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第10章 次代の幕あけ 編

第117話 母親の嘆願

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東慶寺の御用宿、柏屋の中が騒然としていた。
その原因は、宿で女中として勤めていた、おきぬの狼狽が激しく、大いに取り乱していたからである。

「ちょと、ちょっと。一体、どうしたのさ、お絹さん」
「・・・お、お多江さん」

お多江を見つけると、お絹は抱きついて大きな声で泣き出すのだ。
これでは、事情を聞くことすらできない。お多江は仕方なく、彼女が落ち着くのを待つことにした。

暫くすると泣き疲れたのか、お絹は黙り込むのだが、今度は急に宿の中の自室に向かって走り出す。お多江は、慌てて後を追った。
そこでお多江が見たのは、荷物をまとめて旅支度をするお絹の姿。

「どこに行くつもりだい?」
「珠代を・・・珠代を助けに行ってきます」

悲痛な叫びとともに、自分の決意を告げる。
ここで、初めて、お絹の一人娘に何かあったのだと、お多江は知るのだ。

「珠代ちゃんが、どうしたのさ?」
「珠代が・・・珠代が・・・」

お絹は、また泣き出してしまいその場に崩れる。どうやら、振り出しに戻ってしまったようだ。
だが、徐々に真相に近づいている気はする。

今は離れて暮らしているお絹の一人娘、珠代。お多江も、一度だけだが、会って話したことがあった。
記憶に間違いなければ、今年、七歳になるはずである。

その珠代を助けに行くとは、一体、何が起こったのだろうか?
とにかく、お絹が詳しい話ができるようになるまで、待つしかないみたいだ。
すると、不意にぽつりと、お絹が独り言のように小さな声で呟く。

「・・・珠代が松倉さまの本陣に連れていかれて、還してくれないそうなんです」

この時期、大名行列が東海道を賑わしていた。松倉とは、島原藩しまばらはん松倉勝家まつくらかついえのことだろう。

そこで、問題があったとすれば、真っ先に思い浮かぶのは、横切りである。
お多江は、その点を確認した。

「まさか、大名行列を横切ったのかい?」
「・・・いえ、横切ってはいません。・・・ただ、その時の話が、あまり要領を得なくて・・・」

何にせよ、通行を乱した咎で珠代は連れていかれたのだろうと、お多江は推測する。
幼子の場合は、大目に見られることが多いのだが、それは大名の判断によるかもしれない。

話は理解したが、どうやら、お多江の手には余る事情だった。
ここは、東慶寺の住持、瓊山尼に相談するしかないと考える。
すぐに佐与を呼ぶと、お山までのひとっ走りを頼んだ。

すると、瓊山尼の命を受けて、天秀尼がやって来る。
天秀尼の姿を見るだけで、御用宿のみんなは一安心。それだけの信頼を、今や彼女は勝ち得ているのである。

「道中、佐与から大体の事情は聞きました。松平さまには、お伝えしていますか?」

天秀尼が言う松平さまとは、相模国玉縄藩さがみのくにたまなわはん藩主の松平正綱まつだいらまさつなのことだ。

勝家に捕まっている珠代は、間違いなく玉縄藩の領民。
であれば、領民の危機を救うために藩主として、一役買ってもらおうというところ。

大名同士で話し合ってもらった方が、解決は早いと思われるのだ。
しかし、お絹の返答は、あまりいいものではない。

「夫の話では、既にお伝えしているようですけど、松平さまもお忙しいらしく・・・」

正綱は、勘定奉行として幕府の財政を担っていた。また、日光東照宮の整備も任されている。
重職を兼任しているだけあって、多忙なのだ。

「承知しました。効果があるか分かりませんが、私からも松平さまに文を出しておきます」

天秀尼は、そう言って手紙をしたためた後、珠代が監禁されている本陣へと向かう準備を始める。
正綱の助力が得られるまで、直接交渉で時間を稼ごうと考えたのだ。

このまま、指をくわえている内に、珠代が手討ちとなっては、後悔しか残らない。
その時、準備を急ぐ天秀の前に風が吹いた。いつの間にか瓢太が立っているのである。

「その女の子ってのは、子猫を抱いた赤い着物の子のことか?」
珠代の詳しい特徴は、天秀尼には分からなかった。お絹を見ると、大きく頷いている。

「その通り。たまって仔を大事に可愛がっています」
「やっぱり・・・あの時の・・・」

何か瓢太は事情を知っているようだった。それが勝家との交渉に役立つかもしれない。
天秀尼は、瓢太に知っていることの全てを話すよう頼んだ。

そこで、瓢太が語ったのは、飛び出した子猫を追うように女の子が大名行列の前に出てしまったこと。
その女の子が固まって動けなくなったところを瓢太が、元の路肩まで戻したことだった。

「横切りは確かにしていない。・・・それに行列の本隊は、まだ、はるか後方にいたから、通行の邪魔をしたってのは、ちょっと言い過ぎだと思うぞ」

瓢太の話が本当なら、これで無礼討ちとなれば、やり過ぎである。
情状酌量を訴えることが可能と思われた。

「分かりました。交渉はしやすくなったと思います。これより、松倉さまの本陣へ行って参ります」
「よし、それなら、俺も付き合うぜ」

瓢太という心強い味方を得て、交渉に向かう天秀尼。
柏屋を出る前、お絹の手を力強く握りしめた。

「珠代ちゃんを取り返してまいります。この天秀にお任せください」
「よろしくお願いいたします」

お絹は天秀尼の手に額を擦り付けて嘆願する。
絶対に、この期待に応えなければならない。
自分の命すら、投げ出す覚悟を持って、天秀尼は松倉勝家の元へ向かうのだった。
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