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第二章 黒田リゾート潮汐
第7話 廃村で
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画面に映っていた廃屋は、壁に貼られた青いトタンなどの特徴が一致する。
「間違いないですね。ここにヨーイチ、太田洋一さんが来ていた」
廃村にも廃屋にも人の気配はない。
映像ではこの廃屋を出てすぐ、何者かに襲われたような音がしたという。
実際にその映像は残っていなくて、リアルタイムで見ていた伊藤から訊いた内容までしか楓は知らない。
「これだけ荒れていると、人が来たかどうかも判らないですね。この間、雨も降ったんで尚更」
「一週間近く経ってますし、難しいですよね。何もなかったってことで坪川さんには言っておくんで、戻りましょう」
後ろに一歩下がろうとすると、転がっていた空き瓶を踏んでしまい、楓は倒れて地面に尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか!」
小野瀬が慌てて楓を抱き起こす。
「ごめんなさい、大丈夫です」
落ち葉が積もって地面が柔らかかったため、幸いどこも痛む箇所はない。
「怪我がなくて良かった……ん?」
小野瀬が地面に目を向けた。
「どうしました?」
「地面の、そこの辺りだけ掘ったような窪みがあって、新しい土が出てますね」
言われてみるとそこの箇所だけたしかに直径一メートルほど地面の色が変わっていて、五十センチメートルほどの深さの穴が掘られている。脇には掘って積まれたと思われる土の山ができていた。
ヨーイチ──太田洋一が目的を持って掘ったのだろうか。もし、そうでないとしたら、他に誰が。近くにはこれを掘ったと思われる土のついたスコップが置かれていた。スコップ自体はここに置き去りにされていたもののようで、持ち手の部分がボロボロになっている。
小野瀬がスコップで穴を少し掘ってみるが、何か出てくるということはなかった。
「何もなさそうですね」
「これを掘ったのは洋一さんということは断定できませんが、直近で誰かがここへ来たのは間違いないようですね」
「結局、無駄足になっちゃいましたね。早く帰って温泉入りましょう」
楓と小野瀬は来た道を戻っていった。
*
楓と小野瀬が廃村にやってきた頃、二百メートルほど離れた、朽ちかけた蔵の中にヨーイチこと太田洋一はいた。意識は朦朧としている。
──あの時。生配信をしながら廃村を散策していて《亡霊》を名乗る者に襲われた。
顔はおろか背格好すら見ていない。殴られてそのまま気絶してしまい、気付いた時には、この蔵の中に入れられていた。頭の殴られた部分がまだ痛む。殺意を感じるほどの力だった。
手足には鉄の枷が嵌められていた。金属の角は鋭く、手首も足首も切り傷だらけで、すでに感覚がなくなっていた。
さらに、分厚い革の首輪が嵌められ、そこから伸びた鎖が身長よりも高い天窓の鉄格子に南京錠で固定されていた。
どれだけ叫んでも、蔵の中に自分の声が木霊するばかりだった。外は予報通り雨が降ったあと、蔵のあちこちに雨漏りの水滴が落ちていた。
蔵として使われていたここは、辛うじて窓が一箇所あるだけだ。入口の扉までは鎖の長さが足りなくて行くことができない。
暗がりの中、視界に文字のようなものを捉えた。それはポストカード大の用紙に印刷された文字だった。
ここにあったにしては不自然なほど綺麗なそれは、自分に見せるために置かれたとしか思えない。文字は暗闇に慣れてきた目で微かに読める程度のものだった。
『己の罪を悔いよ 廃墟の亡霊』
そう書かれていた。『己の罪』、『廃墟の亡霊』だと?
書かれた言葉に洋一は気づかされた。
まさか──あの事か?
ここまでやった人間だ。悪ふざけの悪戯というわけではないだろう。
「お前は、あの時の! あいつか? 俺は悪くない。全部アイツ等がやったんだ。俺は、何もしてない」
叫んだところで、誰も聞いていないことは判っていた。しかし、叫ばずにいられなかった。たとえそれが嘘だったとしても。
どれだけ時間が過ぎても、人が現れる気配はなかった。そもそも、こんな廃村に来るもの好きなど、そういるはずがない。
自分を監禁した者は、食事などを与える気も一切ないようだ。
腹が減って、咽は乾ききっていた。拘束されたまま一日が経ち、すでに身体も精神もボロボロになって、叫ぶ気力もなくなっていた。どの道叫んだところで、誰の耳にも届かないのは判っていた。
下半身は漏れた排泄物によって、汚れていた。ここに人間の尊厳などない。
水、せめて水を。洋一は辺りを見回す。
ピチャ、という音が聞こえた。その音はずっと聞こえていたはずのものだったが、まるで天啓のようにさえ思えた。
止んだ雨が、屋根の穴から滴っていた。水溜まりはなんとか身体が動く範囲にあった。
普段は水道水でさえ飲むのを敬遠し、ミネラルウォーターを取り寄せて飲んでいた。しかし、今自分に残された手段は、これしかない。不自由な身体をよじらせ、水溜まりに顔を近づける。なるべく上澄みだけに触れるように舐める。
カビ臭さが鼻を突いた。しかし、それ以上に水分が口から身体に染み込むのを実感していた。地面の埃やカビもまとめて口に含んで呑み込んだ。目からは涙が溢れていた。
「ごめんなさい。俺たちが悪かったんです。反省してます。警察に行って、どんな罰も受けます。だから、ここから出してください。お願いします。お願いします」
むせび泣くように声に出しても、その悔恨の念は誰にも届くことはなかった。
どれだけ待っても、助けは来なかった。床を舐めるほど雨水を呑みつくし、床を這っていた虫を口で捕らえて食べた。ろくに食べていないはずなのに下痢になって、汚物がまた身体を汚した。
絶望だけが時間を削っていった。
もはや、どれだけ時間が経ったのかさえ判らない。
いっそ死ねれば楽になれる。そんなことを考えていた。
自分が廃村に行っていることなど、誰も知らない。仮に生配信を見ていた人間が不審に思ったとしても、廃村の場所を明かしていないし、あれで誰かが探してくれるなど、有り得るはずがない。一縷の望みもなかった。
これが、あの事件の報いなら当然だ。あんな最低なことをした人間がまともに死ねるわけがない。
『己の罪を悔いよ 廃墟の亡霊』
もう何度も悔い改めた。しかし、だからといって赦してくれるわけではないだろう。
どうせ、このまま誰も来ないなら。
洋一は嵌められた首輪から伸びる鎖を首に巻き付けていった。拘束されたままではうまくいかなかったが、何度か試すとうまく引っ掛かり、首に鎖が食い込んでいった。
身体はまともに動かなかったはずなのに、脳ではない何かが身体を動かしていた。まるでこれだけが唯一赦された行為であるかのように。
窓まで伸びる鎖、ある程度首に巻き付けると、一気に体重をかけた。
「ゲッ! グェ……」
絞まった首から口へ空気が押し出された。
不思議と苦しさは感じなかった。巻き付けただけの鎖だったが、鎖同士で引っかかっているようで、外れることはなさそうだ。
洋一は死の世界を想った。地獄は本当にあるのだろうか。もし地獄があるならば、こんな苦しみが永遠に続くのだろうか。そう考えると、恐ろしかった。けれど、どうせこのままでも苦しむだけだ。
──ザッ、ザッ。
遠のく意識の中、過敏になっていた耳が音を捉えた。
──……足……音……?
頭で思っても、それを振り払った。どうせまた動物か何かだろう。
しかし、洋一の耳は聞いてしまった。
「着いたー!」
という女の声を。
人が……いる……?
ここにいる。俺は、ここにいる。
助けて。助けて。助けて。
揺さぶって音や声を出そうとするが、身体は全く動かなかった。
途端に窒息の苦しみが全身を襲った。
あの足音に、あの声に気づかなければよかった。
いや、違う。
あのまま何もしなければ、助かっていたかもしれない。
あのまま横になっていたら、生き延びられたかもしれない。
気づいてしまったがために、希望を見てしまった。
取り返しのつかない無数のもしもが頭を駆け巡った。
全身が痙攣している。鎖同士がぶつかって音を鳴らすが、その音は外まで到底届かないだろう。
厭だ。死にたくない。このまま、こんな場所で死ぬなんて厭だ。
そうだ。あの時の女もきっと同じだったんだ。だから……
視界が黒く染まっていく。
命が潰えるその瞬間。
「結局、無駄足になっちゃいましたね。早く帰って温泉入りましょう」
あの女の声がまた聞こえた気がした。
遠ざかる足音を洋一が聞くことはなかった。
「間違いないですね。ここにヨーイチ、太田洋一さんが来ていた」
廃村にも廃屋にも人の気配はない。
映像ではこの廃屋を出てすぐ、何者かに襲われたような音がしたという。
実際にその映像は残っていなくて、リアルタイムで見ていた伊藤から訊いた内容までしか楓は知らない。
「これだけ荒れていると、人が来たかどうかも判らないですね。この間、雨も降ったんで尚更」
「一週間近く経ってますし、難しいですよね。何もなかったってことで坪川さんには言っておくんで、戻りましょう」
後ろに一歩下がろうとすると、転がっていた空き瓶を踏んでしまい、楓は倒れて地面に尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか!」
小野瀬が慌てて楓を抱き起こす。
「ごめんなさい、大丈夫です」
落ち葉が積もって地面が柔らかかったため、幸いどこも痛む箇所はない。
「怪我がなくて良かった……ん?」
小野瀬が地面に目を向けた。
「どうしました?」
「地面の、そこの辺りだけ掘ったような窪みがあって、新しい土が出てますね」
言われてみるとそこの箇所だけたしかに直径一メートルほど地面の色が変わっていて、五十センチメートルほどの深さの穴が掘られている。脇には掘って積まれたと思われる土の山ができていた。
ヨーイチ──太田洋一が目的を持って掘ったのだろうか。もし、そうでないとしたら、他に誰が。近くにはこれを掘ったと思われる土のついたスコップが置かれていた。スコップ自体はここに置き去りにされていたもののようで、持ち手の部分がボロボロになっている。
小野瀬がスコップで穴を少し掘ってみるが、何か出てくるということはなかった。
「何もなさそうですね」
「これを掘ったのは洋一さんということは断定できませんが、直近で誰かがここへ来たのは間違いないようですね」
「結局、無駄足になっちゃいましたね。早く帰って温泉入りましょう」
楓と小野瀬は来た道を戻っていった。
*
楓と小野瀬が廃村にやってきた頃、二百メートルほど離れた、朽ちかけた蔵の中にヨーイチこと太田洋一はいた。意識は朦朧としている。
──あの時。生配信をしながら廃村を散策していて《亡霊》を名乗る者に襲われた。
顔はおろか背格好すら見ていない。殴られてそのまま気絶してしまい、気付いた時には、この蔵の中に入れられていた。頭の殴られた部分がまだ痛む。殺意を感じるほどの力だった。
手足には鉄の枷が嵌められていた。金属の角は鋭く、手首も足首も切り傷だらけで、すでに感覚がなくなっていた。
さらに、分厚い革の首輪が嵌められ、そこから伸びた鎖が身長よりも高い天窓の鉄格子に南京錠で固定されていた。
どれだけ叫んでも、蔵の中に自分の声が木霊するばかりだった。外は予報通り雨が降ったあと、蔵のあちこちに雨漏りの水滴が落ちていた。
蔵として使われていたここは、辛うじて窓が一箇所あるだけだ。入口の扉までは鎖の長さが足りなくて行くことができない。
暗がりの中、視界に文字のようなものを捉えた。それはポストカード大の用紙に印刷された文字だった。
ここにあったにしては不自然なほど綺麗なそれは、自分に見せるために置かれたとしか思えない。文字は暗闇に慣れてきた目で微かに読める程度のものだった。
『己の罪を悔いよ 廃墟の亡霊』
そう書かれていた。『己の罪』、『廃墟の亡霊』だと?
書かれた言葉に洋一は気づかされた。
まさか──あの事か?
ここまでやった人間だ。悪ふざけの悪戯というわけではないだろう。
「お前は、あの時の! あいつか? 俺は悪くない。全部アイツ等がやったんだ。俺は、何もしてない」
叫んだところで、誰も聞いていないことは判っていた。しかし、叫ばずにいられなかった。たとえそれが嘘だったとしても。
どれだけ時間が過ぎても、人が現れる気配はなかった。そもそも、こんな廃村に来るもの好きなど、そういるはずがない。
自分を監禁した者は、食事などを与える気も一切ないようだ。
腹が減って、咽は乾ききっていた。拘束されたまま一日が経ち、すでに身体も精神もボロボロになって、叫ぶ気力もなくなっていた。どの道叫んだところで、誰の耳にも届かないのは判っていた。
下半身は漏れた排泄物によって、汚れていた。ここに人間の尊厳などない。
水、せめて水を。洋一は辺りを見回す。
ピチャ、という音が聞こえた。その音はずっと聞こえていたはずのものだったが、まるで天啓のようにさえ思えた。
止んだ雨が、屋根の穴から滴っていた。水溜まりはなんとか身体が動く範囲にあった。
普段は水道水でさえ飲むのを敬遠し、ミネラルウォーターを取り寄せて飲んでいた。しかし、今自分に残された手段は、これしかない。不自由な身体をよじらせ、水溜まりに顔を近づける。なるべく上澄みだけに触れるように舐める。
カビ臭さが鼻を突いた。しかし、それ以上に水分が口から身体に染み込むのを実感していた。地面の埃やカビもまとめて口に含んで呑み込んだ。目からは涙が溢れていた。
「ごめんなさい。俺たちが悪かったんです。反省してます。警察に行って、どんな罰も受けます。だから、ここから出してください。お願いします。お願いします」
むせび泣くように声に出しても、その悔恨の念は誰にも届くことはなかった。
どれだけ待っても、助けは来なかった。床を舐めるほど雨水を呑みつくし、床を這っていた虫を口で捕らえて食べた。ろくに食べていないはずなのに下痢になって、汚物がまた身体を汚した。
絶望だけが時間を削っていった。
もはや、どれだけ時間が経ったのかさえ判らない。
いっそ死ねれば楽になれる。そんなことを考えていた。
自分が廃村に行っていることなど、誰も知らない。仮に生配信を見ていた人間が不審に思ったとしても、廃村の場所を明かしていないし、あれで誰かが探してくれるなど、有り得るはずがない。一縷の望みもなかった。
これが、あの事件の報いなら当然だ。あんな最低なことをした人間がまともに死ねるわけがない。
『己の罪を悔いよ 廃墟の亡霊』
もう何度も悔い改めた。しかし、だからといって赦してくれるわけではないだろう。
どうせ、このまま誰も来ないなら。
洋一は嵌められた首輪から伸びる鎖を首に巻き付けていった。拘束されたままではうまくいかなかったが、何度か試すとうまく引っ掛かり、首に鎖が食い込んでいった。
身体はまともに動かなかったはずなのに、脳ではない何かが身体を動かしていた。まるでこれだけが唯一赦された行為であるかのように。
窓まで伸びる鎖、ある程度首に巻き付けると、一気に体重をかけた。
「ゲッ! グェ……」
絞まった首から口へ空気が押し出された。
不思議と苦しさは感じなかった。巻き付けただけの鎖だったが、鎖同士で引っかかっているようで、外れることはなさそうだ。
洋一は死の世界を想った。地獄は本当にあるのだろうか。もし地獄があるならば、こんな苦しみが永遠に続くのだろうか。そう考えると、恐ろしかった。けれど、どうせこのままでも苦しむだけだ。
──ザッ、ザッ。
遠のく意識の中、過敏になっていた耳が音を捉えた。
──……足……音……?
頭で思っても、それを振り払った。どうせまた動物か何かだろう。
しかし、洋一の耳は聞いてしまった。
「着いたー!」
という女の声を。
人が……いる……?
ここにいる。俺は、ここにいる。
助けて。助けて。助けて。
揺さぶって音や声を出そうとするが、身体は全く動かなかった。
途端に窒息の苦しみが全身を襲った。
あの足音に、あの声に気づかなければよかった。
いや、違う。
あのまま何もしなければ、助かっていたかもしれない。
あのまま横になっていたら、生き延びられたかもしれない。
気づいてしまったがために、希望を見てしまった。
取り返しのつかない無数のもしもが頭を駆け巡った。
全身が痙攣している。鎖同士がぶつかって音を鳴らすが、その音は外まで到底届かないだろう。
厭だ。死にたくない。このまま、こんな場所で死ぬなんて厭だ。
そうだ。あの時の女もきっと同じだったんだ。だから……
視界が黒く染まっていく。
命が潰えるその瞬間。
「結局、無駄足になっちゃいましたね。早く帰って温泉入りましょう」
あの女の声がまた聞こえた気がした。
遠ざかる足音を洋一が聞くことはなかった。
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