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第一章 吊るされた少女

第1話 『引船ヶ丘事件の真実』

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 四月二十四日 月曜日


『K県華月町はずれの山林で女子高生の遺体 殺人か』
 月島つきしまかえでは見出しをタップし、ニュースを読んだあと、スリープにしてスマホを置いた。朝からとても厭なニュースを見てしまった。

 犠牲になったのは十七歳の女子高生で、遺体には不可解な点があった。少女は手を縛られ、口をガムテープで塞がれた状態で首を吊るされていた。その猟奇的な手口に、メディアはこぞって大きく話題を取り上げている。情報が錯綜していたが、いくつかのサイトを見る限り遺体の状況の信憑性は高いようだ。

 楓は自らの十年前を思い返していた。女子高生として花盛り、世界の全てが自分を中心に回っているとさえ思えた時期だった。十年後フリーライターとして社会の隅で、日々をなんとかしのぐだけの稼ぎで生活しているとは考えてもいなかった。

 めまぐるしく変わる世相に対し、ライターには様々な経験が求められる。私に必要なのは経験だ。
 フリーライターとして活躍し、ノンフィクションを出版してベストセラーになり、賞を受賞するようなライターになる。
 そう意気込み三年間在籍した弱小出版社オペランドを退職し、フリーへと転身した。しかし、華やかだったのはそこまでだった。

 フリーライターとフリーターは文字通り、ニアイコールだ。海外でも使えるタイプのクレジットカードに切り替えようと申請しても、まったく審査が通らなかった。土台、今の収入では海外旅行など夢のまた夢だが。

 三年間でつけていたはずのライターとしての自信も、自分の実力ではなく会社の信頼の上に積み上げた砂上の楼閣だったのだ。
 弱小出版社とはいえ、オペランドは楓に社会で生きていくための立場を与えてくれていたのだと思い知った。

「楓ちゃんならフリーでもやっていけるよ」
 株式会社オペランドの代表、坪川つぼかわ永助えいすけの飄々とした顔が浮かんだ。大手出版社である奏明社そうめいしゃを退職し、自身で立ち上げたのが株式会社オペランドだった。

 坪川は奏明社の編集員時代からその名が知られていた。見切り発車で退職した楓と違い、坪川は退職前に持っているコネクション全てに働きかけていた。

 普通であれば関わる人間が求めるのは〝奏明社の坪川〟という看板である。しかしながら、坪川の人としての信頼は厚く、独立してからも人脈は太く繋がっているどころか、今も広がっている。とはいえ、そんな坪川が立ち上げたオペランドが弱小出版社になったのには理由がある。

 社名そのままの雑誌『オペランド』がオカルトを扱った雑誌だからだ。二〇一七年にもなった現代で、オカルト雑誌が一世を風靡できるはずがない。
 だが、坪川曰くオカルトはどんな時代にも一定数の固定ファンがいるから、売れなくなることはないと豪語していた。その言葉のとおり、部数は出版不況の中でも、低空飛行ではあるが、比較的安定していた。

 結局のところ、坪川が熱心なオカルト信者で、自分の好きな話題を自由に取り上げたいというのがオペランドの設立目的だった。坪川が繋いでいるコネクションも〝黒い噂〟を集めるための手段にしかなっていない。

 楓はオカルトが苦手であった。そんな楓がオペランドに入社したのは、出版社志望の就職活動に失敗し、拾ってくれたのがオペランドだけだったからだ。

 就職活動の難航で、形振なりふり構っていられず、占いもオカルトの一種だろうと、面接で好きな占いについて熱弁した。それが坪川の琴線のなにかに触れたらしい。

 入社が決まれば、信じるも信じないも関係ない。生きていくという目的があれば、人は信念さえ簡単に捻じ曲げることができるのだ。

 最初は坪川に「この『ウマ』ってなんですか」と質問していたほどだったのに、二年もするとUMAや都市伝説に関する知識が、望んでもいないのに増えていった。
 楓が書いた記事についても、一部の読者から徐々に反響がくるようになっていった。最初は戸惑っていたものの、書いた文章が人に褒められることは嬉しい。

 そこから少しずつだが自信が生まれてきた。しかし、ある日の出来事をきっかけに、自分の人生を顧みるようになった。

 ──あの日、病院のベッドに横になりながら考えていた。
 坪川には拾ってもらった恩がある。だが、このままでいいのだろうか。
 昔から文章を書くことは好きだったが、そこに確固たる信念のようなものがあったわけではなかった。

 就職する前は、何か書いて、それなりに生活さえしていければいいなと、漠然と思っていた。それが如何に無知で無鉄砲ゆえの発想であったかは、後に思い知らされることになる。

 ある本に出会ってから、ペンで社会の不条理と闘いたいと思うようになった。
 書くことに強い意義を見出すことになったのは、あの本と出会ったからだ。
 何度も読んだ本を手に取る。読み返すうちに、カバーの一部は破れてしまっていた。

 『引船ヶ丘ひきふねがおか事件の真実』というタイトルだ。
 この本は井上慎吾いのうえしんごというルポライターが奏明社から出版したノンフィクションだ。

 *

 関東にある引船ヶ丘という住宅地で、夫婦が包丁で刺され殺害されるという事件が発生した。犯人は、殺された男Sの愛人、Aだった。
 AはSの胸を刺して殺害した後、妻であるCを包丁で何度も執拗に刺し、Cの遺体をバラバラにして、ゴミ袋に入れて海に捨てた。

 事件の凄惨さから、一時は連日ニュースで話題が取り上げられた。愛人の女による痴情の縺れが起こした犯行とされ、不倫の被害者とされたCには同情の声が上がり、逮捕されたAには強いバッシングの声が浴びせられた。中には「アバズレは早く死刑になってしまえ」といったものさえあった。

 井上は独自に取材を進め、犯人の女Aの動機が、巷で言われるような痴情の縺れでは済まされないという事実に辿り着く。
 殺されたSとCは、共謀してAを愛人に仕立て上げ、利用していたのだ。

 SはAに向かって「Cと別れて新しく事業を立ち上げたい」という話を持ち掛けていた。
 離婚によるCへの慰謝料と、事業の立ち上げに金が掛かるといって、Aから金を巻き上げていった。最終的にその額は二千万円を超えていたという。

 金を捻出するためAは、昼は飲食店、夜は風俗で働き、自分の生活を極限まで切り詰めて生活していた。Cはその風俗の元従業員で、Sを介してAがそこで働くように仕向けていた。

 Cは紹介料を受け取っただけでなく、店と共謀してAが給料として受け取るはずだった売上から、何割かを差し引いて自分たちの懐へ納めていたことが判明する。

 それに気付いたAがSの自宅に押し掛けて口論となった。Sから事実を明かされ、限界を越えたAはSを包丁で刺し、Cが帰ってくるのを待ち伏せし、玄関で刺し殺したのだった。

  *

 本は出版後、大きな反響を呼び、世間が事件を見る目は一気に変わった。
 事件当初、同情の声が上がっていたCへのバッシングが強まり、加害者であるAへの同情の声が上がった。

 裁判が始まる頃には、情状酌量を求める署名活動が発生するまでになった。裁判長は、二人を殺害した重罪であるが、犯行当時の精神状態を考慮し、情状酌量の余地があると判断した。

 楓が最も胸を打たれたのは、獄中でのAの言葉だった。

『離婚届も何もかも、全部が嘘だってわかったのに、それでも私はあの男をまだ愛していたの。だから、やるしかなかった。あの男が私から永遠に逃れられないように。私はあの男を地獄まで追いかける。そして永遠に一緒になってやるの』

 Cの帰りを待つ間、Aは血で染まったSの死体を抱き続けたという。

 Aは逮捕された後の取調べで全面的に罪を認めている。しかし、動機の面では、浮気が発覚したことで口論となり刺したとしか供述していなかった。本当の動機を説明すれば報道の内容も変わっていたはずだが、Aにとってそれはどうでもいいことだったのだ。

 著者の井上は、犯行の動機に疑問を持ち、執念深く訊き込みを続けた。それが身を結び、働いていた風俗の元従業員から証言を得ることになる。真実に近づくたび、井上はAへ強い同情のような気持ちを抱いていく。

 拘置所でAとも幾度となく面会を重ねていた。最初はそっけなくあしらわれたが、通ううちにAは、徐々に心を開いていった。掴んだ情報からSへ金を貢いでいたのではと話すと、Aは涙を浮かべたという。
 Sを恨んでいたのではなく、Sを愛していたからこその犯行だったのだと井上は確信した。

 それからAはSの思い出話と共に、本当の動機について語るようになった。
 最後の面会でAは井上に対してこんなことを言ったという。
『Sを殺して、自分の人生はどうでもよくなっちゃって。もう、死刑でもなんでも構わないとさえ思ってた。でも井上さんみたいに、自分を気に掛けてくれる人がいてくれることを知って、まだ生きていていいんだと思えました』

 読んだ時、Aを想って楓は涙を流していた。そして、文章を書く人間になるのならば、『引船ヶ丘事件の真実』のような、誰かを救うような記事を書きたいと夢見るようになった。
 その夢には、まだ遠い。

 オカルト記事を書いているだけでは、その夢には近づけない。
 悩んだ末に楓は、オペランドを離れて独立すると決意した。
 元々が自身の夢のために会社を離れた坪川だったので、楓の申し出を受け入れてくれた。
 結果的に独立は果たしたが、社会の不条理に立ち向かうはずの自分は、フリーランスに向けられる社会の不条理を突き付けられただけだった。

 独立の苦労を知っている坪川だからこそ、会社を離れてからも楓を気にかけてくれ、自分のツテを使って仕事を回してくれたり、外部ライターとして『オペランド』に記事を寄稿させてくれたりした。それで日々の生活をなんとか繋いでいた。

 坪川からメッセージが届いたのは、女子高生殺害のニュースを読み終えてすぐだった。
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