上 下
123 / 134
第10章 次代の幕あけ 編

第122話 嵐の前

しおりを挟む
天秀尼の住持就任の辞令が、幕府から下された。
統括する寺社奉行安藤重長あんどうしげなが、自らが使者となるほどの配慮に、天秀尼は恐縮する。
恭しく任命書を受け取るのだった。

一通りの儀式を済ませると修行する尼僧たちを本殿の前に集める。第二十世住持としての挨拶を執り行うのだ。いわゆる所信演説である。

「皆さま、この度、私が新しい住持となりました。これまで共に修行に励んだ間柄、特に気遣う必要はございません。ただ、一点だけ、お願いがございます。東慶寺は、苦しむ女性の最後の寄る辺。頼って参られた方へは、必ず最後まで救いの手を差し伸べる。それだけは、心の中に留め置いて下さい」

万雷の拍手の中、天秀尼はお辞儀をした。
いつまでも鳴りやまない拍手に微笑みながら、壇上を降りると待っていたのは、甲斐姫と瓊山尼である。

「あの稚児が、ここまで立派になるとは、小石おいわにこの晴れ姿、見せてやりたいわ」

少し、その目が潤んでいるように見える甲斐姫は、天秀尼の実の母の名を挙げて喜んだ。
そして、同じく明るい表情の瓊山尼は、「どうやら、後は任せて、私はゆっくりできそうですね」と口元を緩ませる。

二人が感じていたのは、これでようやく肩の荷が下りたというような解放感と、一つの達成感。
いずれにせよ、感無量という気持ちに変わりはなかった。

ただ二人は、これで東慶寺を去るということはない。甲斐姫は元より、瓊山尼も引き続き、東慶寺の中で生活を送ることにした。

これは天秀尼、たってのお願いを瓊山尼が聞き入れた形で、彼女も新しい住持の成長を見守りたいという思いから残ることにする。
師と呼ぶ二人が近くにいることは、天秀尼にとって安心できる材料なのだ。

続けて、天秀尼は信頼の置ける白閏尼を自分の代わりに蔵主に任命しようとしたが、それは断られる。
それほどの功績もないと強く固辞されたのだ。

但し、そのような地位がなくとも天秀尼には、しっかりとついていくとの言質をもらい、立場が変わっても変わらぬ友誼に感謝する。

本日の儀式では、天樹院、春日局、それぞれより祝賀の贈り物が届けられていた。
それは個人的に懇意にしているというだけではなく、徳川家との特別なつながりを世間に知らしめることにつながる。

それは、東慶寺のますますの発展を誰もが疑わない。
天秀尼住持就任を順風満帆の門出と示すものだった。


新しい住持就任に鎌倉が沸く頃、陸奥国会津藩むつのくにあいづはん、その城下で、侍同士の諍いが起きる。
それは藩主・加藤明成かとうあきなりの直臣と筆頭家老・堀主水ほりもんどの家臣たちによる揉め事。

以前から、両家臣の間には争いとなる火種はあった。それは、日頃から明成の素行を何度も主水が讒言したことによる、両者の不仲である。

明成の父・加藤嘉明かとうよしあきは、豊臣秀吉の子飼いの将で、賤ケ岳しずがたけの七本槍とまで呼ばれた名将だった。
秀吉亡き後、関ヶ原では石田三成と対立して東軍につく。

以降、家康傘下の将として活躍し、伊与松山藩いよまつやまはん二十万石から会津藩四十万石の大大名にまで昇り詰めた。

1631年に亡くなると息子の明成が会津藩を引継ぐのだが、父の時代の治世とは打って変わり、領民は困窮にあえぐことになる。

明成は、お金に意地汚く、私利私欲のため年貢の引上げや商人にも高い税を課したのだ。
それらの藩政、素行の改善を主水は何度も指摘するのだが、明成の心には届かない。
二人の仲は、次第に悪くなり、その溝だけが深くなっていったのだ。

そういった背景もあり、互いの直臣の仲も自然と悪くなる。
ただ、今回、喧嘩を吹っかけてきたのは、明成の直臣の方だった。

「堀に落ちただけで、手柄を立てたと大きな顔をするのは、いかがなものか?」
「なっ。我が主君を愚弄なさるのかっ」

堀主水の旧姓は多賀井たがいなのだが、大阪夏の陣で、堀に落ちながらも組み合った敵を討ち取ったことで、嘉明から堀姓を名乗ることを許されたのである。

そんな主に対する侮辱を主水の家臣は、歯ぎしりしながらも我慢した。
相手は、藩主の直臣。ここで、問題を起こせば、主水に迷惑が掛かると判断したのだ。
そこで、虎の威を借る明成の家臣は、更に調子に乗る。

「ふん、度胸のない奴らだ」
そう話すと何と、鞘から刀を抜いて白刃を晒したのだ。そこまで、されては主水の家臣も黙っていられない。

「抜いたのは、そちらが先ですぞ」
「ふん。生き残ってから、ものを言え」

こうして、白昼の刃傷事件が起きた。
この件は、問題として取り上げられるのだが、藩主の直臣と筆頭家老の直臣。
会津藩の中では、誰も簡単に裁くことが出来ない。

但し、不問とする訳にも行かず、藩主の明成に裁定が一任される。
この後、思いもよらない明成の裁断により、会津藩に暗雲が立ち籠ることになるのだった。

これは、はるか遠い陸奥国で起こった事件。それが、まさか鎌倉の東慶寺にまで影響が及ぶとは、この時、誰も知る由がなかった。


その頃、東慶寺にいる天秀尼は、庭に咲く二輪の花に見惚れていた。
花の名は分からず、どこかから種が紛れ込んで咲かせたものと思われる。
だが、背筋がピンと立ち、派手ではなく淡白な色合いながらも、誇らしげに咲き誇る姿に感銘を受けたのだ。

「これは、お義母さまにもお見せしたいわ」

そう思った天秀尼は、花が枯れぬように鉢に移し替え、天樹院に届けるよう瓢太に託した。
きっと、喜ぶだろうと、義母の笑顔を思い浮かべて、天秀尼は満足するのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

立見家武芸帖

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 南町奉行所同心家に生まれた、庶子の人情物語

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

三賢人の日本史

高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。 その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。 なぜそうなったのだろうか。 ※小説家になろうで掲載した作品です。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...