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第8章 兄弟の絆 編
第102話 人の生き様
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柏屋の中、診察する藤次は沈んだ表情を浮かべた。だが、綾の視線に気づくとすぐに笑顔を向ける。
医者として、顔に現れるのは褒められた話ではないが、藤次には抑えることが出来なかったのだ。
その笑顔も長い付き合いの綾には、空元気と見抜かれる。
『正直な人・・・』
綾は、自身が倒れたことも踏まえ、いよいよその日が近いのだと覚悟を決めるのだった。
「気分は、どうだい?」
「今は、大丈夫かな・・・」
それ以上、会話が続かないのは、藤次が綾にどう説明すべきか、言葉を選んでいる証拠。
自分のせいで、優しい藤次の心を苦しめるのは、忍びない。
綾は、ことさら明るく昔話を始めた。
「ねぇ、どうして、私のお父さんが、あなたを正式に養子にしなかったのか、理由を知っている?」
「それは・・・」
綾の父から、直接、聞いたわけではないが、その件は藤次も、うすうす勘付いている。
それは、将来、綾と藤次を結婚させることを想定していたためだ。
養子縁組をすれば、綾とは兄妹となり、婚姻が難しくなるのである。
だが、実際は、綾の父が望む展開とはならない。藤次の兄である松吉と綾は結ばれるのだ。
口籠る藤次を見て、綾が笑う。
「お父さんも馬鹿ねぇ。養子にしなくても、兄妹のように育てられたら、同じことだわ」
まさしく、綾の言う通りで、二人はあまりに近くにいすぎたため、恋愛感情を抱くまでには至らなかった。
藤次にとって、綾はどこまでいっても妹であり、永遠の愛を誓い合う女性ではない。
綾が藤次のことを兄と思っているのか?もしかしたら、弟と見ているのかもしれないが、いずれにせよ、お互い兄妹の域から脱するものではないのだ。
実際、兄の松吉と綾が結婚すると聞いたとき、藤次は心から祝福したのである。
「・・・もし、私たちが、違う出会い方をしていたら、どうなっていたと思う?」
「そんなこと、考えたこともないよ」
綾の質問に藤次が答えたところ、柏屋の外から、綾を呼ばわる声が聞こえた。
その非常に大きな声は、松吉に間違いない。
「綾、聞こえるか?私は、絶対に盛田屋を潰さない。必ず、元の活気あふれる商家に戻すと誓う。だから、安心して養生してくれ」
松吉の声は届いているはずだが、柏屋からは何の反応もなかった。
それでも、松吉は、十分満足する。
自分が伝えたかったことは、言い切ったからだ。
「中に入らないのですか?」
追ってきた天秀尼の問いに、松吉は頭を振る。
「綾の顔を見れば、もしかしたら決心が鈍るかもしれません」
「・・・そうですか」
天秀尼は残念がるが、松吉の顔は実に晴れやか、迷いはないようだった。
最後に、もう一度、柏屋の方に向き直すと、「藤次、綾のことを頼むぞ」
そう言い残して、去って行く。
その時、柏屋の中では、横になっている綾の目じりから、一筋の涙がこぼれていた。
「あの人も、とんでもない性悪女に捕まってしまったものね」
「いや、兄さんの見る目は正しかったよ」
兄から託された藤次だが、正直、治療すべきことは何もない。
今は落ち着いているが、綾の症状は、それほどに悪いのだ。
「・・・少し、眠っていいかしら?」
「いいよ。傍にいてあげるから」
その言葉に口元を綻ばせると、綾は静かに目を閉じる。
藤次は、綾の手を握りしめて、下唇を噛んだ。
そうしないと、大きな声を出してしまいそうな衝動にかられるのである。
綾の質問。
もし、違う出会い方をしていたら・・・
それでも、藤次は今と同じ関係を望んだだろう。
何故なら、夫であったら、綾の死に目に立ち合うことができなかったからだ。
やはり、最後まで一緒にいられる兄妹がいい。
頬を涙で濡らしながら、藤次は、そう思うのだった。
綾が亡くなり、その葬儀の喪主は松吉が務める。
離縁が成立していないということもあったが、それよりも松吉自身が、綾を天国に送り出したいと思った感情の方が大きかったようだ。
当然、家の者からは反対の声も上がるが、松吉は頭を下げて納得させたのである。
その話を聞いた天秀尼は、松吉の懐の大きさに感銘を受けた。
お焼香をあげ終わると、その喪主と挨拶を交わす。
「大変、立派なお葬式ですね」
「天下の盛田屋の女将、私の妻の葬儀です。当然ですよ」
綾のことを、自然と妻と呼ぶ松吉の姿に違和感はない。
何かを大きな壁を乗り越えた商家の主人。何故か、天秀尼は盛田屋の安泰を確信するのだ。
「兄さん、お勤めご苦労さま」
「私が綾にしてやれる最後の仕事さ」
兄弟が歩み寄ると、兄が弟に頭を下げる。
以前の暴行の件を謝罪した。思い起こせば、だいぶ昔の気がするが、一週間ほどしか経っていない。
「いや勘違いから始まったこと。上手く説明できなかった、僕も悪いよ」
当初から、藤次はそう言って、松吉を庇っていた。この弟も、人であると天秀尼は思う。
この兄弟、今回の件を経て、より一層、絆が深まったのではないかと感じた。
その間を取り持っているのが、亡くなった綾の存在である。
東慶寺内において、綾の常識破りの行動を思い出して、天秀尼は苦笑いを浮かべた。
破天荒に見えた彼女だが、こうして死した後も人に影響を与えている。それは、彼女が生前、精一杯、生き抜いた証なのだろうと思う。
天秀尼が彼女のようになるのは、逆立ちをしても到底、無理。
だが、生き様だけは、真似することが出来るはず。
自身に与えた使命、目指す道と誠心誠意、向き合い、今を真剣に生きる。天秀尼は、そう、誓うのだった。
医者として、顔に現れるのは褒められた話ではないが、藤次には抑えることが出来なかったのだ。
その笑顔も長い付き合いの綾には、空元気と見抜かれる。
『正直な人・・・』
綾は、自身が倒れたことも踏まえ、いよいよその日が近いのだと覚悟を決めるのだった。
「気分は、どうだい?」
「今は、大丈夫かな・・・」
それ以上、会話が続かないのは、藤次が綾にどう説明すべきか、言葉を選んでいる証拠。
自分のせいで、優しい藤次の心を苦しめるのは、忍びない。
綾は、ことさら明るく昔話を始めた。
「ねぇ、どうして、私のお父さんが、あなたを正式に養子にしなかったのか、理由を知っている?」
「それは・・・」
綾の父から、直接、聞いたわけではないが、その件は藤次も、うすうす勘付いている。
それは、将来、綾と藤次を結婚させることを想定していたためだ。
養子縁組をすれば、綾とは兄妹となり、婚姻が難しくなるのである。
だが、実際は、綾の父が望む展開とはならない。藤次の兄である松吉と綾は結ばれるのだ。
口籠る藤次を見て、綾が笑う。
「お父さんも馬鹿ねぇ。養子にしなくても、兄妹のように育てられたら、同じことだわ」
まさしく、綾の言う通りで、二人はあまりに近くにいすぎたため、恋愛感情を抱くまでには至らなかった。
藤次にとって、綾はどこまでいっても妹であり、永遠の愛を誓い合う女性ではない。
綾が藤次のことを兄と思っているのか?もしかしたら、弟と見ているのかもしれないが、いずれにせよ、お互い兄妹の域から脱するものではないのだ。
実際、兄の松吉と綾が結婚すると聞いたとき、藤次は心から祝福したのである。
「・・・もし、私たちが、違う出会い方をしていたら、どうなっていたと思う?」
「そんなこと、考えたこともないよ」
綾の質問に藤次が答えたところ、柏屋の外から、綾を呼ばわる声が聞こえた。
その非常に大きな声は、松吉に間違いない。
「綾、聞こえるか?私は、絶対に盛田屋を潰さない。必ず、元の活気あふれる商家に戻すと誓う。だから、安心して養生してくれ」
松吉の声は届いているはずだが、柏屋からは何の反応もなかった。
それでも、松吉は、十分満足する。
自分が伝えたかったことは、言い切ったからだ。
「中に入らないのですか?」
追ってきた天秀尼の問いに、松吉は頭を振る。
「綾の顔を見れば、もしかしたら決心が鈍るかもしれません」
「・・・そうですか」
天秀尼は残念がるが、松吉の顔は実に晴れやか、迷いはないようだった。
最後に、もう一度、柏屋の方に向き直すと、「藤次、綾のことを頼むぞ」
そう言い残して、去って行く。
その時、柏屋の中では、横になっている綾の目じりから、一筋の涙がこぼれていた。
「あの人も、とんでもない性悪女に捕まってしまったものね」
「いや、兄さんの見る目は正しかったよ」
兄から託された藤次だが、正直、治療すべきことは何もない。
今は落ち着いているが、綾の症状は、それほどに悪いのだ。
「・・・少し、眠っていいかしら?」
「いいよ。傍にいてあげるから」
その言葉に口元を綻ばせると、綾は静かに目を閉じる。
藤次は、綾の手を握りしめて、下唇を噛んだ。
そうしないと、大きな声を出してしまいそうな衝動にかられるのである。
綾の質問。
もし、違う出会い方をしていたら・・・
それでも、藤次は今と同じ関係を望んだだろう。
何故なら、夫であったら、綾の死に目に立ち合うことができなかったからだ。
やはり、最後まで一緒にいられる兄妹がいい。
頬を涙で濡らしながら、藤次は、そう思うのだった。
綾が亡くなり、その葬儀の喪主は松吉が務める。
離縁が成立していないということもあったが、それよりも松吉自身が、綾を天国に送り出したいと思った感情の方が大きかったようだ。
当然、家の者からは反対の声も上がるが、松吉は頭を下げて納得させたのである。
その話を聞いた天秀尼は、松吉の懐の大きさに感銘を受けた。
お焼香をあげ終わると、その喪主と挨拶を交わす。
「大変、立派なお葬式ですね」
「天下の盛田屋の女将、私の妻の葬儀です。当然ですよ」
綾のことを、自然と妻と呼ぶ松吉の姿に違和感はない。
何かを大きな壁を乗り越えた商家の主人。何故か、天秀尼は盛田屋の安泰を確信するのだ。
「兄さん、お勤めご苦労さま」
「私が綾にしてやれる最後の仕事さ」
兄弟が歩み寄ると、兄が弟に頭を下げる。
以前の暴行の件を謝罪した。思い起こせば、だいぶ昔の気がするが、一週間ほどしか経っていない。
「いや勘違いから始まったこと。上手く説明できなかった、僕も悪いよ」
当初から、藤次はそう言って、松吉を庇っていた。この弟も、人であると天秀尼は思う。
この兄弟、今回の件を経て、より一層、絆が深まったのではないかと感じた。
その間を取り持っているのが、亡くなった綾の存在である。
東慶寺内において、綾の常識破りの行動を思い出して、天秀尼は苦笑いを浮かべた。
破天荒に見えた彼女だが、こうして死した後も人に影響を与えている。それは、彼女が生前、精一杯、生き抜いた証なのだろうと思う。
天秀尼が彼女のようになるのは、逆立ちをしても到底、無理。
だが、生き様だけは、真似することが出来るはず。
自身に与えた使命、目指す道と誠心誠意、向き合い、今を真剣に生きる。天秀尼は、そう、誓うのだった。
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