4 / 6
ダブルチェック
しおりを挟む
2023年10月16日 月曜日
9時40分
マコトが持つ医療用スマホが鳴ると、ハマサキ先生が出た。
「あっあの…タカハシ主人へダブルチェックお願いしますと仰って頂けますか?」アリムラさんの声だ。
「タカハシさんは処置中だ 他の職員にお願いしなさい」と言い、ハマサキ先生はスマホを切ってしまった。
この時マコトはハマサキ先生の監督下で新患のシゲトメさんの脳室ドレーンへの薬液と流出する髄液をチェックしており、意識を集中させていた。頭蓋内灌流の処置と言い精密な観察と判断が必要で、衛生管理にも注意しなくてはならない。
「終了いたしました」マコトが報告をすると「良い観察力だった」と言い、直ぐに病室から出ていった。ハマサキ先生は14時00分にオペの予定がある。
看護師の仕事は処置だけではない。準備と片付けがある。そして患者の観察だ。本来は作業が早いマコトだが、観察時間をしっかり取る為にゆっくりと後片付けをしていた。他患の処置を終えてナースステーションにあるパソコンの前に腰掛けた時、時間は11時近かった。その後、隣のパソコンの前にアリムラさんが戻って来た。
「さっきはごめんなさい 集中していたから応えられなくて…」
「良いんです オーダーシートと薬剤の照合をひとり時間差でチェックしましたから もう大丈夫です」
13時00分
マコトのスマホにコールが鳴った。相手はオペ室チーフのコイズミ看護師からだ。
「脳外主任のタカハシさんですね 11時00分にそちらのアリムラさんが用意した薬剤を オーダーシートに従ってもう一度チェックしましたが 生理食塩水の量がかなり少なかったので…」
「ご連絡有難うございます 直ぐに参ります」マコトはナースステーションから階段室の扉へ小走りで行き、階段を降りていった。行き先はオペ室だ。そこにアリムラ看護師が居る。彼女にとっては初めてのオペとなる。薬剤のミスは重大だ。コイズミチーフがオペ前に気づいてくれてよかったが、アリムラさんは初めてのオペで重大なミスをしてしまったのだ。
オペ室入口にはガウンを外したアリムラさんとコイズミチーフが立っていた。
「申し訳ございません 新人ひとりに任せてしまった私のミスです」マコトは直ぐに頭を下げた。
「先ずは事前に分かって良かったです 今日のオペに関しては オペ室のスタッフだけで動きます 脳外さんはダブルチェックのあり方を話し合って下さい」そういうとコイズミチーフは次の仕事をはじめた。
「アリムラさん…行こう」マコトはアリムラさんの手握ると、彼女の手に力が入っていることが分かる。
マコトはエレベーターで脳神経外科に戻ることにした。2人きりの空間が欲しいからだ。エレベーターのドアが閉まるとマコトは落ち着いた声で言った。
「ミスは誰でも起きるのよ 大事なのはミスの再発予防策とミスを乗り越えるメンタル作りなの これは全員の役目よ ひとりで悩んじゃ駄目」マコトはアリムラさんの目を見たが、アリムラさんは下を向き目を合わせなかった。
フロアに着いたエレベーターのドアが開くと、カモ副主任がナースステーションにどっかりと座って、子分2人がマコト達を見ていた。
「しでかしたわねー」普段は不自然な笑いをしていた女は、今度は人のミスを笑っている。
「ひとりでダブルチェックとかありえないよね しかも新米…」太った女が副主任にわざと聞こえる声で話す。
マコトは太った女の言葉で怒りの火が着いた。
「ハマサキ先生が他の職員にダブルチェックをするように指示していましたけど カモさんたちは手伝わなかったんですか?」
強い視線でカモ副主任を睨む。
「私達はじめから頼まれていないもん 知らないわよ」副主任は他人事だ。
「医療事故はフロア全体のミスです だから事故報告書を書いてスタッフが情報共有するんですよね?最終的に管理委員会が再発防止策を整える 『私は知らない』では済まない話ですよ!!」マコトの口調は荒くなる。
「まぁ患者さんがいますから 落ち着きましょう」ヤギさんが間に入った。
マコトは黙ったが、副主任は立ち上がり「じゃあ早く報告書を書いてください」と言い、マコト達が下りたエレベーターでどこかへ行ってしまった。2人の子分たちは怒った副主任が怖いからかついては行かず、しかしマコト達とも一緒に居られないのでフロアの巡回をはじめた。
マコトとアリムラさんはナースステーションに入ると、椅子に座った。
「事故報告書を一緒に書きましょう」マコトがアリムラさんに声を掛けた時、カワハタさんが温かいお絞りを渡してくれた。リラックスさせるためだ。
「申し訳ございません」アリムラさんが謝った。
「謝罪の心は分かったわ 次はプロとして状況を確り分析しましょう」
マコトは机に空間を作り、大判の付箋を置いた。
「薬剤オーダーを任されたのは何時?」
「8時50分です」
マコトはアリムラさんの返事を聴いて驚いた。カモ副主任がマコトに脳室ドレーンのチェック指示を回してきた時間が8時50分だったからだ。これはカモ副主任の罠だ。彼女は心底意地が悪い。重要な仕事を新任のマコトと1年目のアリムラさんに同時に振り、別行動を取らせてフォローの手を切っていたのだ。しかしここでマコトが怒るわけにはいかない。
「薬剤オーダー8時50分」と付箋に書くとマコトは机に貼り付けた。
「指示を受けて作業に入る前に 薬剤オーダーに目を通した?」
オーダーには6Rというものがある。「R」は「Right」だ。
正しい患者 、正しい薬剤 、正しい用量 、正しい方法 、 正しい時間 、正しい目的 である。
「はい」アリムラさんの返事に従い「薬剤オーダーを読む」と付箋に書き机に貼った。
「クリアね じゃあ次よ 薬剤保管庫に行きました それでオーダー片手に薬剤をもう一方の手に持ち照合する これは?」
「しました」アリムラさんがマコトと目を合わせて返事をした。
ここが彼女が薬剤の量を間違った時だ。アリムラさんも気づいているが、マコトは付箋に「照合作業」とだけ書いた。
「仕事の出来上がって私へ連絡したのが9時40分ね」
「はい」マコトは「9時40分 終了して連絡 ダブルチェックを依頼」と付箋に書いて貼った。
作業時間は50分だ。
「私とは別の人にダブルチェックをお願いしたの?」マコトは慎重にアリムラさんへ質問した。
「ステーションに電話をしました 10回コールしても誰も出なかったので それでひとり時間差型でダブルチェックをはじめました」マコトはボールペンのボタンをカチッと鳴らして手を止めた。
少し間が空いたあと「開始したのは9時50分…です」アリムラさんが時間を告げた。
問題はその後だ。
11時に薬剤をオペ室に届けたとすると、1時間10分もダブルチェックをしたのか?ダブルチェックをじっくりやったとしても、はじめの作業と同じ50分位だろう。
では後の20分は何をしていたのか?
3回目のチェック、或いは息抜きをしたか?…マコトの脳裏にアリムラさんがタバコを吸う姿がよぎった。
しかし口には出さない。トイレに行っただけなら良いが…
「チェックは疲れるよね リセット時間は必要よ それは働く者の権利」マコトは若い看護師を労るように言った。責めてはいけない。
この時、アリムラさんにはかなりの負担が掛かっていた。責任の重い仕事をひとりでやらされ、誰もそれを指導しないままでミスが生じた。そのミスを副主任どもが突き、今、報告書を書いている。ダブルチェック作業に入って薬剤をオペ室まで運んだ時間が長すぎる。この後ろめたさ。しかしトリプルチェックで大変な事態は回避できた。
ミスそのものも仕事の合間でコッソリと息抜きをしたのも、1年目の職員へのストレスが過多だったと言える。マコトはドレーンの管理をしていた。他の職員は?主任どもは?ニシダさんとヒガさんが遅出出勤だったので、業務開始時にどちらかをダブルチェックへ回せば問題は無かった。ナースの動き全てを把握していたのは副主任だ。
マコトは怒りが表に出ないようにこらえて、ボールペンをカチカチと2回鳴らした。
「ひとりチェックを丁寧に行ったけど 薬剤の量の違いに気付かなかった 問題はひとりチェックにあります 報告書をまとめられるかしら?」マコトは落としどころを作ると、アリムラさんは「はい」と返事をした。
マコトは副主任の行いが許せなかった。人命の関わる仕事の中で人を陥れる行為を平然としている事は、倫理的に大問題だ。しかも事故さえなければアリムラさんはハマサキ先生のオペに参加出来たのだ。人の未来を打ち壊す行為は、相応の対処をしなくてはならない。
17時00分
日勤から夜勤への引き継ぎ
事故報告があるため、クボヤマ師長も参加した。公正さを持たせるために、マコトがアリムラさんの報告書を読んだ。
マコトは読み終えた後、クボヤマ師長やカモ副主任が口を開く前に先手を打った。
「仕事は作業が終了したら 依頼者に報告し 依頼者は作業内容を確認しなければなりません 確認が取れた段階で仕事が終了します」全員、黙っている。マコトはナースステーションの職員達の表情を見回したあと、言葉を続けた。
「私が問題視したのは ひとり時間差型でダブルチェックを行った看護師が1年目の職員だったことです」
「人手が居ないから仕方ないですよ」カモ副主任が簡単に言い換えした。
「アリムラさんが私のスマホに連絡してきた時間が9時40分です 私の代わりにハマサキ先生が電話対応をされています ハマサキ先生は他の看護職員にダブルチェックをするようにアリムラさんに指示しています」アリムラさんが無言で頷いた。
「そしてこのステーションにも電話をしています」マコトはアリムラさんが持っていた、日勤者用のスマホを見せた。
9時40分と42分、45分、47分に発信した記録が表示されている。
「この時間にステーションには誰が居ましたか?」マコトは机を指で強めに叩いた後、防犯カメラを指さした。
「私は他の内線の対応中でした」脳外受付の事務員が言う。
「アリムラさんの電話も取れないくらい忙しければ ステーションの椅子にどっかり座っている人なんて居ないでしょうけど…」マコトは厳しい視線をカモ副主任へ向けた。副主任も子分たちも黙っている。笑う女も面目なさそうな顔だ。
「今日の業務の割り振りですが 私にシゲトメさんの処置を依頼したのはカモ副主任で オペ前の薬剤取り出し作業をアリムラさんに指示した人もカモ副主任ですね しかも同じ時間8時50分です」脳外の事務員はマコトと目を合わせた。
「シゲトメさんの指示メールが届いたのが8時40分です オペ用の薬剤手配は8時50分です」事務員が時刻という客観的な数字を述べた。
沈黙を破ったのはクボヤマ師長だ。
「この問題はダブルチェックのあり方として 事故管理委員会の議題にします ハ~イお疲れ様です」と閉めた。
19時15分
カモ副主任と子分たちはいつもより早く荷物を纏めだした。30分になると無言で戻ろうとした。マコトは3人を呼び止めた。
「今日はオペ前にミスが生じた事をハマサキ先生にお詫びしますが ダブルチェックについてのご相談もさせて頂きます それと防犯カメラと通話記録は嘘をつきませんのでご注意下さい」
マコトはビシッと言ったあと、次は事務へ連絡した。
「訴訟があるかもしれないので 通信記録と防犯カメラはロックして下さい」と言った。
「タカハシ主任 アリムラさん…」
カワハタさんが2人に声をかけ、煙草を吸う仕草を見せた。マコトは喫煙歴がなくカワハタさんも煙草は結婚を機にやめたらしい。しかしアリムラさんをリラックスさせる必要がある。しかも思い詰めない環境でなくてはならない。
「あとは任せて~」遅出でまだ仕事が残っているニシダさんが3人に手を振る。
病院の敷地は全て禁煙だ。喫煙者の受け皿として病院とは別の建物として、自販機コーナーがあり、そこはベンチに座り缶コーヒーを飲み煙草を吸える環境にしてあった。日勤が終わった者は我慢出来ずにここで一服するはずだが、今日は誰も居ない。
「私のおごるわ…主任は?」カワハタさんが自分のスマホを出した。
「じゃあ無糖の冷たいの…」マコトが言うと、自販機にスマホを近づけて支払う。直後にガコンと音がなり缶コーヒーが出てきた。
「アリムラさんは?」カワハタさんがアリムラさんを見た。
「ホットのミルクコーヒーを頂きます」
「じゃあ 私はバリスタ」カワハタさんは少し高めのコーヒーを手にした。
「まあ お疲れ様~」3人は同時に缶のタブを開けた。一口飲んで息抜きをすると、カワハタさんが煙草のジェスチャーをアリムラさんに見せて「遠慮しないで良いよ」と言った。
アリムラさんはコーヒーを飲み終わる前に煙草に火をつける。フゥーと煙を吐くとアリムラさんはリラックスした。
「今日は申し訳ございませんでした」アリムラさんがまた謝る。
「さっきも言ったでしょ 事故は全員の責任よ 反省や学びが無い輩が一番悪いの」マコトももう一度言い聞かせる。
「けどあの副主任にガツンと言える人はうちには居ないよ 師長はアレだし…」カワハタさんがアリムラさんに何かを摘むように指を差し出した。1本欲しいということだ。
「私はさ…病院内でどんなに威張っていても 外に出た時がその人の本当の価値だと思うの あの人達はどうよ?」マコトはコーヒーをひとくち残して2人に問いかけた。
「う~ん 私はタダのおばちゃん看護師だよね 主任みたいに何か資格を持つわけでもないし…目の前の仕事をやって家の事をしているだけ けどダンナと息子ちゃんは大好きよ」カワハタさんのご主人は家事も子育ても協力的だと聞く。それでも2人の家族の健康管理をしているのは彼女だ。楽ではないはずだ。
「私は実際に働いたら 勉強して来た事以上のことが沢山あって 混乱しちゃっています」勉強して来た知識は科目別に縦並びで、横の繋がりが総力となって活用するのには、ざっと3年だろうか?クボヤマ師長が現場指導者らしいが、1日、1週間、1ヶ月の電カルの記録を師長から見られてもアドバイス等はなく学びはない。
「ハマサキ先生が副院長だった時は看護師もリハも カンファで躓いたらレポート提出だったわ 私も書かされたな~けどレポートはちゃんと読んでくれてたよ…ってあぁうまい」カワハタさんは煙をハァーと吐いた。煙がマコト目に入る。
「私が副主任を蹴ったから皆に迷惑掛けたかもしれないけど 人が育たない職場はいつかポシャるわ どんなに建物や設備が立派でもね」マコトがコーヒーの最後のひとくちを飲んで言った。
「まあ あの人達はやりすぎたかな~」カワハタさんは空き缶に煙草の吸殻を捨てた。アリムラさんの世代には分からない、大昔の曲だ。
アリムラさんも煙草を終わらせて、コーヒーをズッと飲み干すと立ち上がり、マコトとカワハタさんの空き缶を受け取り、ドカドカと捨てた。
「さて帰りますか?明日は私 夜勤入りだけどお二人は日勤でしょ」カワハタさんが一番最初に出口へ向かった。
2023年10月18日 水曜日
7時40分
マコトがいつもより早く出勤すると、ハマサキ先生はもっと早くナースステーションに居たがひとりだ。夜勤の看護師は居ない。コール対応か分からないが、とにかくハマサキ先生ひとりだ。彼は座っておらず、マコトが来るのを待っていたかのように立っていた。
「タカハシさん」先生が手招きをしたので、マコトは小走りでナースステーションに入ると話してきた。
「私がっ…看護師長ですか?」考えてもいなかった言葉に、マコトは大きな声を出しかけた。マコトはこの霧島中央医療センターの主任として働いて、たった2週間だ。そんな昇格はあり得ない。
「私はここに来てまだ2週間しか経ちませんけど よろしいのですか?それにクボヤマ師長はどうなるのですか?」マコトは古い世代の看護師たちをこの脳神経外科のフロアから追い出そうとしている。だがここの師長はヒラヒラと居残っているはずだ。
「タカハシさん 貴方はまだ2週間なのに若い看護師達の信頼を得た そしてこの病院に住み着いていた いじめ問題解決へのきっかけを作った 看護師長に相応しい実力だよ クボヤマさんは全責任を取って辞めるそうだ」
フロアの主が退いた。
「私は大学教授になってから感じたんだけどね 医者だけじゃ病院は成り立たないんだよ 医師を育てるだけでは日本の医療は進歩しない だから…」
「だから先生はコメディカルに厳しかったのですね 若手を育てるために」ハマサキ先生が話す途中で、マコトは鋭すぎる結論を言った。
「厳しいは余計だよ」ハマサキ先生は苦笑いをした。
「僕の考えをヨシノ先生は喜んでね 院長と事務長にプッシュしたんだ 後は君の決断次第だよ」言い終わると先生は廊下の扉を開けて、階段室へと消えていった。
「若手育成と世代交代か…」マコトが呟きながら、ボチボチと仕事の準備を進めようとした時、ひとりの看護師が病棟の奥から歩いてきた。夜勤のカワハタさんだ。
「先生から先に話を聞きました 一応席を外していましたが…」カワハタさんはゆっくりと近づいてきたが、彼女の顔はマコトの昇進話を喜んでいた。
そしてもう一人の夜勤看護師、ヤギさんが来た。
「とても嬉しいです 主任が師長になって下さるのなら」これまで中立で居た人だったが嬉しそうな顔をしている。彼女も本心として、意地悪な副主任たちや無責任な看護師長が好きではなかったようだ。
8時30分
日勤の職員が来る時間だ。
「おはようございます」若い声がする。新人のアリムラさんだ。もう師長も副主任も、その手下達もいない。このフロアをまとめる役割は自分だ。
「おはようございます 朝礼をはじめましょう」マコトは穏やかな声で呼び掛けた。
スタッフが集まった。マコトは穏やかな口調で頭を下げると、若い看護師達も頭を下げた。事務員がマコトにタブレットを渡すとマコトはその内容を読み上げた。
「クボヤマさんとカモさん オサエさん ハラさんが昨日付けで退職となりました カモさんとオサエさん ハラさんに関しては職員のミスを誘発させていたという報告が以前からあり 私とアリムラさんの一件は動かぬ証拠となりました クボヤマさんは管理能力が欠けるとされました」
マコトがスタッフの顔を見回すと全員が無言で聞いている。
「看護師長代理として 私 タカハシが管理者となります 人が減って大変ですが 患者さんが第一です 乗り越えましょう」マコトは頭を下げた。
「今日の予定をお願いします」マコトが言うと事務員が病院全体の動きを話す。
タブレットに書いていなかったが読み上げていない事がある。病院幹部が集まる運営会議が20日の金曜日にあり、マコトはそれに呼ばれている。看護師長の任に就くかをマコトは聞かれるだろう。その時にYesと回答すれば、正式な辞令が来週の月曜日に出る。
「最後に業務のチェック体制についてお話します 前回の薬剤管理ミスはオペ室によるトリプルチェックで 大きな事故とはなりませんでした 今後は2人連続双方向型を提案いたします」
2人連続双方向型は、2人がそれぞれ異なる視点から業務を確認するダブルチェック法だ。例えば1人目が仕事をしていき終了したら2人目が1人目の仕事の終了地点から遡りチェックをしていく。 時間は掛かるがその分、ミスの発見もし安い。経験が浅いスタッフと、経験のあるスタッフのペアで行なうと手を抜かず学習し合うためより良い結果となる。
「例えば薬剤の準備です 薬剤オーダーに従い薬剤を取り出しをした職員が作業終了後に報告 パソコン業務をしている職員がチェックを薬剤オーダーを下から照合してチェックをはじめる 作業をしていた職員はパソコン業務をする このコンビネーションです」人手不足が解消しれていない以上、マコトの話はまだ机上の空論の域の中だ。しかし覚悟は決めなければならない。
「看護師長にふさわしい実力か…」マコトはハマサキ先生の言葉を思い出した。
東京の病院で働いていた頃の話だ。
マコトは仕事、人生の「勝ち」を求めて鹿児島を離れて上京した。自分の力を東京で試したかった。東京には沢山の実力者が居たが、彼女は努力をし、子供の頃から持っていた度胸と機転でその競争に勝ち続けた。
そんなマコトの評判は大型病院の中では有名となり、恵まれた容姿を持つこともあり、院長の長男の目に止まった。
彼は「将来俺と結婚して 看護部部長としてこの病院を支えてくれ」と言い、交際をはじめた。12歳年上の医師だった。彼との結婚で看護部部長という「勝ち」を手にするマコトのプライドは上がって行った。
院長の長男が政治家の娘と結婚するまでは…
9時40分
マコトが持つ医療用スマホが鳴ると、ハマサキ先生が出た。
「あっあの…タカハシ主人へダブルチェックお願いしますと仰って頂けますか?」アリムラさんの声だ。
「タカハシさんは処置中だ 他の職員にお願いしなさい」と言い、ハマサキ先生はスマホを切ってしまった。
この時マコトはハマサキ先生の監督下で新患のシゲトメさんの脳室ドレーンへの薬液と流出する髄液をチェックしており、意識を集中させていた。頭蓋内灌流の処置と言い精密な観察と判断が必要で、衛生管理にも注意しなくてはならない。
「終了いたしました」マコトが報告をすると「良い観察力だった」と言い、直ぐに病室から出ていった。ハマサキ先生は14時00分にオペの予定がある。
看護師の仕事は処置だけではない。準備と片付けがある。そして患者の観察だ。本来は作業が早いマコトだが、観察時間をしっかり取る為にゆっくりと後片付けをしていた。他患の処置を終えてナースステーションにあるパソコンの前に腰掛けた時、時間は11時近かった。その後、隣のパソコンの前にアリムラさんが戻って来た。
「さっきはごめんなさい 集中していたから応えられなくて…」
「良いんです オーダーシートと薬剤の照合をひとり時間差でチェックしましたから もう大丈夫です」
13時00分
マコトのスマホにコールが鳴った。相手はオペ室チーフのコイズミ看護師からだ。
「脳外主任のタカハシさんですね 11時00分にそちらのアリムラさんが用意した薬剤を オーダーシートに従ってもう一度チェックしましたが 生理食塩水の量がかなり少なかったので…」
「ご連絡有難うございます 直ぐに参ります」マコトはナースステーションから階段室の扉へ小走りで行き、階段を降りていった。行き先はオペ室だ。そこにアリムラ看護師が居る。彼女にとっては初めてのオペとなる。薬剤のミスは重大だ。コイズミチーフがオペ前に気づいてくれてよかったが、アリムラさんは初めてのオペで重大なミスをしてしまったのだ。
オペ室入口にはガウンを外したアリムラさんとコイズミチーフが立っていた。
「申し訳ございません 新人ひとりに任せてしまった私のミスです」マコトは直ぐに頭を下げた。
「先ずは事前に分かって良かったです 今日のオペに関しては オペ室のスタッフだけで動きます 脳外さんはダブルチェックのあり方を話し合って下さい」そういうとコイズミチーフは次の仕事をはじめた。
「アリムラさん…行こう」マコトはアリムラさんの手握ると、彼女の手に力が入っていることが分かる。
マコトはエレベーターで脳神経外科に戻ることにした。2人きりの空間が欲しいからだ。エレベーターのドアが閉まるとマコトは落ち着いた声で言った。
「ミスは誰でも起きるのよ 大事なのはミスの再発予防策とミスを乗り越えるメンタル作りなの これは全員の役目よ ひとりで悩んじゃ駄目」マコトはアリムラさんの目を見たが、アリムラさんは下を向き目を合わせなかった。
フロアに着いたエレベーターのドアが開くと、カモ副主任がナースステーションにどっかりと座って、子分2人がマコト達を見ていた。
「しでかしたわねー」普段は不自然な笑いをしていた女は、今度は人のミスを笑っている。
「ひとりでダブルチェックとかありえないよね しかも新米…」太った女が副主任にわざと聞こえる声で話す。
マコトは太った女の言葉で怒りの火が着いた。
「ハマサキ先生が他の職員にダブルチェックをするように指示していましたけど カモさんたちは手伝わなかったんですか?」
強い視線でカモ副主任を睨む。
「私達はじめから頼まれていないもん 知らないわよ」副主任は他人事だ。
「医療事故はフロア全体のミスです だから事故報告書を書いてスタッフが情報共有するんですよね?最終的に管理委員会が再発防止策を整える 『私は知らない』では済まない話ですよ!!」マコトの口調は荒くなる。
「まぁ患者さんがいますから 落ち着きましょう」ヤギさんが間に入った。
マコトは黙ったが、副主任は立ち上がり「じゃあ早く報告書を書いてください」と言い、マコト達が下りたエレベーターでどこかへ行ってしまった。2人の子分たちは怒った副主任が怖いからかついては行かず、しかしマコト達とも一緒に居られないのでフロアの巡回をはじめた。
マコトとアリムラさんはナースステーションに入ると、椅子に座った。
「事故報告書を一緒に書きましょう」マコトがアリムラさんに声を掛けた時、カワハタさんが温かいお絞りを渡してくれた。リラックスさせるためだ。
「申し訳ございません」アリムラさんが謝った。
「謝罪の心は分かったわ 次はプロとして状況を確り分析しましょう」
マコトは机に空間を作り、大判の付箋を置いた。
「薬剤オーダーを任されたのは何時?」
「8時50分です」
マコトはアリムラさんの返事を聴いて驚いた。カモ副主任がマコトに脳室ドレーンのチェック指示を回してきた時間が8時50分だったからだ。これはカモ副主任の罠だ。彼女は心底意地が悪い。重要な仕事を新任のマコトと1年目のアリムラさんに同時に振り、別行動を取らせてフォローの手を切っていたのだ。しかしここでマコトが怒るわけにはいかない。
「薬剤オーダー8時50分」と付箋に書くとマコトは机に貼り付けた。
「指示を受けて作業に入る前に 薬剤オーダーに目を通した?」
オーダーには6Rというものがある。「R」は「Right」だ。
正しい患者 、正しい薬剤 、正しい用量 、正しい方法 、 正しい時間 、正しい目的 である。
「はい」アリムラさんの返事に従い「薬剤オーダーを読む」と付箋に書き机に貼った。
「クリアね じゃあ次よ 薬剤保管庫に行きました それでオーダー片手に薬剤をもう一方の手に持ち照合する これは?」
「しました」アリムラさんがマコトと目を合わせて返事をした。
ここが彼女が薬剤の量を間違った時だ。アリムラさんも気づいているが、マコトは付箋に「照合作業」とだけ書いた。
「仕事の出来上がって私へ連絡したのが9時40分ね」
「はい」マコトは「9時40分 終了して連絡 ダブルチェックを依頼」と付箋に書いて貼った。
作業時間は50分だ。
「私とは別の人にダブルチェックをお願いしたの?」マコトは慎重にアリムラさんへ質問した。
「ステーションに電話をしました 10回コールしても誰も出なかったので それでひとり時間差型でダブルチェックをはじめました」マコトはボールペンのボタンをカチッと鳴らして手を止めた。
少し間が空いたあと「開始したのは9時50分…です」アリムラさんが時間を告げた。
問題はその後だ。
11時に薬剤をオペ室に届けたとすると、1時間10分もダブルチェックをしたのか?ダブルチェックをじっくりやったとしても、はじめの作業と同じ50分位だろう。
では後の20分は何をしていたのか?
3回目のチェック、或いは息抜きをしたか?…マコトの脳裏にアリムラさんがタバコを吸う姿がよぎった。
しかし口には出さない。トイレに行っただけなら良いが…
「チェックは疲れるよね リセット時間は必要よ それは働く者の権利」マコトは若い看護師を労るように言った。責めてはいけない。
この時、アリムラさんにはかなりの負担が掛かっていた。責任の重い仕事をひとりでやらされ、誰もそれを指導しないままでミスが生じた。そのミスを副主任どもが突き、今、報告書を書いている。ダブルチェック作業に入って薬剤をオペ室まで運んだ時間が長すぎる。この後ろめたさ。しかしトリプルチェックで大変な事態は回避できた。
ミスそのものも仕事の合間でコッソリと息抜きをしたのも、1年目の職員へのストレスが過多だったと言える。マコトはドレーンの管理をしていた。他の職員は?主任どもは?ニシダさんとヒガさんが遅出出勤だったので、業務開始時にどちらかをダブルチェックへ回せば問題は無かった。ナースの動き全てを把握していたのは副主任だ。
マコトは怒りが表に出ないようにこらえて、ボールペンをカチカチと2回鳴らした。
「ひとりチェックを丁寧に行ったけど 薬剤の量の違いに気付かなかった 問題はひとりチェックにあります 報告書をまとめられるかしら?」マコトは落としどころを作ると、アリムラさんは「はい」と返事をした。
マコトは副主任の行いが許せなかった。人命の関わる仕事の中で人を陥れる行為を平然としている事は、倫理的に大問題だ。しかも事故さえなければアリムラさんはハマサキ先生のオペに参加出来たのだ。人の未来を打ち壊す行為は、相応の対処をしなくてはならない。
17時00分
日勤から夜勤への引き継ぎ
事故報告があるため、クボヤマ師長も参加した。公正さを持たせるために、マコトがアリムラさんの報告書を読んだ。
マコトは読み終えた後、クボヤマ師長やカモ副主任が口を開く前に先手を打った。
「仕事は作業が終了したら 依頼者に報告し 依頼者は作業内容を確認しなければなりません 確認が取れた段階で仕事が終了します」全員、黙っている。マコトはナースステーションの職員達の表情を見回したあと、言葉を続けた。
「私が問題視したのは ひとり時間差型でダブルチェックを行った看護師が1年目の職員だったことです」
「人手が居ないから仕方ないですよ」カモ副主任が簡単に言い換えした。
「アリムラさんが私のスマホに連絡してきた時間が9時40分です 私の代わりにハマサキ先生が電話対応をされています ハマサキ先生は他の看護職員にダブルチェックをするようにアリムラさんに指示しています」アリムラさんが無言で頷いた。
「そしてこのステーションにも電話をしています」マコトはアリムラさんが持っていた、日勤者用のスマホを見せた。
9時40分と42分、45分、47分に発信した記録が表示されている。
「この時間にステーションには誰が居ましたか?」マコトは机を指で強めに叩いた後、防犯カメラを指さした。
「私は他の内線の対応中でした」脳外受付の事務員が言う。
「アリムラさんの電話も取れないくらい忙しければ ステーションの椅子にどっかり座っている人なんて居ないでしょうけど…」マコトは厳しい視線をカモ副主任へ向けた。副主任も子分たちも黙っている。笑う女も面目なさそうな顔だ。
「今日の業務の割り振りですが 私にシゲトメさんの処置を依頼したのはカモ副主任で オペ前の薬剤取り出し作業をアリムラさんに指示した人もカモ副主任ですね しかも同じ時間8時50分です」脳外の事務員はマコトと目を合わせた。
「シゲトメさんの指示メールが届いたのが8時40分です オペ用の薬剤手配は8時50分です」事務員が時刻という客観的な数字を述べた。
沈黙を破ったのはクボヤマ師長だ。
「この問題はダブルチェックのあり方として 事故管理委員会の議題にします ハ~イお疲れ様です」と閉めた。
19時15分
カモ副主任と子分たちはいつもより早く荷物を纏めだした。30分になると無言で戻ろうとした。マコトは3人を呼び止めた。
「今日はオペ前にミスが生じた事をハマサキ先生にお詫びしますが ダブルチェックについてのご相談もさせて頂きます それと防犯カメラと通話記録は嘘をつきませんのでご注意下さい」
マコトはビシッと言ったあと、次は事務へ連絡した。
「訴訟があるかもしれないので 通信記録と防犯カメラはロックして下さい」と言った。
「タカハシ主任 アリムラさん…」
カワハタさんが2人に声をかけ、煙草を吸う仕草を見せた。マコトは喫煙歴がなくカワハタさんも煙草は結婚を機にやめたらしい。しかしアリムラさんをリラックスさせる必要がある。しかも思い詰めない環境でなくてはならない。
「あとは任せて~」遅出でまだ仕事が残っているニシダさんが3人に手を振る。
病院の敷地は全て禁煙だ。喫煙者の受け皿として病院とは別の建物として、自販機コーナーがあり、そこはベンチに座り缶コーヒーを飲み煙草を吸える環境にしてあった。日勤が終わった者は我慢出来ずにここで一服するはずだが、今日は誰も居ない。
「私のおごるわ…主任は?」カワハタさんが自分のスマホを出した。
「じゃあ無糖の冷たいの…」マコトが言うと、自販機にスマホを近づけて支払う。直後にガコンと音がなり缶コーヒーが出てきた。
「アリムラさんは?」カワハタさんがアリムラさんを見た。
「ホットのミルクコーヒーを頂きます」
「じゃあ 私はバリスタ」カワハタさんは少し高めのコーヒーを手にした。
「まあ お疲れ様~」3人は同時に缶のタブを開けた。一口飲んで息抜きをすると、カワハタさんが煙草のジェスチャーをアリムラさんに見せて「遠慮しないで良いよ」と言った。
アリムラさんはコーヒーを飲み終わる前に煙草に火をつける。フゥーと煙を吐くとアリムラさんはリラックスした。
「今日は申し訳ございませんでした」アリムラさんがまた謝る。
「さっきも言ったでしょ 事故は全員の責任よ 反省や学びが無い輩が一番悪いの」マコトももう一度言い聞かせる。
「けどあの副主任にガツンと言える人はうちには居ないよ 師長はアレだし…」カワハタさんがアリムラさんに何かを摘むように指を差し出した。1本欲しいということだ。
「私はさ…病院内でどんなに威張っていても 外に出た時がその人の本当の価値だと思うの あの人達はどうよ?」マコトはコーヒーをひとくち残して2人に問いかけた。
「う~ん 私はタダのおばちゃん看護師だよね 主任みたいに何か資格を持つわけでもないし…目の前の仕事をやって家の事をしているだけ けどダンナと息子ちゃんは大好きよ」カワハタさんのご主人は家事も子育ても協力的だと聞く。それでも2人の家族の健康管理をしているのは彼女だ。楽ではないはずだ。
「私は実際に働いたら 勉強して来た事以上のことが沢山あって 混乱しちゃっています」勉強して来た知識は科目別に縦並びで、横の繋がりが総力となって活用するのには、ざっと3年だろうか?クボヤマ師長が現場指導者らしいが、1日、1週間、1ヶ月の電カルの記録を師長から見られてもアドバイス等はなく学びはない。
「ハマサキ先生が副院長だった時は看護師もリハも カンファで躓いたらレポート提出だったわ 私も書かされたな~けどレポートはちゃんと読んでくれてたよ…ってあぁうまい」カワハタさんは煙をハァーと吐いた。煙がマコト目に入る。
「私が副主任を蹴ったから皆に迷惑掛けたかもしれないけど 人が育たない職場はいつかポシャるわ どんなに建物や設備が立派でもね」マコトがコーヒーの最後のひとくちを飲んで言った。
「まあ あの人達はやりすぎたかな~」カワハタさんは空き缶に煙草の吸殻を捨てた。アリムラさんの世代には分からない、大昔の曲だ。
アリムラさんも煙草を終わらせて、コーヒーをズッと飲み干すと立ち上がり、マコトとカワハタさんの空き缶を受け取り、ドカドカと捨てた。
「さて帰りますか?明日は私 夜勤入りだけどお二人は日勤でしょ」カワハタさんが一番最初に出口へ向かった。
2023年10月18日 水曜日
7時40分
マコトがいつもより早く出勤すると、ハマサキ先生はもっと早くナースステーションに居たがひとりだ。夜勤の看護師は居ない。コール対応か分からないが、とにかくハマサキ先生ひとりだ。彼は座っておらず、マコトが来るのを待っていたかのように立っていた。
「タカハシさん」先生が手招きをしたので、マコトは小走りでナースステーションに入ると話してきた。
「私がっ…看護師長ですか?」考えてもいなかった言葉に、マコトは大きな声を出しかけた。マコトはこの霧島中央医療センターの主任として働いて、たった2週間だ。そんな昇格はあり得ない。
「私はここに来てまだ2週間しか経ちませんけど よろしいのですか?それにクボヤマ師長はどうなるのですか?」マコトは古い世代の看護師たちをこの脳神経外科のフロアから追い出そうとしている。だがここの師長はヒラヒラと居残っているはずだ。
「タカハシさん 貴方はまだ2週間なのに若い看護師達の信頼を得た そしてこの病院に住み着いていた いじめ問題解決へのきっかけを作った 看護師長に相応しい実力だよ クボヤマさんは全責任を取って辞めるそうだ」
フロアの主が退いた。
「私は大学教授になってから感じたんだけどね 医者だけじゃ病院は成り立たないんだよ 医師を育てるだけでは日本の医療は進歩しない だから…」
「だから先生はコメディカルに厳しかったのですね 若手を育てるために」ハマサキ先生が話す途中で、マコトは鋭すぎる結論を言った。
「厳しいは余計だよ」ハマサキ先生は苦笑いをした。
「僕の考えをヨシノ先生は喜んでね 院長と事務長にプッシュしたんだ 後は君の決断次第だよ」言い終わると先生は廊下の扉を開けて、階段室へと消えていった。
「若手育成と世代交代か…」マコトが呟きながら、ボチボチと仕事の準備を進めようとした時、ひとりの看護師が病棟の奥から歩いてきた。夜勤のカワハタさんだ。
「先生から先に話を聞きました 一応席を外していましたが…」カワハタさんはゆっくりと近づいてきたが、彼女の顔はマコトの昇進話を喜んでいた。
そしてもう一人の夜勤看護師、ヤギさんが来た。
「とても嬉しいです 主任が師長になって下さるのなら」これまで中立で居た人だったが嬉しそうな顔をしている。彼女も本心として、意地悪な副主任たちや無責任な看護師長が好きではなかったようだ。
8時30分
日勤の職員が来る時間だ。
「おはようございます」若い声がする。新人のアリムラさんだ。もう師長も副主任も、その手下達もいない。このフロアをまとめる役割は自分だ。
「おはようございます 朝礼をはじめましょう」マコトは穏やかな声で呼び掛けた。
スタッフが集まった。マコトは穏やかな口調で頭を下げると、若い看護師達も頭を下げた。事務員がマコトにタブレットを渡すとマコトはその内容を読み上げた。
「クボヤマさんとカモさん オサエさん ハラさんが昨日付けで退職となりました カモさんとオサエさん ハラさんに関しては職員のミスを誘発させていたという報告が以前からあり 私とアリムラさんの一件は動かぬ証拠となりました クボヤマさんは管理能力が欠けるとされました」
マコトがスタッフの顔を見回すと全員が無言で聞いている。
「看護師長代理として 私 タカハシが管理者となります 人が減って大変ですが 患者さんが第一です 乗り越えましょう」マコトは頭を下げた。
「今日の予定をお願いします」マコトが言うと事務員が病院全体の動きを話す。
タブレットに書いていなかったが読み上げていない事がある。病院幹部が集まる運営会議が20日の金曜日にあり、マコトはそれに呼ばれている。看護師長の任に就くかをマコトは聞かれるだろう。その時にYesと回答すれば、正式な辞令が来週の月曜日に出る。
「最後に業務のチェック体制についてお話します 前回の薬剤管理ミスはオペ室によるトリプルチェックで 大きな事故とはなりませんでした 今後は2人連続双方向型を提案いたします」
2人連続双方向型は、2人がそれぞれ異なる視点から業務を確認するダブルチェック法だ。例えば1人目が仕事をしていき終了したら2人目が1人目の仕事の終了地点から遡りチェックをしていく。 時間は掛かるがその分、ミスの発見もし安い。経験が浅いスタッフと、経験のあるスタッフのペアで行なうと手を抜かず学習し合うためより良い結果となる。
「例えば薬剤の準備です 薬剤オーダーに従い薬剤を取り出しをした職員が作業終了後に報告 パソコン業務をしている職員がチェックを薬剤オーダーを下から照合してチェックをはじめる 作業をしていた職員はパソコン業務をする このコンビネーションです」人手不足が解消しれていない以上、マコトの話はまだ机上の空論の域の中だ。しかし覚悟は決めなければならない。
「看護師長にふさわしい実力か…」マコトはハマサキ先生の言葉を思い出した。
東京の病院で働いていた頃の話だ。
マコトは仕事、人生の「勝ち」を求めて鹿児島を離れて上京した。自分の力を東京で試したかった。東京には沢山の実力者が居たが、彼女は努力をし、子供の頃から持っていた度胸と機転でその競争に勝ち続けた。
そんなマコトの評判は大型病院の中では有名となり、恵まれた容姿を持つこともあり、院長の長男の目に止まった。
彼は「将来俺と結婚して 看護部部長としてこの病院を支えてくれ」と言い、交際をはじめた。12歳年上の医師だった。彼との結婚で看護部部長という「勝ち」を手にするマコトのプライドは上がって行った。
院長の長男が政治家の娘と結婚するまでは…
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
【本編完結】若き公爵の子を授かった夫人は、愛する夫のために逃げ出した。 一方公爵様は、妻死亡説が流れようとも諦めません!
はづも
恋愛
本編完結済み。番外編がたまに投稿されたりされなかったりします。
伯爵家に生まれたカレン・アーネストは、20歳のとき、幼馴染でもある若き公爵、ジョンズワート・デュライトの妻となった。
しかし、ジョンズワートはカレンを愛しているわけではない。
当時12歳だったカレンの額に傷を負わせた彼は、その責任を取るためにカレンと結婚したのである。
……本当に好きな人を、諦めてまで。
幼い頃からずっと好きだった彼のために、早く身を引かなければ。
そう思っていたのに、初夜の一度でカレンは懐妊。
このままでは、ジョンズワートが一生自分に縛られてしまう。
夫を想うが故に、カレンは妊娠したことを隠して姿を消した。
愛する人を縛りたくないヒロインと、死亡説が流れても好きな人を諦めることができないヒーローの、両片想い・幼馴染・すれ違い・ハッピーエンドなお話です。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
婚約者すらいない私に、離縁状が届いたのですが・・・・・・。
夢草 蝶
恋愛
侯爵家の末姫で、人付き合いが好きではないシェーラは、邸の敷地から出ることなく過ごしていた。
そのため、当然婚約者もいない。
なのにある日、何故かシェーラ宛に離縁状が届く。
差出人の名前に覚えのなかったシェーラは、間違いだろうとその離縁状を燃やしてしまう。
すると後日、見知らぬ男が怒りの形相で邸に押し掛けてきて──?
ある辺境伯の後悔
だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。
父親似だが目元が妻によく似た長女と
目元は自分譲りだが母親似の長男。
愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。
愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる