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名札とボールペン
しおりを挟む「高橋 ま・こ・と…」背の高い男の視線は看護師の名札に注がれていた。
「ですけど 何か?」マコトはキツイ口調で言った。マコトの名前には漢字は無い。何故かは知らないが、戸籍として名前はひらがなで「まこと」だ。漢字が無いことにマコトは少しだけコンプレックスがあったが、反面「ひらがなで可愛い」と言われている事実も理解している。
「いや 失礼…」背の高い男は頭を下げると、病院の廊下を会計窓口の方向へ歩いて行った。
「チョット良い男」だった。
2023年10月6日 金曜日
タカハシ マコトが故郷の鹿児島県霧島市にある、医療法人今薗会 霧島中央医療センターで働きはじめて2日目だ。大学を出て看護師となり、8年の経験がある。大きな病院でも地方ではまだ准看護師がこの時代も見られ、正看護師であるマコトは主任として職に就く。この病院に来るまで、そして30歳になるまで、彼女は競争社会で常に「勝ち組」だった事もある。
その日の勤務はとくに何もなく終了し、自宅に戻る。独身寮がある職場だったが、友達を作りたくないマコトはワンルームのアパートを借りている。家賃は少し高いが大きめの浴槽が気に入り借りることにした。
シャワーで体の汚れを流すと、浴槽にザバッと入った。鹿児島に戻る前から、どんなに仕事が遅くてもマコトは入浴をしていた。シャワーでは1日は終われない。霧島の温泉地で育ったからか、入浴は好きだ。
「力は維持していると思うけど…」浴槽で自分の手、腕、体を見つめながらつぶやいた。
目を閉じると昔の自分を思い出す。
見た目がクラスメイトの中では一番可愛いと自覚したのは、10歳の頃だ。小学校の高学年になり、見た目に加えて統率心を持つようになり男女とも一目置かれる存在となった。
中学生になりやや小柄だが体が細く胸が大きい体型、目鼻の整った顔の自分は皆から愛でられ、東京出身の父親を持つため「分限者」と地元では呼ばれてお姫様のように扱われた。そして統率心や求心力も成長して同じ学校のヤンキーすら彼女とは喧嘩をしなかった。
その力でもっと上を行く。
成績が特別優秀というほどではなかったが、観察力と機転が利くので看護師となり、上京して上へ行くと考えていく。
翌週
2024年10月9日 月曜日
マコトは「チョット良い男」と再会した。
「高橋 ま・こ・と…」男は再びマコトの名札を凝視した。
「先週も私の名前を読んでいましたよね?気にされると嫌なんですけど!!」マコトは怒った口調になる。名前がひらがなであること、ストーカー犯罪が絶えない時代であることから、強い不快感を覚えた。
「ゴメンナサイ 俺はすぐ忘れちゃうから…」男はメモ帳を取り出し、何かを書き始めた。
「人の名前をメモするとか 犯罪ですよ!!」マコトは男からメモ帳を奪うが、彼のメモ帳は紐が掛けられておりそれは首で一回りしていた。首を紐で引っ張られた為、男はそのままマコトの上にバタンと倒れてしまった。
病院の廊下を歩いていた患者、職員、取引業者、同じ空間にいた全ての者がふたりに注目した。
「止めてよ…」マコトは被さる男から這い出て、取り上げたメモ帳を覗き込む。そこには
「職員の名札はスルー」とだけ書かれてあった。自分の名前をメモしたストーカーではなく、「他人の名前に執着してはならない」と自戒の意を書いていたのだった。
男が起き上がるとマコトが読んでいたメモ帳のページを破り、目の前で四つに破いた。
「とにかくゴメンナサイ」と男が頭を下げると、胸ポケットに入っていたスマホ、背負っていたリュックからもプラスチック製のケースが複数ドカドカと落ちてきた。そして最後にタブレットがリュックから現れて落下し始めるが、マコトはとっさにタブレットを受け止めた。
「ハイ」マコトは反射的に取った行動の延長で、感情を伴わずに自動的に男に渡す。彼の持ち物を一通り見ると、私物にはどれも紐が付いている。
「助かったよ~有難うございます」男が明るい口調で礼を言い、また頭を下げようとした為、マコトは男の動きを両手で止めた。
「もういいですよ」マコトはその場から離れて振り返ると、男も何事も無かったように受け付けに向かって歩いて行った。
マコトは漠然と「チョット良い男」を知りたくなった。彼が出てきたのはリハビリ科の訓練室だ。「忘れる」「メモ」でピンときた。リハビリ室の出口をくぐると直ぐに、中央受け付けとは別のリハビリテーション部の窓口がある。
「あの人 誰です?」マコトは受付の女性に質問した。友人ではない。
「個人情報です 言えません」受付の女性の言葉は冷たい。情報が厳格に管理される時代だ。まして受け付けは色々な人達が行き来する。口は堅いのは当然だった。
「忘れる人がリハビリか…まだ若いのに 32歳位かな~」
マコトが配属された部署は脳神経外科だ。東京の職場でも脳神経外科に所属しており、脳にダメージを受けた患者をたくさん見てきた。過去の記憶が失われたり、言葉が失われたり、新しい情報が覚えられない等、もちろん体の麻痺が後遺症として現れる患者もいる。
見たところ「チョット良い男」はどうやら新しい情報が覚えられないタイプと思われる。専門的には「前向性健忘症」と呼ばれている症状である。その患者達は記憶を定着させる前に一時的に留める海馬が損傷されているため、情報のバックアップは出来ない。
そのためスマートフォンに日々の予定、更に先のスケジュールを打ち込み、予定が来るとアラームが鳴る。他にも記録と通知機能のある腕時計を活用したり、原始的なメモも活用する。
しかし患者達は「情報を記録していた物品の存在」すら忘れてしまうため、複数のモノに記録し体から離さず、予定をチェックするようにメモ帳等を首からぶら下げて常に体にパタパタと当たるようにしている。「何かがある」と認識するために。不自由な生活だ。
病院から与えられたIDを使えば彼の情報は分かるが、仕事とは直接関係のない個人情報を得ることはルール違反だ。今、自分は他の病院から来た主任である。仕事で結果を出し、職員達の見本とならなければならない。マコトは脳神経外科のナースステーションに戻り、入院患者のファイルを開き一人ずつ現病歴、合併症、服薬内容、過去1週間のバイタルサインのチェック、食事、排泄に目を通した。
勤務をはじめて3日目、看護師の人手不足は深刻で管理者のなり手は更に少ない。研修すら出来ないくらい切羽詰まっているようだが、とにかくやるしかない。出来ることからはじめる。
「主任さん 305号室のヒダカさんが吐き気がするそうですよ」看護副主任のカモさんが患者の変化を報告して来た。50歳代で長年在職しているのに、他所から入ってきた主任が気に入らないのか?自身の方が患者を知っており、その変化が何を意味してどう対処するかは分かっているはずだ。マコトはこの副主任から力量を試されているのだ。判断をミスすれば、恐らくこの病棟の看護職員全員から叩かれる。負けは許されない。
「担当はアリムラさんですね アリムラさんはヒダカさんの状態把握をお願いします ヒダカさんの情報に目を通したら 私も行きます 副主任はここに居てください」マコトは患者の現病歴を頭に入れると、速歩きで305号室の部屋に向かった。脳のダメージが生じた時に吐き気がすることは多い。
「ヒダカさん 分かりますか?」アリムラ看護師の声だ。
「あっ 主任!!ヒダカさんは嘔吐していません 左手の緊張亢進 顔面の歪みの変化 握力の変化もありません SPO2は97%で 血圧は122/82です」マコトが入室すると1年目のアリムラ看護師が報告して来た。動揺している。マコトもヒダカさんの表情を見たが顔面の震えはない。しかし絞り出すような声が断続的にある。
「体は健側の右を下にして麻痺のある左を上にします ベッドの角度は20度 ハマサキ先生に数字の報告をしましょう」マコトが指示を出すが経験のない看護師にとって、医師の敷居は高い。
「私が話すわ」マコトは医療用スマホをポケットから取り出しながら、アリムラ看護師が見せてきた計器の数字に目を通す。
マコトはこの職場で働くようになり、まだ3日目だ。自己判断で報告をせずに手遅れになってはならない。情報共有はシンプルにスピーディーに行う。当たり前の判断だ。医師に報告をしながら、マコトは若い看護師に吸引器と口腔ケアグッズを指差し準備を指示した。
「宜しくお願いします」マコトはスマホを切るとポケットに入れて、患者が横になっているベッドに近づきクッションを持つと若い看護師に渡した。
「アリムラさん しっかりと側臥位を維持するわよ」マコトは患者のヒダカさんの脇と腰に手を掛けて横向きにすると、隙間にクッションを入れるように若いアリムラさんに指示をした。アリムラ看護師が自分の言う通りに応じるとマコトは力を抜いた。
「大丈夫 先生が来られるわ それまで観察して待機よ 何かあれば仲間を呼ぶ 皆が居るからシッカリね」マコトはまだ緊張している若い看護師に告げると、ナースステーションに戻った。
ナースステーションで記録をするためにパソコン画面を覗くと、自分のIDで患者のヒダカさんのカルテが開いてあった。
「一応そのままにしておきましたけど…」副主任が声を掛けてきた。おそらく電子カルテを開けたまま、席を離れたことへの注意の意味があるのだろう。
「ログアウトよりも患者さんの急変対応を優先しました それにアリムラさんは経験がないので…」マコトの判断は間違っていない。人の命が最優先なのだ。新入の嫌がらせの材料に患者を利用する等、この副主任は人として失格だ。しかし長年居座る年長者は必ずまた嫌がらせをしてくる。
「負けるか」席を立ち廊下に出たマコトは、ポケットに挿してあるボールペンを手に取った。ストレスがある時、彼女はボールペンの芯を出し入れさせるためのボタンをカチカチとさせる癖があった。だがこのボールペンは違う。自分のものではない。手にしたボールペンを見ると、高級そうな金属製のボールペンだった。ストラップが外れて、丸カンの通してあった穴だけがある。
「ストラップ…あの人のだ」マコトの脳裏に「チョット良い男」の姿が浮かんだ。彼への好奇心に押されて、直ぐにリハビリの受け付けに持っていきたかったがまだ副主任が居る。席を外すと必ず次の嫌がらせを、部下に言うに違いない。「チョット良い男」はとっくに帰っているだろうから、マコトは勤務終了までボールペンをポケットに入れたままにした。
フロアの階段室が開くとハマサキ先生が入って来た。するとフロアの空気が凍ったように静かになった。
「ヒダカさんの担当は病室にいるのかな?」ハマサキ先生は副主任に確認を取るが、足は止めずに305号室に向かっている。
「ハイ」副主任は緊張した顔で答える。恐れの感情が手に取るように分かる。マコトはこれまで厳しいドクターに叱られはしたが、意見することもあった。相手が誰であろうともスジを通す性格なだけに、地位のある相手に頭を下げて自分より若い職員にいばる者がマコトは嫌いだ。
「側臥位か?アリムラさん 良い判断だね」ハマサキ先生が若い看護師を褒めていた。
「そのまま側臥位で 呼吸に変化があれば呼びなさい」そういうと、305号室から出てきて直ぐに階段室へと消えて行った。アリムラ看護師が気になったマコトが305号室に行くと、彼女が頭を下げてきた。
「主任の判断だったのに 私の手柄にしてしまいました 申し訳ございません」
「私達のチームワークに褒めていたのよ これからも頑張りましょう」マコトはアリムラ看護師の肩をポンと叩くと彼女を連れてナースステーションに戻った。
引き継ぎ業務を終えて勤務終了の時間が近づいた。残り時間は5分あるがカモ副主任は自分の私物をまとめ始めた。時間になったらダッシュでナースステーションを出るためだ。
「本業はテキトーで 出る釘を打つ」マコトは敵対心を持つが、今は実力をこの現場で活かすことが第一だ。働き方改革の影響で定時で帰らないと事務長が怒るらしいが、勤務終了ギリギリまで患者の情報に目を通すことにした。今、入院している患者と過去一ヶ月間に入院していた患者達のデータを開いていく。するとそこに「チョット良い男」が居た。
名前はイクハラマサヤという男性だ。年齢は…42歳?実年齢よりも10歳若く見える。
人間の加齢ペースは皆同じではない。ゆっくり歳を取る者も居れば、老けるのが早い者も居る。「早老症」という病気はあるが、それは老化が極端に早い症状ということだ。
もちろん老化は体質だけでなく環境によっても変わる。病気も環境のひとつで、ストレスが掛かれば老化は早まるだろう。
彼は33歳のときに、一度心肺停止状態となり蘇生された。その時の後遺症で過去の記憶の一部を失い、未来の記憶が更新されない、脳の障害だ。
「彼は外来でまた来るだろう」マコトはそう判断して、ボールペンをリハビリテーション部の受け付けに預ける事にしたが、勤務時間は既に終了しており受け付けには誰も居なかった。
マコトは自分のポケットにボールペンを挿して、更衣室に向かった。
「帰って風呂入ろう…」
3日目が終了した。
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