろそろ水鳥の羽毛が沢山入った掛け布団を用意する必要があった。

ラズの手をシーツの中に入れ直そうとして、手首のブレスレッドごとつかんでしまう。
黒曜石がガラス質に光るそれは、己のものであるという印である。オブシディアンの印があれば、大抵の厄介ごとからは守られるはずであった。
だが、守るべき愛しいものを意識を失わせるほど凌辱したのは他ならぬ己だった。
ラズを前にすると、あの時の蒼白でぐったりと動かない壊れた人形のようであったラズをみてしまう。
ラズは脳震盪を起こしていて、抵抗できない状態で酷く揺すられた。
生きてはいても体に不随が残るかもしれない。言語障害が残るかもしれない。
最悪目覚めないかもしれない。
医者の言葉に背中は粟立った。
意識を取り戻すまでの間、シディは何も手がつけられなかった。やるべきことも手につかず、部屋で己を責めつづけ、ラズの回復をひたすら祈り続けた。

だから、起きられましたよ、会話も大丈夫!体も動かせるようです。
と張りつかせたテーゼから報告を受けたとき、心より安堵し、神に感謝をしたのだった。

テーゼは、シディの感情を本人が制御不能になるほど狂わせるラブラドの美しい元王子を、囲うか遠くに手放すかを求めていた。
囲うのは、王にも誰にも奪わせないため。
シディだけを見て、話して、愛する。
ラズの世界は己だけになる。
その美しい青灰色の瞳が写すのは己だけ。
それはたまらなく甘美な媚薬のような誘惑だった。
もうひとつの選択肢は、逆に、己の心をかき狂わすラズを手の届かないところへ手放すこと。
テーゼは中原を超えたさらに遠くへと思っているようだが、手放すとすればラズの安全が確実に保証されるであろうラブラド国のジュードがいいように思われた。
彼はラズのいとこで、双子の妹の夫。
現ラブラド王。
彼の元に返すのは、王子には戻れないだろうが本来のあるべき形に戻すのに近い。
そうすれば、殺してしまうほどの激情から解放されて、ラズをこれほど愛する前の、怜悧な己に戻せるだろうと、シディは思い込もうとする。
大事なことは、これ以上、愛する者を傷つけないことだった。

どちらの選択肢を選べばいいのか。
シディは迷いながらも決断をしようとしていた。

自分はどうしたいのか。
問いかけると、
誰にも目に触れさせず、一生監禁しラズを完全に己のものにせよ!
どす黒い欲望の固まりが、嬉々として囲へと迫る。
そうすれば、嫉妬にかられることもない。
平穏が訪れる。
愛する者を自分だけにするのだ!

だが、シディは知っている。
その声は、ラズを凌辱した時に己を支配した声であった。
なら、その声がとろけるように甘くそそのかしたとても、もうひとつの選択肢を選ぶことを決断する。

シディはそっと眠るラズの手首の己の印の鍵を回した。
かつん。
小さな音を立て、ブレスレットはぱっくり開いて愛しい人を解放した。
シディは温もっているブレスレットを握った。
これはもう処分すべきであった。
だが、シディはそれをラズから取り上げることができなかった。
それはシディの愛そのもののように思えた。
もう、奴隷のように縛りはしないが、かといって、彼から完全に奪い去りたくはなかった。
シディの恋心はこの元王子がどこにいようとも彼と共にあるのだから。

「酷いことをして傷つけてごめん。本当に心から愛している」

シディはラズの手の甲に長い間、唇を押し付けた。
吸い味わうのではなく、ただラズを感じようとする口づけ。
空が白んでくる。
夜明けももうじきだった。

「ラズワード王子、あなたを解放する」
オブシディアンは手の甲に、己の魂を吹き込むように囁いた。
己からの解放は、ラズに与えられる最後で最高の贈り物だと思えた。
ラズはずっと自由になりたいと訴えていたのではないか?
それは同時にシディにとっては身を削がれるほどの苦しみであったが。
止めどなく涙がラズの手の甲を濡らしていく。

夜明けを告げる王の温室で飼っている鳥。
微かな衣擦れの音をさせながら、シディは部屋を出たのだった。
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