宝生の樹

丸家れい

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第二章

於恵湖

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 於恵湖には、湖で行われている漁業の安全を祈願して於恵神社おけいじんじゃが建てられている。

 巫覡は在中していないが簡素な社の中に祠があり、青と東は手を合わせて参拝した。湖のほとりにある於恵神社の後ろには、朱塗りされた鳥居が立っており、朝夕の空と木々が重なり合う神秘的な景色はとても美しい。
 
 縄で固定されていた舟を拝借した東は、日に焼けて色褪せた櫂を使って舟をゆったりと進めた。
 
 青翠色に澄み渡る湖面に散った桜の花びら、群れを成す魚影、柔らかな陽射しを受けた小魚の鱗が水中で煌めくさまは、まるで天女が纏う絹織物のような幽玄な美を醸し出していた。

 辺りを見渡せば萌える若葉に桜色が差し、天空には麗らかな空が広がっている。

 静謐な時を刻む於恵湖に青は自然と唇が綻んでいた。

「豊かな湖だな……」

 船を漕ぎながら、東も頷く。

「あぁ。本当に心地良い」

 於恵湖の南側の円形を成した湖には、玉島たまじまと呼ばれる小島が浮かんでいる。東はそこに向かっているようだった。

 玉島は木々に覆われた小島で、目測で一畝ほどだろうか。

 定期的に人が来ている気配はなく緑が繁茂していた。草木を掻き分けながら島に一歩踏み入れた青は、肌を撫でる空気の変化を感じた。

 於恵神社では感じなかったぴりっと背筋が伸びるような清廉な空気。それでいて、幽艶な色も漂っているこの雰囲気が神域を呼ぶのだなと青は初めて感じた。

 人ひとりが通れるほどの石段には、苔が生え、隙間から雑草が伸びてしまっている。苔で滑らないよう背後から付いてくる東に注意を促しながら石段を数段のぼった青は息を呑んだ。

 そこには、苔に覆われた卵型の岩が。そして、木々の合間から降り注ぐ光の筋に照らされて、苔が青々と輝いていた。

 恐る恐る青が岩に近寄ると、丸みを帯びた岩の上部には細長い注連縄が施されている。

「ここは?」

 と青は神妙な面持ちで東に振り返る。
 青の隣に立った東は顔を下に向けた。

「この下には、龍神の瞳があるんだよ」

「瞳?」

 東が言うには、於恵湖の形に沿うように白みを帯びた勿忘草色の龍神が生き埋めになっているのだという。

 東には他者の記憶を探る類稀なる能力がある。その能力で龍神の記憶を探ると、力のある術師に沈められている映像が見えたらしい。

 青は眉根を寄せた。

「どうして、そのようなことを?」

「龍神の涙が必要だったからだ。……龍神の涙は水源になるからな」

 遥か昔、大地は地殻変動を繰り返し、於恵湖と名が付けられるまでは湖の形も小さくなったり、大きくなったり形が保たれていなかった、と國保から譲り受けた書物の中に記されていたことを青は思い出していた。

「予波ノ島と一緒だな」

 そう俯いてひとりごちる東の布作面から歪められた唇が垣間見えた。

 東から教えてもらったことだが、龍神は気の流れが良いところに存在するものらしい。空や海、地中だけではなく、人間にも宿ることがあるのだとか。龍神が心地よく思う場所や人の元に宿り、さらに気の流れを上げていく。

 於恵湖に生き埋めにされている龍は、本来、空を好む龍神だったようだが、豊かな水源を確保するために古の術師が龍神を生け捕りにして術で縛り上げ、湖に沈めたのだ。

 悲しみに暮れる龍神の涙を求めて。

 格式高い龍神であればあるほど、澄んだ水を生み出し、豊かさは途切れないのだという。

 古の歴史を編む東の言葉に青は渋面を作った。

 確かに、渇水は恐ろしいことだとは身に染みて理解してはいるが。

「助けてやることはできんのか?」

 青の問いに、東は首を振った。

「龍神がそれを望んでいない。於恵湖の恵みでこの土地で暮らす人々は潤った生活を送れている。それを崩したくないのだそうだ」

 龍神に何もしてやれない己を自嘲しているかのように、東は言った。

 青も地面へ視線を落とした。

 今も涙を流し続けているのに?

 東であれば、於恵湖から龍神を放つことはできるのだろう。龍神もまたそれをわかっている。だが、龍神がいなくなってしまっては、於恵湖の水源は果てることはなくとも、京樂に住む人々の生活は一変するのは目に見えている。

 それを憂えた龍神はこの場に自ら留まる未来を選んだのだ。
 
 青は跪く。
 そして、地面に額を付けた。

「湖に沈む龍神よ。京樂の住人に代わって感謝を申す。そなたのおかげで、皆豊かに暮らせている」

 ありがとう、と青が言ったのと同時に、優しい風が舞い上がった。

 清籟が響き渡り、木漏れ日が軽やかに躍る。
 光の粒が揺れる様を感じた東は布作面の下で深紅の瞳を細めた。

「本当に、青は……」

 木々が擦れ合う音が東の語尾を攫っていく。

「なんだ?」

 と青が顔を上げると、東は首を一振りした。

「なんでもない」

 陰を落とす東の言葉に、青は俯いて木漏れ日が躍る地面を指で撫でた。

「本当に、私は何も知らないことばかりだな」

 そう自嘲する青の声音に、東は拳を握り締めた。
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