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水のソムリエ
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「イクハラさんですね ごめんなさい 私が間違って持ったままでした」マコトは両手でイクハラさんにボールペンを返した。
「これね…就職祝いに貰った思い出の品…有り難うございました」
イクハラさんはエレベーターのドアの向こうでお辞儀をすると消えていった。
2023年10月12日 木曜日
6時50分
「ひとっ風呂とはいかないけど…」マコトは出勤前に島津の湯という温泉センターへ立ち寄った。営業時間ではないが、そこの入口には足湯がある。足湯でリラックスしてから職場に行こうとしているのだ。
「足を入れるだけなのに 極楽よね~」マコトは浴槽でバタ足をするように左右交互に動かした。バシャバシャと音を立てると目の前で湯気がたくさん舞う。
20分ほど遊ぶとマコトは靴を履いて車に向かう。駐車場にはもう一つ水源地がある。足湯を楽しむ時間すらない者が、車を停め蛇口をひねってバシャッと手や顔を洗える場所だ。朝早い時間だがそこに誰かいた。イクハラさんだ。彼は科学実験にでも使うようなビーカーに水を入れて、飲もうとしていた。
危険行為だ。循環器の持病を持つ患者は天然水をむやみに飲んではいけない。マコトの行動は速かった。
「イクハラさ~ん」マコトはイクハラさんの腕を掴んだ。その勢いで水がイクハラさんのシャツの裾とズボンを濡らした。
「ここの水は飲用許可が出てないでしょ」
マコトはイクハラさんの持っていたビーカーを取り上げた。そして水を飲まないように書いてある注意書きをバンと叩く。
「あ~ボールペンの主任さん?」イクハラさんはマコトの顔を見て手を叩いて言った。思い出してくれたのだ。名前ではないが…
「これって温泉水でしょ ろ過や殺菌をしていないから危険ですよ」ビーカーに入っていた温泉水をマコトは足元にザッと捨ててしまった。
「一応 安全管理はしているけどね」イクハラさんが少し離れた場所を指差すと、そこにはパカッと開いてあるスーツケースがあった。そこはとても小さな実験室だった。確かにろ過やpH値を測れそうな物品があり、加熱するためのバーナーも置いてあった。それを見たマコトは肩の力を抜いた。
「急に邪魔をしてごめんなさいね 私はいつも見て見ぬふりが出来ないから…」
小さくため息をつくと改めて頭を下げた。
「いや…どうせ水だし服も乾くから大丈夫」イクハラさんはメモ帳を開いてペンを握った。あの時と同じ光景だ。何を書いているのか気になり、マコトが覗き込むと「溶解固形物100ppm」と書いていた。
「この数値って?」
「足湯は本物だけど こっちの水は水道水かもね」水道水なら仮に客が飲んでも問題はない。イクハラさんはスーツケースの場所に移動するとスマホに何かを打ち込み、道具を片付けはじめた。
マコトも職場にも行かなくてはならないが、イクハラさんはどうやって山の中の温泉センターに来たのだろうか?車の運転は出来ない。
「あと40分もすれば酒造会社の人が来る」イクハラさんはスマートウォッチを点灯させた。画面には時間だけでなく、彼の脈拍や酸素飽和度が表示されている。
「それなら心配ないですね では失礼します」マコトは車のドアを開けて乗り込んだ。
「気をつけて~ボールペンの主任さん!!」子供みたいに元気よくイクハラさんは手を振った。
「ボールペンって…」マコトは苦笑いをした。
霧島中央医療センター 脳神経外科
8時30分
朝礼が終わると日勤スタッフそれぞれが業務に入った。
今日はマコトにも若い看護師達もいきいきしている。副主任のカモさんと子分たちが揃って3人休んでいるからだ。ひとりだけ出勤は基本的に無いらしい。ではマコトが休みで副主任が出勤の時、若い職員はプレッシャーの中でどうしているのだろう?早めに対策を取らなくてはならない。
9時00分
「タカハシちゃ~ん この古いファイルをリハ室に持っていって~」どこからか気の抜けた口調の女性が来た。クボヤマ師長だ。師長の手招きで私物置き場の奥の奥、面倒くさくて誰も無視し続けていた物が置いてある。
電カル化する前の時代の書類が放置されていたのだろう。段ボールの中に無造作に詰め込んである。見ると古い脳画像や身体機能評価、精神機能評価の記録がされている。
この病院は10年位前からタブレット端末を職員が持ち歩き、完全電子化されたそうだが移行期間の時の記録だろう。
段ボールひとつでも中身は紙だ。重いに決まっている。台車が欲しいがここにはない。ストレッチャーではなく車椅子、車椅子に空きがあるか?マコトは見つけた。古い車椅子だが十分だ。
マコトが段ボールを持ち上げようとした時、もう一組の手が加わった。ヤギさんという、定年に近い女性看護師の手だ。彼女は人の悪口を言わず、与えられた仕事を確実に行う方だ。普段は中立で居るが「腰を痛めるから」とマコトに力を貸してくれたのだ。
ふたりで段ボールをドサッと置くと、マコトは礼を言ってエレベーターの前まで移動し降りていった。
古い車椅子だがタイヤの空気やブレーキのメンテナンスは出来ている。スムーズに廊下を進むとリハビリ室に到着した。
「あの…」
マコトが事務員に声を掛けようとすると、事務員はマコトが歩いて来た廊下を指さした。男が何かを拾っている。
「高橋 ま・こ・と…」
マコトは自分の名札を落としていたが、それを拾ってくれた人がいたのだ。イクハラさんだ。いつの間にか病院に来ている。下の名前をいちいち読まれるのは嫌だが、拾ってくれた礼は言わなければならない。
彼はマコトの姿を見ると「あ~っ ボールペンの主任さんだ」と思い出してくれた。イクハラさんはマコトの名前と顔を一致させた。
「イクハラさん 名札を拾って下さり有難うございます」マコトは先に礼を言った。
しかし記憶障害の彼はマコトを「ボールペンの主任さん」とインプットしてしまった。ちょっと嫌な呼ばれ方だが、せっかく覚えた情報を忘れろとは言えない。ならば彼の中で印象深いものをもう一つ用意して上書きすれば良い。彼は毎回、マコトの名前がひらがな表記であることを気にしている。
友人でもない人から下の名前で呼ばれるのも良くはないが、「ボールペンの主任さん」よりはましだ。
「私の事はま・こ・と…マコトと呼んで下さい それが一番シンプルなようですから…」
「はい マコトさん…マコトさんですね メモして良いですか?」明るい表情でイクハラさんが復唱すると、メモを取り出した。
「駄目です 先ずは頭に記憶して下さい」
マコトは顔を赤らめながら、リハ職員を呼んだ。近くに居たのは言語聴覚士のナガサワさんだ。彼はマコトとイクハラさんの会話を見て、ニコニコとしていた。
「イクハラさん 今日は作業療法が先ですよ」ナガサワさんはイクハラさんの胸ポケットに入っているスマホを指さした。するとアラームが鳴る。
「時間ですね サトウで~す 宜しくお願いしま~す」やや弾けのある若い女性の作業療法士が挨拶をしてきた。サトウさんはイクハラさんの背中を馴れ馴れしくポンポンと叩いて、彼を連れてリハビリ室へ歩いて行った。それを見ながら、マコトは頷いた。若さという特権には使用期限がある。大いに活用したらよい。
「この書類ってどこに眠っていたんですか?」ナガサワさんが聞いてきた。
「脳神経外科の奥の奥~にありました 頭の画像とか評価用紙とか ごちゃ混ぜです」
「電カルからの移行期間の時代か~あっ! イクハラさんの情報がこの中にありますよ あの方は僕の初担当でしたから 今でも覚えています ご覧になりますか?」ナガサワさんは評価用紙を抜き出した。しかしマコトは断った。
「昔データは苦しみが残っているだけかもしれませんよ そのままシュレッダーにしませんか?」マコトの配慮、優しさだ。ナガサワもそれを理解した。
「そうですね どうせ僕らだって記憶に無かったモノですから 無かったで良いと思います」ナガサワさんは段ボールの中身を分割して受付の奥に持って行った。そこにはシュレッダーがある。
車椅子が空になったので、マコトは脳神経外科のフロアに戻ろうとするとナガサワさんが呼び止めた。
「今日の14時にイクハラさんのリハカンファがあるんですよ 参加しますか?ハマサキ先生やヨシノ先生が来るので 勉強になりますよ」イクハラさんの未来の可能性を議論する。参加する価値はある。
「ウチの師長から了解が貰えたら参加します 後ほどご連絡します」マコトとナガサワさんは挨拶をする。
脳神経外科
ナースステーションには何故かまだクボヤマ師長が居た。パソコンを開いているが、電カルではない。職場のパソコンでSNSサイトを開いていた。
「ほら~イクハラさんが 水の分析を更新してる~」他の看護師に声を掛けて画面を見るように手招きしている。
「タカハシちゃんもおいで~」面倒だが今は副主任と戦っているため、敵は増やしたくない。誘われる通り、画面を覗き込んだ。
更新時間は9時ちょうど。
島津の湯とは別の水源地について述べてある。pHや硬度、アルカリ度、微量元素といった化学的分析だけではない。
水の透明度、水の苦み、柔らかさ、後味と書いてある。まるでワインのテイスティングみたいだが、実際にお酒作りに適しているかやこの水を使ったお勧め料理、純粋に飲料水として良質かどうかまで研究されている。
マコトはクボヤマ師長に14時のカンファに参加できないか尋ねると、気楽に「いいんじゃな~い」と返事があった。しかしマコトが不在になった穴を自分がフォローするつもりは無さそうだ。マコトは午後に行う仕事を午前中に終わらせて、昼食に入った。
13時00分
マコトは昼食をアリムラさんと食べていた。今日の昼食は回鍋肉だ。昼食のメニューにしてはヘビーかもしれないが、医療従事者に昼も夜もない。基礎体力が必要だ。食べるスピードが速いマコトだが、新人のアリムラさんも速い。看護師の人手不足が勤務をタイトにさせて、食事もゆっくり摂れない。医療業界全体が改善しなくてはならない問題だ。
ふたりとも食べ終わった時にアリムラさんが口を開いた。
「ヨシノ先生の回診に同行して思ったんですけど 今は何でも電子化されてますよね ヨシノ先生は電カルにはない事を沢山教えてくれたんです」あらかじめ落とし所を作った文章では、ディスカッションは起きない。余談等も聞くチャンスは無い。
「そうなの電カルだとクリックして終わりだけど 紙カルテは書いた人の感情が入っていてね 訂正印押して書き直しがあったりしたら 書く人の悩みとか考えちゃうのよ」マコトは既に古い世代の職員なのか?
「リモートワークってカメラが切り取った世界だから想像できないけど 少なくとも私達は人と人が向き合う仕事よ」
マコトは若い世代への批判に近いことを言ってしまった。その時にアリムラさんが手にしていたスマホを慌てて隠していた。
沢山の先輩達の動きを見て、若い人がそれをアレンジしていく。次世代へと仕事を継ぐ上での理想ではある。
マコトはまたリクライニングシートでくつろぐ事にしたが、アリムラさんは「ちょっと…」と言って煙草を吸いに行った。
14時00分
病院会議室…
「大学の講義みたい」
マコトは驚いた。映画が見れるような迫力のあるスクリーンに、患者の画像が映し出され若い医師が説明をしている。それをハマサキ先生とヨシノ先生が聞いている。職員達の緊張が手触りで分かる。本当ならアリムラさんにも見てほしいが、人手はそこまで余裕がない。
若い医師は記憶障がいについてレポートに近い情報を話していたが、ハマサキ先生もヨシノ先生も確りと聞いている。血流を増やして脳のダメージを回復していく?そんな話をしていた。次はナガサワさんがイクハラさんの能力の応用について話した。
「記憶と感情は一体です イクハラさんの水のテイスティングとスケジュールと組んでいきます あの方の味覚という感性がピークの瞬間に日々必要な記憶を付加すれば生活サイクルよく出来ないでしょうか?」
理にかなっている。簡単に言うと「頭と体で覚えろ」だ。
イクハラさんは病前は帝国技術研究所の職員だったが、鹿児島に来ていた時に心肺停止で救急搬送された。蘇生はされたが脳に後遺症が残ったらしい。
障がいを持った者の持つ喪失感や絶望感は計り知れないが、マコトが不思議に思ったのはイクハラさんが常に新しい発見を求めて前向きに生きている事だ。
ヨシノ先生はナガサワさんの発想に興味を持ち、GPSと組んだら彼の記憶が倍増すると話していた。
「スマホのタイマーんがスケジュールを教えるだけじゃあもの足りんとですよ GPS衛星の彼んスケジュールば知らせて 3次元として生活ば…」
カンファレンスが終了した時に、マコトはナガサワさんに昔のイクハラさんの様子を聞いた。
「あの方ははじめから明るかったですね 新しい情報を覚えることに一生懸命でしたが 昔の記憶には触れたがりませんでした 僕も踏み込みませんでしたけど」
知られたくない過去もあれば、思い出したくない過去もある。
「そういえば あの人のお父さんって日本セミコンダクターの会長ですよ」
日本の半導体メーカーに日本セミコンダクターという大企業があり、鹿児島の国分にも工場がある。マコトが驚いた顔をすると
「あの大会社の息子さんです だから『介護人を個人で雇いたい』ってご家族が言ったらしいですけど 入院患者は平等だ!!ってハマサキ先生が断りました」ハマサキ先生は教科書どおりの真面目な人物なので、言いそうだ。
「じゃあ水のテイスティングは病後に着けたスキル?」
「元から味覚が優れていたんじゃないですかね ある時 自販機の水をあれこれ飲み比べをはじめました ヨシノ先生がそれを見て 鹿児島の湧き水を汲んではあの人に飲んでもらっていました それで感性が磨かれて『自分はこれで生きていく』って決めたみたいですよ」才能を伸ばすヨシノ先生らしい。
「残った機能を伸ばして社会に戻るのがリハビリですけど あの人は過去を断ち切って今に至る感じがします」
脳細胞は再生しない。大理石の塊を削って1つの石像を作るという例えがある。イクハラさんは人生の余計なものを削って、未来を作ったのかもしれない。
「人生も感性も削り取って出来上がりね…水のソムリエさん」マコトは肩をすくませてナガサワさんと分かれた。
「これね…就職祝いに貰った思い出の品…有り難うございました」
イクハラさんはエレベーターのドアの向こうでお辞儀をすると消えていった。
2023年10月12日 木曜日
6時50分
「ひとっ風呂とはいかないけど…」マコトは出勤前に島津の湯という温泉センターへ立ち寄った。営業時間ではないが、そこの入口には足湯がある。足湯でリラックスしてから職場に行こうとしているのだ。
「足を入れるだけなのに 極楽よね~」マコトは浴槽でバタ足をするように左右交互に動かした。バシャバシャと音を立てると目の前で湯気がたくさん舞う。
20分ほど遊ぶとマコトは靴を履いて車に向かう。駐車場にはもう一つ水源地がある。足湯を楽しむ時間すらない者が、車を停め蛇口をひねってバシャッと手や顔を洗える場所だ。朝早い時間だがそこに誰かいた。イクハラさんだ。彼は科学実験にでも使うようなビーカーに水を入れて、飲もうとしていた。
危険行為だ。循環器の持病を持つ患者は天然水をむやみに飲んではいけない。マコトの行動は速かった。
「イクハラさ~ん」マコトはイクハラさんの腕を掴んだ。その勢いで水がイクハラさんのシャツの裾とズボンを濡らした。
「ここの水は飲用許可が出てないでしょ」
マコトはイクハラさんの持っていたビーカーを取り上げた。そして水を飲まないように書いてある注意書きをバンと叩く。
「あ~ボールペンの主任さん?」イクハラさんはマコトの顔を見て手を叩いて言った。思い出してくれたのだ。名前ではないが…
「これって温泉水でしょ ろ過や殺菌をしていないから危険ですよ」ビーカーに入っていた温泉水をマコトは足元にザッと捨ててしまった。
「一応 安全管理はしているけどね」イクハラさんが少し離れた場所を指差すと、そこにはパカッと開いてあるスーツケースがあった。そこはとても小さな実験室だった。確かにろ過やpH値を測れそうな物品があり、加熱するためのバーナーも置いてあった。それを見たマコトは肩の力を抜いた。
「急に邪魔をしてごめんなさいね 私はいつも見て見ぬふりが出来ないから…」
小さくため息をつくと改めて頭を下げた。
「いや…どうせ水だし服も乾くから大丈夫」イクハラさんはメモ帳を開いてペンを握った。あの時と同じ光景だ。何を書いているのか気になり、マコトが覗き込むと「溶解固形物100ppm」と書いていた。
「この数値って?」
「足湯は本物だけど こっちの水は水道水かもね」水道水なら仮に客が飲んでも問題はない。イクハラさんはスーツケースの場所に移動するとスマホに何かを打ち込み、道具を片付けはじめた。
マコトも職場にも行かなくてはならないが、イクハラさんはどうやって山の中の温泉センターに来たのだろうか?車の運転は出来ない。
「あと40分もすれば酒造会社の人が来る」イクハラさんはスマートウォッチを点灯させた。画面には時間だけでなく、彼の脈拍や酸素飽和度が表示されている。
「それなら心配ないですね では失礼します」マコトは車のドアを開けて乗り込んだ。
「気をつけて~ボールペンの主任さん!!」子供みたいに元気よくイクハラさんは手を振った。
「ボールペンって…」マコトは苦笑いをした。
霧島中央医療センター 脳神経外科
8時30分
朝礼が終わると日勤スタッフそれぞれが業務に入った。
今日はマコトにも若い看護師達もいきいきしている。副主任のカモさんと子分たちが揃って3人休んでいるからだ。ひとりだけ出勤は基本的に無いらしい。ではマコトが休みで副主任が出勤の時、若い職員はプレッシャーの中でどうしているのだろう?早めに対策を取らなくてはならない。
9時00分
「タカハシちゃ~ん この古いファイルをリハ室に持っていって~」どこからか気の抜けた口調の女性が来た。クボヤマ師長だ。師長の手招きで私物置き場の奥の奥、面倒くさくて誰も無視し続けていた物が置いてある。
電カル化する前の時代の書類が放置されていたのだろう。段ボールの中に無造作に詰め込んである。見ると古い脳画像や身体機能評価、精神機能評価の記録がされている。
この病院は10年位前からタブレット端末を職員が持ち歩き、完全電子化されたそうだが移行期間の時の記録だろう。
段ボールひとつでも中身は紙だ。重いに決まっている。台車が欲しいがここにはない。ストレッチャーではなく車椅子、車椅子に空きがあるか?マコトは見つけた。古い車椅子だが十分だ。
マコトが段ボールを持ち上げようとした時、もう一組の手が加わった。ヤギさんという、定年に近い女性看護師の手だ。彼女は人の悪口を言わず、与えられた仕事を確実に行う方だ。普段は中立で居るが「腰を痛めるから」とマコトに力を貸してくれたのだ。
ふたりで段ボールをドサッと置くと、マコトは礼を言ってエレベーターの前まで移動し降りていった。
古い車椅子だがタイヤの空気やブレーキのメンテナンスは出来ている。スムーズに廊下を進むとリハビリ室に到着した。
「あの…」
マコトが事務員に声を掛けようとすると、事務員はマコトが歩いて来た廊下を指さした。男が何かを拾っている。
「高橋 ま・こ・と…」
マコトは自分の名札を落としていたが、それを拾ってくれた人がいたのだ。イクハラさんだ。いつの間にか病院に来ている。下の名前をいちいち読まれるのは嫌だが、拾ってくれた礼は言わなければならない。
彼はマコトの姿を見ると「あ~っ ボールペンの主任さんだ」と思い出してくれた。イクハラさんはマコトの名前と顔を一致させた。
「イクハラさん 名札を拾って下さり有難うございます」マコトは先に礼を言った。
しかし記憶障害の彼はマコトを「ボールペンの主任さん」とインプットしてしまった。ちょっと嫌な呼ばれ方だが、せっかく覚えた情報を忘れろとは言えない。ならば彼の中で印象深いものをもう一つ用意して上書きすれば良い。彼は毎回、マコトの名前がひらがな表記であることを気にしている。
友人でもない人から下の名前で呼ばれるのも良くはないが、「ボールペンの主任さん」よりはましだ。
「私の事はま・こ・と…マコトと呼んで下さい それが一番シンプルなようですから…」
「はい マコトさん…マコトさんですね メモして良いですか?」明るい表情でイクハラさんが復唱すると、メモを取り出した。
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「イクハラさん 今日は作業療法が先ですよ」ナガサワさんはイクハラさんの胸ポケットに入っているスマホを指さした。するとアラームが鳴る。
「時間ですね サトウで~す 宜しくお願いしま~す」やや弾けのある若い女性の作業療法士が挨拶をしてきた。サトウさんはイクハラさんの背中を馴れ馴れしくポンポンと叩いて、彼を連れてリハビリ室へ歩いて行った。それを見ながら、マコトは頷いた。若さという特権には使用期限がある。大いに活用したらよい。
「この書類ってどこに眠っていたんですか?」ナガサワさんが聞いてきた。
「脳神経外科の奥の奥~にありました 頭の画像とか評価用紙とか ごちゃ混ぜです」
「電カルからの移行期間の時代か~あっ! イクハラさんの情報がこの中にありますよ あの方は僕の初担当でしたから 今でも覚えています ご覧になりますか?」ナガサワさんは評価用紙を抜き出した。しかしマコトは断った。
「昔データは苦しみが残っているだけかもしれませんよ そのままシュレッダーにしませんか?」マコトの配慮、優しさだ。ナガサワもそれを理解した。
「そうですね どうせ僕らだって記憶に無かったモノですから 無かったで良いと思います」ナガサワさんは段ボールの中身を分割して受付の奥に持って行った。そこにはシュレッダーがある。
車椅子が空になったので、マコトは脳神経外科のフロアに戻ろうとするとナガサワさんが呼び止めた。
「今日の14時にイクハラさんのリハカンファがあるんですよ 参加しますか?ハマサキ先生やヨシノ先生が来るので 勉強になりますよ」イクハラさんの未来の可能性を議論する。参加する価値はある。
「ウチの師長から了解が貰えたら参加します 後ほどご連絡します」マコトとナガサワさんは挨拶をする。
脳神経外科
ナースステーションには何故かまだクボヤマ師長が居た。パソコンを開いているが、電カルではない。職場のパソコンでSNSサイトを開いていた。
「ほら~イクハラさんが 水の分析を更新してる~」他の看護師に声を掛けて画面を見るように手招きしている。
「タカハシちゃんもおいで~」面倒だが今は副主任と戦っているため、敵は増やしたくない。誘われる通り、画面を覗き込んだ。
更新時間は9時ちょうど。
島津の湯とは別の水源地について述べてある。pHや硬度、アルカリ度、微量元素といった化学的分析だけではない。
水の透明度、水の苦み、柔らかさ、後味と書いてある。まるでワインのテイスティングみたいだが、実際にお酒作りに適しているかやこの水を使ったお勧め料理、純粋に飲料水として良質かどうかまで研究されている。
マコトはクボヤマ師長に14時のカンファに参加できないか尋ねると、気楽に「いいんじゃな~い」と返事があった。しかしマコトが不在になった穴を自分がフォローするつもりは無さそうだ。マコトは午後に行う仕事を午前中に終わらせて、昼食に入った。
13時00分
マコトは昼食をアリムラさんと食べていた。今日の昼食は回鍋肉だ。昼食のメニューにしてはヘビーかもしれないが、医療従事者に昼も夜もない。基礎体力が必要だ。食べるスピードが速いマコトだが、新人のアリムラさんも速い。看護師の人手不足が勤務をタイトにさせて、食事もゆっくり摂れない。医療業界全体が改善しなくてはならない問題だ。
ふたりとも食べ終わった時にアリムラさんが口を開いた。
「ヨシノ先生の回診に同行して思ったんですけど 今は何でも電子化されてますよね ヨシノ先生は電カルにはない事を沢山教えてくれたんです」あらかじめ落とし所を作った文章では、ディスカッションは起きない。余談等も聞くチャンスは無い。
「そうなの電カルだとクリックして終わりだけど 紙カルテは書いた人の感情が入っていてね 訂正印押して書き直しがあったりしたら 書く人の悩みとか考えちゃうのよ」マコトは既に古い世代の職員なのか?
「リモートワークってカメラが切り取った世界だから想像できないけど 少なくとも私達は人と人が向き合う仕事よ」
マコトは若い世代への批判に近いことを言ってしまった。その時にアリムラさんが手にしていたスマホを慌てて隠していた。
沢山の先輩達の動きを見て、若い人がそれをアレンジしていく。次世代へと仕事を継ぐ上での理想ではある。
マコトはまたリクライニングシートでくつろぐ事にしたが、アリムラさんは「ちょっと…」と言って煙草を吸いに行った。
14時00分
病院会議室…
「大学の講義みたい」
マコトは驚いた。映画が見れるような迫力のあるスクリーンに、患者の画像が映し出され若い医師が説明をしている。それをハマサキ先生とヨシノ先生が聞いている。職員達の緊張が手触りで分かる。本当ならアリムラさんにも見てほしいが、人手はそこまで余裕がない。
若い医師は記憶障がいについてレポートに近い情報を話していたが、ハマサキ先生もヨシノ先生も確りと聞いている。血流を増やして脳のダメージを回復していく?そんな話をしていた。次はナガサワさんがイクハラさんの能力の応用について話した。
「記憶と感情は一体です イクハラさんの水のテイスティングとスケジュールと組んでいきます あの方の味覚という感性がピークの瞬間に日々必要な記憶を付加すれば生活サイクルよく出来ないでしょうか?」
理にかなっている。簡単に言うと「頭と体で覚えろ」だ。
イクハラさんは病前は帝国技術研究所の職員だったが、鹿児島に来ていた時に心肺停止で救急搬送された。蘇生はされたが脳に後遺症が残ったらしい。
障がいを持った者の持つ喪失感や絶望感は計り知れないが、マコトが不思議に思ったのはイクハラさんが常に新しい発見を求めて前向きに生きている事だ。
ヨシノ先生はナガサワさんの発想に興味を持ち、GPSと組んだら彼の記憶が倍増すると話していた。
「スマホのタイマーんがスケジュールを教えるだけじゃあもの足りんとですよ GPS衛星の彼んスケジュールば知らせて 3次元として生活ば…」
カンファレンスが終了した時に、マコトはナガサワさんに昔のイクハラさんの様子を聞いた。
「あの方ははじめから明るかったですね 新しい情報を覚えることに一生懸命でしたが 昔の記憶には触れたがりませんでした 僕も踏み込みませんでしたけど」
知られたくない過去もあれば、思い出したくない過去もある。
「そういえば あの人のお父さんって日本セミコンダクターの会長ですよ」
日本の半導体メーカーに日本セミコンダクターという大企業があり、鹿児島の国分にも工場がある。マコトが驚いた顔をすると
「あの大会社の息子さんです だから『介護人を個人で雇いたい』ってご家族が言ったらしいですけど 入院患者は平等だ!!ってハマサキ先生が断りました」ハマサキ先生は教科書どおりの真面目な人物なので、言いそうだ。
「じゃあ水のテイスティングは病後に着けたスキル?」
「元から味覚が優れていたんじゃないですかね ある時 自販機の水をあれこれ飲み比べをはじめました ヨシノ先生がそれを見て 鹿児島の湧き水を汲んではあの人に飲んでもらっていました それで感性が磨かれて『自分はこれで生きていく』って決めたみたいですよ」才能を伸ばすヨシノ先生らしい。
「残った機能を伸ばして社会に戻るのがリハビリですけど あの人は過去を断ち切って今に至る感じがします」
脳細胞は再生しない。大理石の塊を削って1つの石像を作るという例えがある。イクハラさんは人生の余計なものを削って、未来を作ったのかもしれない。
「人生も感性も削り取って出来上がりね…水のソムリエさん」マコトは肩をすくませてナガサワさんと分かれた。
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