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曽木の滝で水遊び
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2023年10月18日 水曜日
14時00分
大口盆地の中央を川内川とその支流が流れた所に、曽木の滝という観光地がある。
滝というより、岩がゴツゴツした落差のある流れとというイメージの場所だ。
鹿児島県人のナイアガラとも言われている。秋は紅葉が綺麗だ。
14日、マコトは「夕食に連れて行って」とマサヤにお願いしたが、水の流れが強い川辺を紅葉を見ながら散歩するのは夕方では危険だ。
時間を昼過ぎにした。
マサヤの話では水は最高位で、聞けば芋焼酎発祥の地らしい。マコトは運転をするので焼酎は飲めないし、マサヤも酒は飲めない。
「私ね この前の金曜日に看護師長になる事が決まったんです 正式には23日の月曜からですけどね」
マコトは枝の先にある紅葉に手を伸ばすが、身長が156センチと平均よりやや低めの彼女の手には届かない。肩をすくめて手が届かないことを照れる様な顔をして、マコトが振り向くとマサヤが居ない。
「えっ?」マコトはマサヤを直ぐに見つけたが、彼は少し離れた岩の上に体をべたりと貼り付けていた。まるで動物が温かい岩で冷えた体を温めている様だ。
一瞬だけだがマサヤが体調を崩したのかと思ったが、別の理由があると直ぐに理解した。彼の突飛な行動も脳神経外科で色々な患者を見てきたマコトには予測が出来てきた。入院患者には何かに関心を持つと、自分の周りにある他の事が無関心なものとなり関心事に注意が注がれる人は多い。ただ注意しなくてはならないのは、そういった人が怪我をしたり他者を巻き込んだ行動をしないかだ。マコトは足元に気を付けながら、マサヤに近付いた。
「マサヤさんは な~に~を しているのかな?」苦笑いとなったマコトはマサヤの視線を見た。滝の周囲は水の流れが速いが岩の周囲は流れが停滞する部分がある。彼はそこを見つめていた。
「水面より少し低い所に水草があって気泡を蓄えているよ 命を感じるな~」マサヤはマコトを振り向きもせずに、水草の説明をしている。マコトもそっと水面の下を覗くと、確かに水草がある。しかし気泡を確認するには、もう少し顔を近づける必要がある。マコトは岩に膝をつきマサヤの隣で両手もつけて覗き込むと、気泡が見えた。
水の中で酸素が作られているのだ。水も酸素も生命には必要だ。原始の地球で酸素を長い時間作り続けてきた植物たち、生命の源がここにある。
「綺麗ですね 癒やされる」2人は暫く眺めていたが、マコトはハッと気付いた。自分の話を全然聞いてくれていない。マコトは岩の上で正座をするともう一度、マサヤに自分の昇進話をした。
「あの…私 脳神経外科の看護師長になるんですよ」マコトは自分の話がマサヤの注意から外れてしまったことに少し腹を立てている。
「そのままにしておこう」とマサヤは水面に向かって言った後に、起き上がると岩の上にあぐら座になった。彼は長い足を器用に曲げて、両手は膝の上にある。マコトとマサヤは岩の上で狭い居間兼、食堂兼、寝室に居る、昔の夫婦のような状態となった。無いのはちゃぶ台だけだ。
「看護師長? そう言えばマコトさんは仕事で戦っているとか言っていたよね 仲間を守るって」
彼はマコトの使命とも言える戦いを覚えてくれていた。嬉しい。マコトの小さな苛立ちは直ぐに喜びとなった。
「そう『勝ち』よ けど大事なのはこれからなの 皆をまとめて 若い人達を育てて 私も自身も成長する 時代は変わってもう戦いは無し」
戦いは勝利しても疲れる。人育ても教える人間は情報の受け手よりも2倍も5倍も勉強するので、労力は伴う。しかし自分の経験を懸命に学びとろうとする若手達の目は、マコトの意欲を高める。そして自分ももっと学んで知識を深めていく。勝ち上るのではなく、自己実現と言っても良いだろう。
15時00分
2人が滝のそばで過ごして1時間も経っていた。マコトの考えていたお散歩コースは、滝を見て、紅葉の木々達の前を通り、食堂に向かう予定だった。所要時間はマサヤの為の休憩を入れても30分だ。マサヤが選んだ曽木の滝の近くにある小さな食堂。マコトが予約をしたのだが、予約時間は過ぎている。マコトは直ぐにスマホを取り出すと、食堂に電話をした。
「あの…14時30分に予約をしていたタカハシですけど ごめんなさい時間が遅れまして 今から急いで10分くらいでそちらに着きますがよろしいですか?」マコトが尋ねると、食堂の主は席は確保しているので急がずにゆっくりと来てくださいと返事をしてくれた。「スイマセン とにかく向かいます」スマホを手にしながら正座をしていたマコトは電話の向こうに居る食堂の主へ頭を下げていた。目の前にいない相手に頭を下げる姿は大昔の光景だが、時代が変わっても人への敬意の現れとして残っている。
「大丈夫だった?」体の大きなマサヤがちょこんと座っているマコトの顔を覗き込んだ。元はと言えばお散歩コースから外れたマサヤの突飛な行動が起こしたトラブルだが、彼の顔、彼の持つ空気に触れているとマコトは怒る気にならない。少しムッとしても直ぐに心が落ち着く。無邪気さ…マコトの記憶の奥底にあった看護学生時代の自分を思い出した。小児科にあった子供の支援教室に行った時の話だ。
「センセ~イ 看護婦さんだよ」子供たちが少し年輩の保育士の女性に話しかけた。
マコトの学生時代には「看護婦」という言葉は使われていない。それでも古い言葉は簡単に消えてしまうわけではない。時代遅れな言葉の「看護婦」という言葉が、使われていた。真っ直ぐな性格のマコトは「看護婦じゃなくて 看護師です!!」とキツめの言葉を子どもたちに言ってしまった。言葉の習得が遅い子どもたちへ、せっかく覚えた言葉を否定してしまったのだ。その言葉が全く的外れで他者を傷つける言葉ではない。柔軟に対応すべきだったが、若いマコトは下手だった。
「子供たちは言葉を覚えている成長過程なの もう少し理解を深めてね」保育士の女性の口調は優しかったが、その意思は学生であるマコトへの厳しい責だった。マサヤとはじめて出会った時、自分の名札に書かれたひらがな表記の名を声に出された時、マコトは怒ってしまった。職場で人と交わり、少しは柔軟な思考を学んだと思っていたが、真っ直ぐ過ぎるマコトの性格は簡単には変わらないようだった。
しかしマサヤは子供と違い、傷つき心の壁を作る人間ではない。無邪気さと大人としての寛大さを持つマサヤは魅力的な男性だった。
「すこ~しだけ 急ぎましょ お店の人がまだ席を空けてくれてるって」マコトは立ち上がり、あぐらをかいているマサヤに手を伸ばした。「うん」と言ってマコトの手に、自分の手を伸ばしたマサヤだが、途中で手を引っ込めてしまった。
先程までゆったりと寛いでいた彼とは違う、何かがマサヤの記憶にある。自分と触れる事で何か、辛い過去を思い出すのだろうか?マコトにある看護師の直感がマサヤの過去を反読み解こうとしたが、直ぐに止めた。
「足元に気をつけてゆっくり立ち上がるのよ 頭がふらつく時は私が支えるから」マコトは足を広げて、マサヤがいつ倒れても支えられる様に構えた。
「ありがとう 大丈夫だよ」マサヤの低くて落ち着いた声がマコトが張っていた緊張を解いた。
トラブルよりも不思議な縁を大事にする。今はそれが一番幸せなのだ。2人は並んで紅葉の中を歩いていくが、身長が156センチのマコトと身長が182センチのマサヤとでは身長差が大きい。しかし心の距離は確実に狭くなっている。
「長生き食堂」良質な水と土地で育てた野菜、鶏、豚が振る舞われる食堂だ。観光地なのでイタリア語でも使った店名なら、もう少しお洒落に観光客へ伝わるかもしれない。ストレートで遊び心の無い日本語で着けられた店名だが、それが反対に目立つのかもしれない。
オーダーはスマホでチェック済みだ。ふたりとも洋風豚丼を頼んだ。ガラスのコップに注がれた水を見つめるマサヤの目を、マコトはじっと見ていた。無邪気さのないむしろ鋭く厳しさを持つ彼の目は水の透明度、照明からの光の屈折率などを見ているのかもしれない。そして水を口にすると、味、質感、温度、そしてその背後にある微細な成分までも一つ一つ感じ取っていて、まさに機械を越えたプロフェッショナルだった。
「この水の硬度は100位 亜鉛は1 鉄は0.08 ヒ素やカドミウムは感じない」マサヤが口に出した言葉の中には、誰でも知る様な有毒物質として聞かれる名前もある。そもそも科学分析など普通なら食欲が無くなるものだが、薬剤に囲まれた仕事をしているマコトには耐性があった。マコトはマサヤの分析を傾聴し続けたが、彼の表情は笑顔でいた。
「美味しいんだ」マコトが簡単な一言で締めくくると、マサヤは「うん 美味しいよ」と答えた。
人間に戻ったマサヤの顔にマコトはホッとし、嬉しくなった。
洋風豚丼が来た。クリームソースで煮た豚肉が御飯の上にかけてある。ソースはとろみが強く、ご飯の中に染み込まずにトロトロと卵のように表面に広がっている。
「栄養取らなくちゃね」マサヤは箸を右手で持つと下から左手を添えて持ち替え、右手がくるりと回転し箸を構えた。そして丼を左手に持ち、箸で軽くクリームソースとご飯を絡めて口に入れた。本人には当たり前の動作なのだが、作法を知っている者の動きだ。マコトは医師の妻になる予定だった頃、花嫁修業の為に茶道で習った。彼の箸をよく見ると先端しか食べ物が付いていない。よく言う3センチしか使わない箸使いだ。
マコトもマサヤの洗練された動きに合わせて箸を取りクリームソースと肉、ご飯をつまみ取ろうとするが箸の先からズボッと5センチ程入ってしまった。その時に彼女がしまったと顔に出したからか、マサヤは「作法は要らないよ」と言ってくれた。
マコトはとにかくクリーム、肉、ご飯をパクリと口に入れた。するとクリームが舌の上でトロケて、噛むと肉の汁が舌に染み込んでいった。
「ん~っ」美味しさのあまりに、思わずマコトが声を出すと、マサヤは「素直な顔が見れて良かった」と笑った。
「ここはね肉だけじゃなくて 黒酢も美味しいんだよ 後で少し分けてもらおうね」ここのグルメはまだまだ深いらしい。
「分かるわ~鹿児島ってね『黒の文化』って言うんでしょ 私は上京した時にはじめて知った」マコトは県外から見た鹿児島の話をした。
「そうか そうだマコトさんは東京で働いていたって言っていたね それで…看護部で偉くなるとかだっけ?」マサヤは東京時代のマコトの話を覚えていたが、大病院の跡取り息子と恋人だった話は知らない。言っていない。
「そうよ 聖オルガ病院って大きな病院 看護部部長になる直前にコケたって話ね」マコトが説明するとマサヤが2回頷いた。細かい部分を思い出したのだろうか?
「実は…」マコトは東京時代の恋愛話をはじめた。マサヤにもっと自分を知ってもらいたかったからだ。
「それで院長の妻になって部長って…裏口は駄目だったのかな~」マコトは自分が持つコップの水を、店の照明に透かして言った。水には濁りはない。マコトは真剣に恋をした。しかしあの時、目的の為に手段を選ばなかったと、胸を張って言えるのだろうか?昔の自分の整理がつかない。
「部長になれなかったのは残念だったね けどマコトさんは部長になっていたら 裏口とかつまらない理屈は言っていなかったんじゃないかな 勝ちは勝ち でしょ」
「そう…ね けど負けたからここに居る あの時は負けたけど今は『勝ち』の先を見ている」マコトはこれから担う責務を正面から受けるのだ。
「俺も昔は学歴とか出世とか結婚とか 面倒くさい事を言われていたみたいなんだ 覚えていないけどね 俺もぶっ倒れてここに居る だから昔の面倒くさいことから離れることが出来たよ」
マサヤの過去、彼はサラッと言ったがマコトは「結婚」という言葉に反応した。自分の手が触れる事に彼が躊躇した理由がそこにあるのだろう。愛していた誰かとの辛い事があったに違いない。
しかし縁は不思議だ。東京に住んでいた頃に恋愛で辛い思いをした女と男が、鹿児島で出会って仲良くなった。見たところリハビリの時に若い女性スタッフに体を触れられても、マサヤは拒否する反応をしていなかった。しかしマコトの場合は違う。それは彼がマコトに対して、かつて彼が大切にしていた人と同じ感情を持っているからだ。
マコトもマサヤが辛い過去を乗り越えて、障がいと共存して生きている姿を尊敬し、彼の記憶の中に自分が居ることを嬉しく感じている。彼が好きなのだ。
そう言えば…
マサヤとマコトの昔の恋人とは年齢が同じで、2人とも実家は経済的にも社会的にも恵まれている。違いは生き方だ。マサヤは自由に生きているが、マコトの元恋人は親の決めた女性と結婚をした。元々医者になったのも親が決めた進路だったのだろう。
見た目は…そう、マサヤの方が「チョット良い男」だ。
マコトが豚丼を食べて質の良い水を飲むのを見て、マサヤは黒酢を頼んだ。なんと20年間熟成しているらしい。
「なめる程しか貰えないけど 価値はあるよ」マサヤに言われて、マコトはレンゲのように大きなさじに入った黒酢をなめた。酸味もあるがキツさはなく、深みがある。料理は花嫁修業で、ある程度はこなせたが、センスは持ち合わせておらず調味料の選び方も下手だ。しかしこれは黒酢とは全く別物だと、マコトにも分かる。
「本当にここは『黒の文化』よね 世界中で一番黒を愛する人達が鹿児島人なのかも」マコトは言った。
世間では黒歴史、ブラックリスト、黒魔術、人生も刑事捜査もオカルトに至るまで、黒はネガティブな表現に使われる。しかし鹿児島は違う。黒は高級の証なのだ。黒豚、黒砂糖、クロマグロ、黒薩摩(鹿児島焼き)等、とにかくランクが上な物を指す。
「俺は鹿児島県内の 色々な水を飲んで 時々他県に飛んではそこの水と飲み比べているけど 鹿児島の水はどこよりも美味しいよ」
2人は食堂を出た。10月だ17時近くなれば気温は下がる。マコトは気温の下がりを甘く見ており、ジャケットを持参していなかった。するとマサヤがスーツケースから薄手のダウンベストを出してきた。この一枚で全然違う。
「風邪ひく前に車まで速歩き」マコトはその場のノリでマサヤの肩をポンと叩くいてしまったが、彼は拒否反応はなくマコトの言う通りに速歩きで道を進み始めた。背が高いからか、マコトよりも速く彼女は小走りで追いかけていった。
車に乗ると直ぐにエンジンをかけて、霧島へと進路を定めた。もう暗い。
「じゃあ 帰りはアクセル踏んじゃう曲にしようよ」マサヤがスマホから車のアンプを通して流した曲は、大昔のエリート戦闘機乗り達の愛と友情を描いた映画の曲だった。
「ホント 飛ばしちゃうわよ」昔よりも整備された道路とはいえ高速道路ではない道を、マコトの車は加速していった。
17時20分
安楽 まきぞのパワー
元々マコトの運転は速いがマサヤの選曲が、さらに輪をかけた。本来は45分掛かる道のりを、違法レベルで駆け抜けた。
「今度の休みはいつ?」マサヤが聞いてきた。
「次は22日 今度は私がお店を案内したい 甘いモノは好き?」マコトが聞くと「だ~い好き」と返事があった。決まりだ。
マサヤが下宿屋の戸を開けて「ただいま~」と言い入っていくのを確認してから、マコトはハンドルを握った。
「帰って風呂入ろう…」マコトは自宅に戻るが、湯船に頭から浸かって口から空気を吐きブクブクと言わせながら顔を出す。彼女も童心に戻っていた。
実は曽木の滝は女子にとって、恋を叶えるパワースポットと言われている。
この時はその事実を意識していなかったが…
14時00分
大口盆地の中央を川内川とその支流が流れた所に、曽木の滝という観光地がある。
滝というより、岩がゴツゴツした落差のある流れとというイメージの場所だ。
鹿児島県人のナイアガラとも言われている。秋は紅葉が綺麗だ。
14日、マコトは「夕食に連れて行って」とマサヤにお願いしたが、水の流れが強い川辺を紅葉を見ながら散歩するのは夕方では危険だ。
時間を昼過ぎにした。
マサヤの話では水は最高位で、聞けば芋焼酎発祥の地らしい。マコトは運転をするので焼酎は飲めないし、マサヤも酒は飲めない。
「私ね この前の金曜日に看護師長になる事が決まったんです 正式には23日の月曜からですけどね」
マコトは枝の先にある紅葉に手を伸ばすが、身長が156センチと平均よりやや低めの彼女の手には届かない。肩をすくめて手が届かないことを照れる様な顔をして、マコトが振り向くとマサヤが居ない。
「えっ?」マコトはマサヤを直ぐに見つけたが、彼は少し離れた岩の上に体をべたりと貼り付けていた。まるで動物が温かい岩で冷えた体を温めている様だ。
一瞬だけだがマサヤが体調を崩したのかと思ったが、別の理由があると直ぐに理解した。彼の突飛な行動も脳神経外科で色々な患者を見てきたマコトには予測が出来てきた。入院患者には何かに関心を持つと、自分の周りにある他の事が無関心なものとなり関心事に注意が注がれる人は多い。ただ注意しなくてはならないのは、そういった人が怪我をしたり他者を巻き込んだ行動をしないかだ。マコトは足元に気を付けながら、マサヤに近付いた。
「マサヤさんは な~に~を しているのかな?」苦笑いとなったマコトはマサヤの視線を見た。滝の周囲は水の流れが速いが岩の周囲は流れが停滞する部分がある。彼はそこを見つめていた。
「水面より少し低い所に水草があって気泡を蓄えているよ 命を感じるな~」マサヤはマコトを振り向きもせずに、水草の説明をしている。マコトもそっと水面の下を覗くと、確かに水草がある。しかし気泡を確認するには、もう少し顔を近づける必要がある。マコトは岩に膝をつきマサヤの隣で両手もつけて覗き込むと、気泡が見えた。
水の中で酸素が作られているのだ。水も酸素も生命には必要だ。原始の地球で酸素を長い時間作り続けてきた植物たち、生命の源がここにある。
「綺麗ですね 癒やされる」2人は暫く眺めていたが、マコトはハッと気付いた。自分の話を全然聞いてくれていない。マコトは岩の上で正座をするともう一度、マサヤに自分の昇進話をした。
「あの…私 脳神経外科の看護師長になるんですよ」マコトは自分の話がマサヤの注意から外れてしまったことに少し腹を立てている。
「そのままにしておこう」とマサヤは水面に向かって言った後に、起き上がると岩の上にあぐら座になった。彼は長い足を器用に曲げて、両手は膝の上にある。マコトとマサヤは岩の上で狭い居間兼、食堂兼、寝室に居る、昔の夫婦のような状態となった。無いのはちゃぶ台だけだ。
「看護師長? そう言えばマコトさんは仕事で戦っているとか言っていたよね 仲間を守るって」
彼はマコトの使命とも言える戦いを覚えてくれていた。嬉しい。マコトの小さな苛立ちは直ぐに喜びとなった。
「そう『勝ち』よ けど大事なのはこれからなの 皆をまとめて 若い人達を育てて 私も自身も成長する 時代は変わってもう戦いは無し」
戦いは勝利しても疲れる。人育ても教える人間は情報の受け手よりも2倍も5倍も勉強するので、労力は伴う。しかし自分の経験を懸命に学びとろうとする若手達の目は、マコトの意欲を高める。そして自分ももっと学んで知識を深めていく。勝ち上るのではなく、自己実現と言っても良いだろう。
15時00分
2人が滝のそばで過ごして1時間も経っていた。マコトの考えていたお散歩コースは、滝を見て、紅葉の木々達の前を通り、食堂に向かう予定だった。所要時間はマサヤの為の休憩を入れても30分だ。マサヤが選んだ曽木の滝の近くにある小さな食堂。マコトが予約をしたのだが、予約時間は過ぎている。マコトは直ぐにスマホを取り出すと、食堂に電話をした。
「あの…14時30分に予約をしていたタカハシですけど ごめんなさい時間が遅れまして 今から急いで10分くらいでそちらに着きますがよろしいですか?」マコトが尋ねると、食堂の主は席は確保しているので急がずにゆっくりと来てくださいと返事をしてくれた。「スイマセン とにかく向かいます」スマホを手にしながら正座をしていたマコトは電話の向こうに居る食堂の主へ頭を下げていた。目の前にいない相手に頭を下げる姿は大昔の光景だが、時代が変わっても人への敬意の現れとして残っている。
「大丈夫だった?」体の大きなマサヤがちょこんと座っているマコトの顔を覗き込んだ。元はと言えばお散歩コースから外れたマサヤの突飛な行動が起こしたトラブルだが、彼の顔、彼の持つ空気に触れているとマコトは怒る気にならない。少しムッとしても直ぐに心が落ち着く。無邪気さ…マコトの記憶の奥底にあった看護学生時代の自分を思い出した。小児科にあった子供の支援教室に行った時の話だ。
「センセ~イ 看護婦さんだよ」子供たちが少し年輩の保育士の女性に話しかけた。
マコトの学生時代には「看護婦」という言葉は使われていない。それでも古い言葉は簡単に消えてしまうわけではない。時代遅れな言葉の「看護婦」という言葉が、使われていた。真っ直ぐな性格のマコトは「看護婦じゃなくて 看護師です!!」とキツめの言葉を子どもたちに言ってしまった。言葉の習得が遅い子どもたちへ、せっかく覚えた言葉を否定してしまったのだ。その言葉が全く的外れで他者を傷つける言葉ではない。柔軟に対応すべきだったが、若いマコトは下手だった。
「子供たちは言葉を覚えている成長過程なの もう少し理解を深めてね」保育士の女性の口調は優しかったが、その意思は学生であるマコトへの厳しい責だった。マサヤとはじめて出会った時、自分の名札に書かれたひらがな表記の名を声に出された時、マコトは怒ってしまった。職場で人と交わり、少しは柔軟な思考を学んだと思っていたが、真っ直ぐ過ぎるマコトの性格は簡単には変わらないようだった。
しかしマサヤは子供と違い、傷つき心の壁を作る人間ではない。無邪気さと大人としての寛大さを持つマサヤは魅力的な男性だった。
「すこ~しだけ 急ぎましょ お店の人がまだ席を空けてくれてるって」マコトは立ち上がり、あぐらをかいているマサヤに手を伸ばした。「うん」と言ってマコトの手に、自分の手を伸ばしたマサヤだが、途中で手を引っ込めてしまった。
先程までゆったりと寛いでいた彼とは違う、何かがマサヤの記憶にある。自分と触れる事で何か、辛い過去を思い出すのだろうか?マコトにある看護師の直感がマサヤの過去を反読み解こうとしたが、直ぐに止めた。
「足元に気をつけてゆっくり立ち上がるのよ 頭がふらつく時は私が支えるから」マコトは足を広げて、マサヤがいつ倒れても支えられる様に構えた。
「ありがとう 大丈夫だよ」マサヤの低くて落ち着いた声がマコトが張っていた緊張を解いた。
トラブルよりも不思議な縁を大事にする。今はそれが一番幸せなのだ。2人は並んで紅葉の中を歩いていくが、身長が156センチのマコトと身長が182センチのマサヤとでは身長差が大きい。しかし心の距離は確実に狭くなっている。
「長生き食堂」良質な水と土地で育てた野菜、鶏、豚が振る舞われる食堂だ。観光地なのでイタリア語でも使った店名なら、もう少しお洒落に観光客へ伝わるかもしれない。ストレートで遊び心の無い日本語で着けられた店名だが、それが反対に目立つのかもしれない。
オーダーはスマホでチェック済みだ。ふたりとも洋風豚丼を頼んだ。ガラスのコップに注がれた水を見つめるマサヤの目を、マコトはじっと見ていた。無邪気さのないむしろ鋭く厳しさを持つ彼の目は水の透明度、照明からの光の屈折率などを見ているのかもしれない。そして水を口にすると、味、質感、温度、そしてその背後にある微細な成分までも一つ一つ感じ取っていて、まさに機械を越えたプロフェッショナルだった。
「この水の硬度は100位 亜鉛は1 鉄は0.08 ヒ素やカドミウムは感じない」マサヤが口に出した言葉の中には、誰でも知る様な有毒物質として聞かれる名前もある。そもそも科学分析など普通なら食欲が無くなるものだが、薬剤に囲まれた仕事をしているマコトには耐性があった。マコトはマサヤの分析を傾聴し続けたが、彼の表情は笑顔でいた。
「美味しいんだ」マコトが簡単な一言で締めくくると、マサヤは「うん 美味しいよ」と答えた。
人間に戻ったマサヤの顔にマコトはホッとし、嬉しくなった。
洋風豚丼が来た。クリームソースで煮た豚肉が御飯の上にかけてある。ソースはとろみが強く、ご飯の中に染み込まずにトロトロと卵のように表面に広がっている。
「栄養取らなくちゃね」マサヤは箸を右手で持つと下から左手を添えて持ち替え、右手がくるりと回転し箸を構えた。そして丼を左手に持ち、箸で軽くクリームソースとご飯を絡めて口に入れた。本人には当たり前の動作なのだが、作法を知っている者の動きだ。マコトは医師の妻になる予定だった頃、花嫁修業の為に茶道で習った。彼の箸をよく見ると先端しか食べ物が付いていない。よく言う3センチしか使わない箸使いだ。
マコトもマサヤの洗練された動きに合わせて箸を取りクリームソースと肉、ご飯をつまみ取ろうとするが箸の先からズボッと5センチ程入ってしまった。その時に彼女がしまったと顔に出したからか、マサヤは「作法は要らないよ」と言ってくれた。
マコトはとにかくクリーム、肉、ご飯をパクリと口に入れた。するとクリームが舌の上でトロケて、噛むと肉の汁が舌に染み込んでいった。
「ん~っ」美味しさのあまりに、思わずマコトが声を出すと、マサヤは「素直な顔が見れて良かった」と笑った。
「ここはね肉だけじゃなくて 黒酢も美味しいんだよ 後で少し分けてもらおうね」ここのグルメはまだまだ深いらしい。
「分かるわ~鹿児島ってね『黒の文化』って言うんでしょ 私は上京した時にはじめて知った」マコトは県外から見た鹿児島の話をした。
「そうか そうだマコトさんは東京で働いていたって言っていたね それで…看護部で偉くなるとかだっけ?」マサヤは東京時代のマコトの話を覚えていたが、大病院の跡取り息子と恋人だった話は知らない。言っていない。
「そうよ 聖オルガ病院って大きな病院 看護部部長になる直前にコケたって話ね」マコトが説明するとマサヤが2回頷いた。細かい部分を思い出したのだろうか?
「実は…」マコトは東京時代の恋愛話をはじめた。マサヤにもっと自分を知ってもらいたかったからだ。
「それで院長の妻になって部長って…裏口は駄目だったのかな~」マコトは自分が持つコップの水を、店の照明に透かして言った。水には濁りはない。マコトは真剣に恋をした。しかしあの時、目的の為に手段を選ばなかったと、胸を張って言えるのだろうか?昔の自分の整理がつかない。
「部長になれなかったのは残念だったね けどマコトさんは部長になっていたら 裏口とかつまらない理屈は言っていなかったんじゃないかな 勝ちは勝ち でしょ」
「そう…ね けど負けたからここに居る あの時は負けたけど今は『勝ち』の先を見ている」マコトはこれから担う責務を正面から受けるのだ。
「俺も昔は学歴とか出世とか結婚とか 面倒くさい事を言われていたみたいなんだ 覚えていないけどね 俺もぶっ倒れてここに居る だから昔の面倒くさいことから離れることが出来たよ」
マサヤの過去、彼はサラッと言ったがマコトは「結婚」という言葉に反応した。自分の手が触れる事に彼が躊躇した理由がそこにあるのだろう。愛していた誰かとの辛い事があったに違いない。
しかし縁は不思議だ。東京に住んでいた頃に恋愛で辛い思いをした女と男が、鹿児島で出会って仲良くなった。見たところリハビリの時に若い女性スタッフに体を触れられても、マサヤは拒否する反応をしていなかった。しかしマコトの場合は違う。それは彼がマコトに対して、かつて彼が大切にしていた人と同じ感情を持っているからだ。
マコトもマサヤが辛い過去を乗り越えて、障がいと共存して生きている姿を尊敬し、彼の記憶の中に自分が居ることを嬉しく感じている。彼が好きなのだ。
そう言えば…
マサヤとマコトの昔の恋人とは年齢が同じで、2人とも実家は経済的にも社会的にも恵まれている。違いは生き方だ。マサヤは自由に生きているが、マコトの元恋人は親の決めた女性と結婚をした。元々医者になったのも親が決めた進路だったのだろう。
見た目は…そう、マサヤの方が「チョット良い男」だ。
マコトが豚丼を食べて質の良い水を飲むのを見て、マサヤは黒酢を頼んだ。なんと20年間熟成しているらしい。
「なめる程しか貰えないけど 価値はあるよ」マサヤに言われて、マコトはレンゲのように大きなさじに入った黒酢をなめた。酸味もあるがキツさはなく、深みがある。料理は花嫁修業で、ある程度はこなせたが、センスは持ち合わせておらず調味料の選び方も下手だ。しかしこれは黒酢とは全く別物だと、マコトにも分かる。
「本当にここは『黒の文化』よね 世界中で一番黒を愛する人達が鹿児島人なのかも」マコトは言った。
世間では黒歴史、ブラックリスト、黒魔術、人生も刑事捜査もオカルトに至るまで、黒はネガティブな表現に使われる。しかし鹿児島は違う。黒は高級の証なのだ。黒豚、黒砂糖、クロマグロ、黒薩摩(鹿児島焼き)等、とにかくランクが上な物を指す。
「俺は鹿児島県内の 色々な水を飲んで 時々他県に飛んではそこの水と飲み比べているけど 鹿児島の水はどこよりも美味しいよ」
2人は食堂を出た。10月だ17時近くなれば気温は下がる。マコトは気温の下がりを甘く見ており、ジャケットを持参していなかった。するとマサヤがスーツケースから薄手のダウンベストを出してきた。この一枚で全然違う。
「風邪ひく前に車まで速歩き」マコトはその場のノリでマサヤの肩をポンと叩くいてしまったが、彼は拒否反応はなくマコトの言う通りに速歩きで道を進み始めた。背が高いからか、マコトよりも速く彼女は小走りで追いかけていった。
車に乗ると直ぐにエンジンをかけて、霧島へと進路を定めた。もう暗い。
「じゃあ 帰りはアクセル踏んじゃう曲にしようよ」マサヤがスマホから車のアンプを通して流した曲は、大昔のエリート戦闘機乗り達の愛と友情を描いた映画の曲だった。
「ホント 飛ばしちゃうわよ」昔よりも整備された道路とはいえ高速道路ではない道を、マコトの車は加速していった。
17時20分
安楽 まきぞのパワー
元々マコトの運転は速いがマサヤの選曲が、さらに輪をかけた。本来は45分掛かる道のりを、違法レベルで駆け抜けた。
「今度の休みはいつ?」マサヤが聞いてきた。
「次は22日 今度は私がお店を案内したい 甘いモノは好き?」マコトが聞くと「だ~い好き」と返事があった。決まりだ。
マサヤが下宿屋の戸を開けて「ただいま~」と言い入っていくのを確認してから、マコトはハンドルを握った。
「帰って風呂入ろう…」マコトは自宅に戻るが、湯船に頭から浸かって口から空気を吐きブクブクと言わせながら顔を出す。彼女も童心に戻っていた。
実は曽木の滝は女子にとって、恋を叶えるパワースポットと言われている。
この時はその事実を意識していなかったが…
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